菜食者が煙たがられてしまうのには理由がある。

菜食者はとかく煙たがられがちだ。
大変申し訳ないことに、ほぼヴィーガンに近い意識の菜食者である私でさえも、ちょっと苦手だなと思うことが多い。
でもそれは、決して菜食者が煙たいのではなく、価値観を押しつける人が総じて苦手だというだけの話だ。

肉や魚を食べるのが好きな人の多くにとって、「肉や魚を食べるべきではない。なぜなら――」という話は、全く聞きたくない価値観の押しつけでしかないことを、私達菜食者は理解しておいたほうがいい。
それは、菜食者が「植物にだって命があるのになんで食べてるの?」と言われるのと同じくらい、不愉快なことなのだ。
その不愉快な思いによって敵対心を持ってしまったら、お互いに関わりたくない面倒な存在となり、溝ができてしまう。

人道的観点からも、深刻化している地球の環境問題の観点からも、そして健康上の問題からも、動物を食べないことはきっと人として正解なのだと思う。
だから、そういう考えの人が増えてほしい、みんな動物を食べなくなってほしい、もっと言えば食べ物以外の動物製品も使わないでほしい、それが正しいということに気づいてほしい。
そういう気持ちのある菜食者は多いだろう。何を隠そう私がそうだ。

でも、そういう気持ちを持つことと、考え方の違う他人にそれを求めることとは別の話だ。

自分は正しいことをしている、という正義の意識を持ったときこそ、人はその危うさに十分注意しないといけない。なぜなら、行きすぎた正義は得てして争いを引き起こすからだ。
それは、このコロナ禍で日々繰り広げられる謎の争いの数々を見ていても、よくわかると思う。

多様性、という言葉が、年々重要度を増している。
多様性とは、それぞれの価値観や特性やライフスタイルを尊重することであり、それは肉食・菜食という場面でも同じこと。
その意味で私達が本当に求めているのは、菜食という生き方が当たり前に受け入れられ、菜食という選択肢を当たり前にとれる社会であって、肉や魚を食べる人達の考えを改めさせることでは、決してないはず。
にもかかわらず、肉食者に「わからせよう」と考えてしまうことで、菜食者は煙たがられる存在になる。

世界的人気を誇るマイケルジャクソンにすら、全く興味がない人やアンチが存在するように、人類全てが同じ考えになるなんて無理な話。
でも、私達が菜食者になったのと同じように、これから菜食という生き方を選択する人も間違いなくいる。おそらく年々増えていく。

私達がすべきことは、価値観の違う他人の領域に踏み込むことではなく、この先菜食を始めようとする全ての人々が、悩むことなく生きられる社会を作っていくことではないだろうか。
そうすることが結果として、菜食者人口を増やすことに繋がるのではないだろうか。
そのために、菜食者側も肉食者への理解と配慮を忘れず、お互いに尊重できる関係を築いていくことが大切なのだと、私は思っている。

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