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最初の恩人



初めて保育園に連れて行かれた時に大泣きした記憶がある。


それは幼少期に誰しもが経験することなのかも知れないが、今考えると何故あんなにも粗略な扱いをされたのだろうと腹が立つ。
僕は泣き叫んだが、それはただ母親と離ればなれになることが嫌だったのではない。理由や説明もなく、ただ置いて行かれることが怖かったのだ。

保育園の玄関を上がると、廊下はオレンジ色の柔らかいゴムのような素材でコーティングされていて、僕は靴下を履いた足の裏でその感触を確かめていた。
女の人が二人階段から下りてきて、母親はその二人に「それでは宜しくお願いします」と頭を下げると、今度は母親を見上げる僕に「じゃあ、また後で迎えに来るからね」と言った。
状況が理解できず僕が母親と一緒に帰ろうとしたら、女の先生に二人がかりで取り押さえられた。ふりほどこうと必死で僕が暴れているにも関わらず、母親はその二人に何度も頭を下げながらゆっくりと後ずさりして離れていく。

「お母さん!」と大声で僕が泣き叫ぶと、母親は目に涙を湛えたまま僕から離れ、そして最後には想いを断ち切るようにバッと背中を向け僕の視界から消えた。

僕はもう捨てられたのだと思った。

夕方になり先生に呼ばれて玄関まで行くと、そこには僕を捨てたはずの母親の姿があった。

「ほら、お母さんだよっ」

呆然と立ちすくむ僕は、先生に背中を叩かれ我に返る。満面の笑みで両手を広げる母を見ると、感情が一気に込み上げてきた。

じゃあ朝のあれ何やってん。
何で涙浮かべてたん。想い断ち切ってバッやないねん、ちゃんと説明してから行けや。

「良かったねぇ〜、ほらお母さんちゃんと迎えきたでしょ!」そう言って先生は僕の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。

いやちゃうねん、こっちの勘違いとか子供やから状況を理解出来てなかったとかじゃなくて、真っ当に最後の別れのシュチュエーションやったから。
滑り台とかジャングルジムとか楽しい遊具いっぱいあるでってお出かけの感じで連れ出して、急に知らん施設に取り残されて不安にならへん子供おる?
あれやで、君らの二人がかりで押さえつけてきた力の強さも、あの「お母さん!もう大丈夫ですから早く行って下さいっ!」って台詞もぜんぶ不安を助長させる一端を担ってたで。

無事に母親に引き取られ、その日から僕の保育園生活は始まったのだが、どうして子供の僕はあんなにも子供として扱われていたのだろう。
あの時、僕は親にも他の大人達にも一括りの「子供」として扱われてる気がして、説明をしても理解が出来ない存在として位置付けられていることに苛立った。
母親の元に歩を進めるごとに冷淡になっていく自分を感じながら、僕はその胸に勢いよく飛びついた。

保育園に置き去りにされたあの日、うなだれた僕は先生に手を引かれ二階にある教室に向かった。
「ほら、友達がいっぱいいるよ」と言って先生が教室のドアを開けると、そこには室内用の三輪車で走り回ったり、コマやけん玉で遊んだりする大勢の子供達がいた。
その光景は遊園地のライド系アトラクションに登場するカラクリ人形達のようで、僕はただ眺めることしか出来なかった。

そんな時、一人の男の子に「よおっ」声をかけられた。

スポーツ刈りのその子は短パンのポケットに手を突っ込みながら名を名乗り「よろしくな」と言って僕の肩に手を置いた。
僕がよろしくと返して顔を見ると、今度は恥ずかしそうに目を逸らして「とりあえず付いてこいよ」と歩き出した。

僕は何故か、その仕草だけでその子を信用できた。

教室から出て行くその子に「まだ教室から出ちゃ駄目よ」と先生が声をかけると、「ちょっと案内するだけ」とその子は片手をあげて構わず進み、僕はトイレやプールまでの経路、運動場の隅にある三輪車置き場の場所を教えてもらった。
三輪車にはスピードの出る新しいタイプと、そうではない古いタイプがあり、慣れるまでは先に行ってスピードの出るタイプの三輪車を二台取っておいてやるとその子は言ってくれた。
コマの回し方も教えてもらったし、僕を積極的に遊びの輪に入れてくれるその子のおかげで、何のストレスもなく保育園の生活を送ることが出来た。

その子のお迎えはいつも遅く、僕が帰り際に「じゃあまた明日、まだお母さん来ないん?」と聞くと、「おう、俺の心配はせんでいいぞ」と答えるのがおかしかった。
一度その子のお母さんが早くお迎えに来たことがあり、僕がどんなお母さんか見てみたいと言うと、その子は急に神妙な面持ちで「俺のお母さんめちゃくちゃ太ってんねん」と告白した。紹介されたお母さんは実際にめちゃくちゃ太っていて、自己紹介すると当時あごぐらいまであった僕のおかっぱの髪を持ち上げ「暑いやろ!切り!」と大きな声で笑い、息子を担ぎ上げ帰っていった。
僕はそれだけで、お母さんもめちゃくちゃ好きになった。

「俺、お父さんおらんねん。仕事中の事故で死んでもうた」

それは僕らが三輪車で疾走している時だった。
三輪車の後ろに小さな荷台が付いていて、僕らはその荷台に片足を乗せ、もう片方の足で地面を蹴って進むことで信じられないほどのスピードを出して走っていた。
僕らはとても幼かったけど、風を切って進みながらどこまでも身軽になっていく自分を感じていて、きっとあの高揚感の中でなら大丈夫な気がしたんだと思う。
でもあの高揚感の中で聞いたからこそ、死という言葉は僕の脳裏に焼き付けられた。

その子はいつも僕を否定せずに誉めてくれた。
僕が悪いときでも「お前の気持ちも分かるけどな」と必ず言ってくれて、その言葉を聞くと、なんだかとても自分が悪いことをしたような気になって反省できた。
僕らは同じ小学校に上がりいつも一緒に遊んでいたけれど、高学年になる頃から遊ぶ頻度は減っていった。クラスが別になれば友達も変わり、僕はサッカーも始め毎日が忙しくなった。
それでも新しく出来た友達との立ち回りや、サッカー部で任されたキャプテンとしての役回りは、全部その子が教えてくれた思いやりのおかげで上手にこなせた。

中学三年でまた同じクラスになると、その子はもう受験する高校を決めいて勉強熱心になっていた。
きっとそれは母親しかいないという家庭環境も関係していたのだと思う。その子は僕なんかより将来を明確に、しっかりと判断しなければいけなかったんだ。
三年の終盤になり僕も母親から塾に行くように言われ、母親同士の仲が良かったのでその子が通っている小さな学習塾に行くことになった。
特に勉強する理由も見当たらなかった僕は、自転車で家を出るといつも塾の向かいにあるコンビニでマンガを立ち読みしていた。
するとコンビニのガラスをコンコンと叩く音がして、顔を上げるとその子が立っている。その子はいつも僕を迎えに来てくれて、塾に戻った僕はその子の横でひたすらノートに絵を描いていた。結局僕は、ただその子の勉強の邪魔をしに塾に通ってるようだった。

クリスマスの日、数学のプリントを配る塾の先生に「なんでクリスマスの夜にこんなことするんですか?」と僕が質問すると、先生より先に「塾やからや」とその子が答えた。
「今日ぐらいはピザ頼んでパーティーでもいいんじゃないですか?」と僕が勝手な提案をすると、他の子供達も賛同し盛り上がり始めた。
するとまたその子が先生よりも先に「分かった、分かった、ちょっと静かにしろ。ほんならこのプリントを30分以内で全員終わらせようや。そしたら今日はパーティーでいいやん」と、僕よりも勝手な提案で両者の折り合いをつけてしまった。

ピザが届くとその子が一番楽しそうで、なんだか僕は少しだけ自分がいいことしたような気分になれた。

中学を卒業すると全く会うことはなかったけど、成人式の日に僕らは一度再会できた。
他の友達と成人式に行っていた僕が、会場の入り口に一人で立つその子を見つけ大きな声で名前を呼ぶと、その子も僕に気付き照れくさそうに軽く手をあげた。
こっちに来いよとまた大声で叫ぶと、しゃーないなぁという顔をしてこちらに歩いてきた。
一人でもちゃんと成人式に来てるくせに、このしゃーないなぁ感出すところがやっぱり信用できると僕は心から思った。

僕の人生には何人かの恩人がいて、その人達は皆、僕と世界を繋ぎ止めてくれた。
その子は最初に僕を救ってくれた大切な人だ。

だから時々思い出しては感謝する。

思い出すと僕はいつも、一度も会うことが出来なかったあの子のお父さんの顔を想像してしまう。


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