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宝くじ…そして芝濵 (2)

▽引き続き映画「億男」のレビューです。前回は一男の家族の視点で書きましたが、今回は親友の九十九との視点です。

▽九十九は同じ大学の落研のメンバーで、「芝濱」を得意の演目としていました。芝濱は、古典落語の人情噺ですが、大金を手にした魚屋が道を外しそうになるところを、嫁の機転で切り抜け、二人で充実したいい人生を送るという話です。九十九自身も、学生時代にアルバイトで貯めたお金を少しづつ株式に投資して、結果的にはツキも味方して、一億円もの大金を手にしまうという設定です。この時、九十九はお金の正体とはいったい何だろうという疑問にぶつかります。

▽その後九十九は大学を辞め起業し、3人の仲間と初めた会社は大きく成長し、200億円の評価を受けます。九十九は売却に反対しますが、結局押し切られ4人はそれぞれ自分の持ち分を取って会社を離れていきます。一人はギャンブルに夢中になります。競馬の掛け金が百万円という単位ですから、もはやお金が欲しいのではなく、限りなく高まる高揚感を求めて生きている感じです。もう一人は、怪しげなマネーセミナーを開催し、その教祖としてお客に高揚感を煽り、会場でお金を捨てさせるパフォーマンスを仕向けていきます。彼は、お金に対する執着心も旺盛で、このお金を拾って稼ぎにしています。もう一人の女性は、平凡な結婚をしたものの、お金の温もりを常に感じていたいお金フェチで、団地の壁中に現金を隠して生きています。

▽九十九は、「お金の正体を99%までわかっていた。けれども後の1%がわからなかった。だから一男を通してその答えを知ろうとした。」と言っています。99%とは、起業仲間の3人を始めとする人間関係の中で確信できたのでしょう。その答えは、本人が言うように、「お金は何にでもなる、ようは持ち主次第なのだ」ということだったようです。しかし1%確信できなかった理由は何か、それは自分が心から信頼した一男という人間がお金を持った時はどうなのか、ということだったのでしょう。映画の中で描かれている一男は、借金に苦しんではいるものの、その責任を他人に押し付けたり、他人の力で解決しようともしない、ある意味実直な人間に描かれています。

▽九十九の疑問の1%は、一男が解決しました。一男は3億円の大金を持っても、一男のままでした。突然消えた九十九とお金に対して、当初あせりはしたものの、次第に落ち着きを取り戻し、九十九を信じている姿勢は貫かれています。九十九は、人はみんなお金の存在で変わってしまう、といっていますが、私はむしろ、大金を持ったことによって、みんな素の姿が現れている、と感じます。お金はそもそも透明な存在で、突然大金を所有すると、その人の人となりをあからさまに映し出してしまう、という気がします。

▽九十九の起業仲間の3人も、事業がもっとゆっくりと成長していれば、今頃議論をしながら、せっせと汗を流して働いていたかもしれません。それは起業間もない頃の様に厳しくても楽しい時間だったかもしれない。しかし、大金によって「今までのようにあくせく働かなくてもいい」という解放感から、生活のための箍が外れしまいました。このお金で今までと別の人生が始まるはずだと、勘違いしてしまったのかもしれません。一男もまた、娘に「パパ、人がいいもんね」と言われてしまうくらいの本性がでているにすぎませんし、家や車を買おうといっても万左子が無反応だったために踏みとどまっているともいえると思います。

▽お金は拡声機のような存在で、自分の独り言がみんなに伝わるような大きな音に増幅されます。やがてそれが自分の声のような錯覚さえしてしまいます。しかし、私が声を出さなければ、しんと静まり返ったままです。お金には人を引き付ける力はありますが、それ自体では何もしません。私たちが時間をかけて何かをやろうとするとき、お金は小さな私たちの力を増幅してくれます。その力はとても大きいので、なんでもできるような気がしてしまいますが、できないこともあります。それは一男が感じたこと、「お金で借金は返せても、家族は元通りにならない」、つまりお金をもってしても「地位財」を「非地位財」に変えることできない、ということだと思います。







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