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僕だけの記憶


いつまでも頭の中にこびりついて剥がれない記憶がある。

それは初めて恋をした瞬間の高鳴りや、酷く打ちのめされた瞬間の痛みではない。
そのほとんどが自分とは直接関係のない、ぼんやりと浮かんだ月のような記憶だ。
普段から意識しているわけではないが、ふと見上げればそこにある記憶。

保育園に通っていた僕は四階建ての団地に住んでいた。団地の前には住人用の駐輪場や駐車場が広がっており、団地の入り口から塀で囲まれたそのスペースは子供達が遊ぶ公園のようになっていた。
ローラースケートや、バドミントン、ボールがあれば遠慮も躊躇もなく全力で投げたり蹴ったりやりたい放題、今考えると駐車場を借りていた住人は気が気でなかっただろう。

実際に思いっきりサッカーボールをぶつけ、よく車のボディをへこませていた。ただ一度も注意されたり、親に苦情を言いに来たりする住人はいなかった。大人達は皆、団地に住んでいる子供達を自分の子供のように扱ってくれた。それは時代というものだったかも知れないが、きっと優しくて素晴らしい大人達だったのだ。

もし僕がその立場で車をへこまされていたら、そんな寛大でいれただろうか。
親に苦情や注意どころではなく、無言で子供の頭蓋骨を掴みそのまま体ごと持ち上げ、空中で足をバタつかせ必死で抵抗する子供に今まで味わったことの無いだろう強烈な恐怖を与え、「あっ、これはアカン。ほんまに次やったら俺は終わる」と理屈ではなく、子供の本能に直接理解させる手法を取るかもしれない。
けれど当時の僕はまだ幼く、四つ年上の姉の後をついて回り、同じ団地に住む姉と年齢の近い女の子達といつも一緒に遊んで貰っていた。

小学校に通っていた姉が夏休みのある晩だった。僕らは二階に住んでいて、同じ棟の四階には特に仲のいい姉妹が住んでいた。
姉が親に買って貰った花火をみんなでしようとその姉妹を誘っていて、僕らは晩ご飯を食べた後に団地の下で集合する約束していた。
姉が水の入ったバケツを持ち、僕が花火セットを抱え階段を下りる。約束の時間だったが、そこに姉妹の姿はなく姉と僕は四階の窓を見上げながら待っていた。

「ねぇ、お姉ちゃんまだかな?」

「うん。もうちょっと待ってなさい」

「約束したの昨日やったから、忘れてるかもしれへんで」

「それありそうやな」

「僕呼んで来ようか、四階まで二段飛ばしで行けるで」

「そんなんせんでも、もっといい方法あるやん」

そう言うと姉は、一本の笛ロケット花火を手に持ってニヤリと笑った。姉妹の部屋の窓近くに笛ロケット花火を打ち込み、その大きな音で二人に気づかせようと言うのだ。

姉が入念に位置を調整して着火した花火は、「ピイーッ!」とけたたましい音を立てながら発射され、そのまま一直線に窓から姉妹の家に飛び込んだ。
破裂音と共に姉妹とその両親の悲鳴や怒号が響き渡り、姉妹が階段を転げるように下りてきた

「ちょっと何やってんのよ!びっくりするやんか!」

姉も慌てながら、まさか部屋の中に飛んでいくとは思わなかったと必死で謝った。

「花火が窓際にあった鳥かごの中で爆発して、飼ってたインコがショックで死んだやんか!お母さんめっちゃ怒ってるで!」

そう言って怒りながら、姉妹は花火を二本抜き取るとライターで火をつけた。

花火はやるんやと思った。

10分もすると姉妹はインコの死を完全に忘れたようで、両手に花火を持ってぐるんぐるんと腕を回しながら大笑いしていた。
暗闇の中、花火によって姉の顔が照らし出される。その憂いを帯びた表情は赤や黄や様々な色彩に変化していき、僕はそればかりが気になってずっと見ていた。

それはとても鮮やかで、途方もなく哀しい表情だった。

花火が終わって家に帰っても、僕は姉のその表情が忘れられず寝付けなかった。姉は楽しみにしていた花火をどんな想いでしていたのだろう。

目覚めるともう昼前になっていた。家の中には昼食の準備をする母だけがいて、姉の姿は何処にもなかった。
窓の外から声が聞こえる。僕がカーテンを開けると外には晴れやかな表情をする姉と、その姉によって家に花火を打ち込まれ、インコを殺された姉妹が仲良く遊んでいた。

肩の力が抜けるような感覚だった。まるで昨日の出来事は、僕だけが経験した夢のようだった。

結婚して二人の子供がいる姉が、家族で花火をした時に下の弟が怖がって花火を持てなかったと笑っていた。
もう姉の記憶にすら残っていないだろうあの日の鮮やかで哀しい表情を、今だに僕一人だけが思い出していた。


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