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人が生きるのに「不正解」はない。ただ、ストーリーがあるだけ

「それは自業自得だろ?そこに不満を言うってだけで違うんじゃねえの?」と言う彼がいる。

最近思うのだが、わたしという人間は恋愛というものにつくづく向いていないのではないか?と・・・

そう、わたしは思ってしまうのだ。

ああ、またか。。否定から入るこのパターン


人は、37歳・独身となると個人の価値観を強く持つのかもしれない。
だから、自分の中の「正解」や「不正解」を価値観の中に置くことは、あったほうがいいと、わたしは思う。

ただ1点、自分の中の「正解」「不正解」というのは、あくまでも自分の中にあるもののことで、他の人には通用しないと認識することなんだ。


彼にとっての「正解」が、わたしにとっての「正解」ではないし、「不正解」だって同じだ。

わたしが大事にしていること。

どんな人の価値観にも、人が生きることに「不正解」はないってことだ

要は、本質で人をみるためには、なるべく自分の「正解」の感覚は奥にしまいこみ、この際、相手に押し付けずにそのストーリーを探検してみることなのだと思う。

だからこそ、人生は「生きている」と感じ、おもしろくなるのだと私は日々思う。その思いで、たくさんの女性へ接客をとおして人間関係を築いているんだ。

先日、アルバイト販売員のわたしが経営者の人たちの前でわたしの価値観について発表させてもらいました♪


「なぜこの人はこういう風に思うんだろう?」
「なぜ「おかしい」と感じるようになったんだろう?」

そういう風に、その人の持っている、その人の生きて来たストーリーに、いまの時点での「正解」が眠っているんだと思うんだ。

だから結果的に本質は、正解かどうか?ということにあるのではなく、個人の生きて来たストーリーにあるんだと思う

本質が「正解・不正解」で判断できないのであれば、彼がわたしに言う「自業自得だろ?違うんじゃねえの?」は、本当に空虚なものに当たるわけ。


怒りは感じない。

ただ、とてつもない虚しい空虚な気持ちになるだけだ。
そうね、出会いも別れも虚しさも、すべてわたし自身の味にしていこうかしら??


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