球体関節人形入門 身体編1.腕

 球体関節人形に関して書き溜めた文章を少しずつ公開している。歴史の話も続けたいのだが、今回は方向性を変えて、筆者がどう人形を鑑賞しているか、ということを文学理論を援用して書いてみよう。

異化とはなにか

 文学で用いられる技法/用語に「異化」と呼ばれるものがある。見慣れたものを再認識するために、大なり小なりの嘘を混ぜる手法、というくらいに理解されたい。『吾輩は猫である』のように猫に語らせることで人間のオモテウラを描き出す、というのが典型的だろう。
 筒井康隆の名作『口紅に残像を』あたりも分かりやすい。仮名がひとつずつ失われている世界。「ち」という仮名がなくなると「父」という言葉が消えてしまう。「お父さん」「男親」と言い換えられるうちはまだ父親は存在しうるが、言い換えが不能になると父親が概念もろとも消えてしまう。今まで読んだことのない面白い小説が読みたい、という人には是非読んでみてほしい。その筒井が大いに影響を受けた作品が川端康成の「片腕」という小説である。

川端康成「片腕」

 川端康成の短編「片腕」(短編集『眠れる美女』所収)も「腕」というものを異化効果で再認識させ、男が普段意識しない自分を知る小説だ。中年以上とおぼしい男は若い娘から片腕を借りる。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と言い、若い女は肩から腕を外し、男に預ける。男は持ち帰った女の腕に語り掛け、胸に抱き、添い寝をする。
 貸し出された一本の腕からは、我々が普段見慣れた、胴体からのびた腕とは異なる印象を受ける。女の分身のようであり、ただの物体のようでもある。女を目前にしては言えないことも言えるだろう。
 川端は中学(旧制)時代、寮で同部屋の後輩の腕を抱いて寝た、という逸話もある。これはこれで面白い話があるのだが、本筋から外れるので書かない。

腕は理性、脚は本能

 人形にも造詣が深い美術評論家のヨシダ・ヨシエ(1929-2016)が、腕は理性的に動き、脚は本能的に動く、という発言をしたという。又聞きなので正確な引用はできないが、筆者は作家の山本じんを通じて聞いた。 
 快楽や恐怖という、突き詰めると生死にかかわる状態で、それでも腕は人の意思に従って動くが、脚はばたばたと意思のコントロールが及ばない動きをする。性行為の快楽がすぐに連想されるが、恐怖も同じことだ。腰が抜けて足が動かずとも、腕は身を守ろうと動く。
 余談だが、丸い腹から上下に腰と脚がのびたベルメールの「人形」を澁澤龍彦は痙攣(スパスム)というキーワードで解説した。この痙攣は当然、エロスあるいはタナトスによって生じるものだ。ベルメールは思春期の少女をモチーフにした人形を部位ごとに解体し、並べ替えた。暴力的だ。それを少女の側から再構築、あるいは恐怖から回復させようというのが、初期の日本の人形作家の人形制作の動機だったのではないか、と思うことがある。
 話を戻す。脚フェチとして知られる谷崎潤一郎は、人間の表の顔を剝がし、快楽や恐怖を目前にした人間がどう振る舞うかに興味があったのだと思う。「片腕」や「眠れる美女」のような意思を持たない女体という設定は突飛だが、他人の目を意識せずにすむ、という状況での川端作品の登場人物の振る舞いは意外に冷静で理性的だ。

異化と人形

 人形は人の似姿にして人とは異なるものなのだから、人間に対する異化が発生する。人形を見て人間は「人間とは何か」を心のどこかで意識している。人形と向き合いながら、自分と向き合っている。
 リアリズムを追窮した、人間のミニチュアのような作品は技術的には感心されても、そこで評価が終わることが多い。異化が弱いのだ。「球体の関節」や「人形としてのかわいらしさ」などの「大なり小なりの嘘」があったほうが、人は心を揺さぶられる。
 人の肘は球体関節人形の肘とは形状が大きく異なる。しかしその「大きく異なる」部位があることで、人は人形がフィクションであることに安心し、鑑賞し、鑑賞する自分に向き合うことができる。
 ゴム引きの球体関節人形の場合、関節から仄見える暗いスリットが、人形の中身が空洞であることを気づかせる。人は人の本質が人間の中身=心にあると考えるが、美しい、かわいらしい人形が空洞であることに胸を突かれる。中身が空っぽだから、わたしたちは様々な思いを人形に投影する。わたしたちの心を反映するものという意味では、人形にも心があると言っていい。
 木製の関節を持った球体関節人形とは受ける印象が異なる所以である。
 日本の球体関節人形に影響を受けて制作をしている海外の作家のほとんどは、二重関節と呼ばれる楕円形の関節球を採用している。球体というフィクションから生じる人形の心よりも、可動域という実利に関心があるのだろうか。これはわからない。

腕、関節、掌

 腕は人形の意思を示す。
 関節球の大きさ、てのひらの形や大きさ、手の長さ。 
 美しさ、かわいらしさ、それ以外のものも含め、その人形が何を目指そうとしているかで、それらの表現も異なるものになる。 
 球体関節とスリットは、人形がフィクショナルな存在であることを気づかせる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?