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試合一週間前 試合に向けた日々は内省そのもの

試合一週間前になりました。試合が怖いです。いつにも増して怖いです。
キャリアを重ねたら試合への怖さはなくなるのではないかと考えていたのですが、そんなことはまったくなく怖さは増すばかりです。試合や練習を積み上げれば積み上げるほど、学べば学ぶほど怖さは増していきます。

立場が上になって追われる立場になるだとか、守るものがあるだとか、知らず知らずのうちに奢りが生まれるだとか、様々な要因があります。僕は単純に学びや経験を積むことで、それまで見えていなかったリスクが見えるてくからこそ恐怖が増していくものだと感じています。勝ち手も負け手も見えるからこそ、負け手が見えて恐怖が増すのです。それもやればやるほど鮮明に見えてきます。明らかに若い時分にはなかった恐怖です。若いときの試合は何かがあると期待して、それを掴もうとする希望が怖さを勝っていたように思います。

日々の練習も試合に向けた日々も試合に向けたものではあるのですが、それ以上に内省の要素が大きいと感じています。日々の練習が内省である話は先日書きました。日々の練習が自分との向き合いであるのはわかりやすい話ですが、試合もまた自分との向き合いであり内省のものなのだと今感じています。

試合に向き合う中で自身の内面と向き合うことになります。
試合に向けた恐怖は対戦相手に打ち勝つ前に自分自身との闘いであります。対戦相手と向き合っているようで自分自身との向き合いなのです。己に克てないのであれば相手にも勝てないのです。

試合もまた内省であると僕は感じています。
試合に向かう中で自分を省みて整えていく。この作業が試合をする一番大事なことだと僕は感じています。試合を定期的にしたいと思うのは自分自身を整える要素も多分にあるのだと思います。青木真也を整えていく上で大事なものが格闘技であり、日々の練習であり、試合なのです。

試合に向けた日々で煩悩や邪心が削ぎ落とされていきます。
カネや名誉や人を羨む気持ちなどが削ぎ落とされていきます。試合で勝てれば何もいらないと心の底から思えます。試合に向かう中で感謝の気持ちが湧いてきます。これは試合後に自身の存在があるかどうかわからないからこそ、ここまでありがとうと思えるのだと思うし、これは人生の最期で感謝を述べて亡くなっていくのに近い話だと思っています。人生の最期ではないけれど格闘技の試合は存在を懸けて最期になってもいいと向かうからこそ学びが多いのです。葉隠の「武士道とは死ぬことと見つけたり」。「常住死身」。

試合は自分自身のクリーニングのようです。
試合がなければ自身を省みることができずに慢心や奢りを消し去れないだろうし、人は怠惰なものだから楽な方に流れていきます。試合に向けた日々で内省をして整えていくのが僕が生きる上で大切なことです。

試合が怖い。これから試合に向かう中で自分自身と向き合い整えていきます。お前は何故闘うのか。お前は何がしたいのか。試合に向かう中で剥き出しの感情と言葉が出てくるのでしょう。照れずに恥ずかしがらずにそっくりそのまま出していきます。

ここ数年で自分自身と向き合う時間が格段に増えました。

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