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苦いホットコーヒーが好きな理由

 わたしはホットコーヒーにはミルクも砂糖やガムシロップも入れない。アイスコーヒーには入れちゃうけど。

 友達と喫茶店に行か機会はそれなりにある。けど、この2つのなにが違うのと聞かれたことは一度もないし、自分のこういうこだわりついて話したこともあまりない。もし話したことがあるなら自発的に会話しようとしている時だから、多分わたしはその人と少しは仲良くしたいという気持ちがあるのだと思う。

それはさておき、アイスコーヒーの場合はグラスだから、ガムシロップとミルクの流れがよく見える。そこが好き。

順番もある。まずはミルクからいれる。そのあとガムシロップをいれる。これが逆だとミルクが氷の上で溜まってしまい、流線が生まれない。

ガムシロップの方が底の方に落ちていくから、その重さに巻き込まれたミルクが黒い水中に白線を描く。ストローで混ぜるのが勿体なくなる。どうしてあんなに綺麗なんだろう。

ホットコーヒーはそういう楽しさがない。あっても、とても平面的。なぜならマグカップだから、透き通ってないから。けど、掌が暖かくなるのはとても好き。落ち着く。

こういうことを考えていると「ていねいなくらし」思い出す。わたしも少し前は「くらし」を自分でカスタマイズすることに対しての抵抗があって「ていねい」にする必要なんかないと考えていたけど、たぶんそういうことではないんだなと今は思う。捻くれていたと思う。ほんとうはもっと、そんな汚いことじゃなくて、くらしと付き合うことで生まれる感情と向き合うことだと思う。それがどんな感情でも。綺麗な紙袋をくしゃくしゃにしちゃうこと。

コロナ禍で4月から7月ぐらいまで外出の自粛をしていてそう思った。パンを作ってみたりとか料理に力を注いでみたりとか、そういう部分のことを言いたいわけじゃない。自分の生活の質を上げることのことじゃなくて。そういうゲームのことを言っているわけじゃなくて(それはそれで楽しいけどね)、自分の生活について見ることなのかも。それと出歩けなかったりや友達に会いにくかったり、することをつくれなかったり、そういった「できないこと」とうまく付き合っていくことも意味していると思う。要は感情に良し悪しをつくらないで、その実感を知ることなんだろうな。

「できないこと」を「できること」にしてもいいし、しなくてもいいって凄く気楽じゃない? 強制されないっていうのはさ。

まあ自粛期間中は苦しかったけどね。ほんとうはもっと遊んだり、人と会ったりできたのになと思ってたし。つまらないなと思ってた。

でも、くらしは停滞してもいいんだよね。

退屈でも大丈夫なんだよね。

話を元に戻すと、わたしはホットコーヒーに苦味を求めてる。いや違う。もっと広くて、コーヒーには苦味を求めてる。だから、サラサラした苦味のアイスコーヒーには満足できなくて、ミルクとガムシロップをいれて、甘くてまろやかにしてしまう。でもホットコーヒーには満足できる苦味がある。そしてその苦味は美味しい。

ホットコーヒーの美味しさは他の食べ物や飲み物と比べると奇妙だよね。

だって苦みを美味しく感じるというのはおかしな話じゃない?

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