🅂8 暗示にかけないで...（アンカリング）

「A little dough」 第１章　自分をどこまで信用する？　🅂8

▽その昔「ピザって１０回言って」という前振りの後に、肘を指して「これなーぁに？」というクイズがありました。私はヒューリスティクス依存症なので、迷わず「膝」と答えたものです。ほかにも「シャンデリアを10回言って」の後に、「毒リンゴを食べたのは？」と訊かれて「シンデレラ」と答えたり、この手のクイズにはなすすべもなく引っ掛かっていました。誰だって１０回も繰り返せば、呪文を唱えたようなものです。呪文は心に引っ掛かり、そこから離れられないままクイズに答え、イージーな間違いを起こしてしまうというものです。

▽カーネマンはこんな二つの質問の例を挙げています。
（質問１）
・ガンジーが亡くなったとき、１１４歳より上でしたか、下でしたか？
・ガンジーは何歳で亡くなりましたか？
（質問２）
・ガンジーが亡くなったとき、３５歳より上でしたか、下でしたか？
・ガンジーは何歳で亡くなりましたか？
この例では、最初の質問の答えはどうでもいいのです。上だろうが下だろうがそんなことは関係ない、１１４歳や３５歳という年齢情報を与えるのが目的です。答える側は、質問１では１１４歳から年齢を下げていきます。質問２では、３５歳から年齢を上げていきます。結果的に１１４歳を提示された場合は、３５歳を提示された場合に比べて、かなり高い年齢を言わされる羽目になるということです。

▽このように心の引っ掛かりとなった言葉や数字をアンカーと呼び、こうした効果を「アンカリング」といいます。アンカーとは錨のことで、船が錨を下ろして停滞している状況を例えとして使っています。カーネマンは、アンカリングには大きく二つのタイプがみられるといっています。

▽ひとつは「調整プロセスとしてのアンカリング」です。これはエーモス・トヴェルスキーの考えのようですが、例えば未知の数字を見積もるときに、アンカーとなる数字を起点として、その後妥当な数字まで調整を加えるというものです。しかし実際は、妥当性に確信が持てるわけではないので、たいてい調整は不十分なところで終わる、といっています。

・ジョージ・ワシントンが大統領になったのは何時でしょうか？
・エベレストの山頂でお湯を沸かしたら、沸騰する時の温度は何度ですか？
（中略）ジョージ・ワシントンが大統領になったのは、独立宣言が採択された１７７６年より後に決まっている。また、エベレストの山頂での沸騰温度は、当然ながら１００度以下である。そこであなたはアンカーから離れる根拠を考えながら、正しい方向へ調整していくことになる。

出典；ダニエル・カーネマン「ファスト&スロー」
早川書房／ハヤカワノンフィクション文庫

この例では、ワシントンが大統領になった年を知らないのであれば、知っている情報（独立した１７７６年）をアンカーにして「５年後だったかな、１０年後だったかな」と調整していくことになります。アンカーや調整のための情報の精度によって、答えが変わってくるということです。

▽もう一つは「プライミング効果としてのアンカリング」です。冒頭で例示した「１０回言って」クイズは、まさにこれですね。その言葉がどんな言葉であってもひとこと先に行っておくだけで、いわれた人の判断や対応が変わる可能性があるということになります。たとえば、
・ガンジーが亡くなったとき、１４４歳より上でしたか、下でしたか？
・ガンジーは何歳で亡くなりましたか？
という質問をぶつけると、さすがに１４４歳という年齢をアンカーにすることはしませんが、「相当年老いていた」という印象を持つことにはなります。否定しつつも影響は受けている、カーネマンはこれを「暗示」による効果の一種だと考えていたようです。

▽アンカリングは、私たちが「あり得ない」と否定した言葉やまるで気付いていない刺激、あるいは過去のあいまいな記憶ですら、情報を欲しがる私たちの心を見透かしたように脳を引き留め、思考や判断そして行動に影響を与えます。その影響力の強さをカーネマンは以下の様に述べています。

仮にあなたがつねにアンカーを意識し、それに注意を払ったとしても、アンカリングがあなたの思考をどう導きどう制限するのかは、あなたにはわからない。なぜなら、アンカーが変わったりなくなったりしたら自分の考えがどう変わるのか、想像することは不可能だからだ。

出典；ダニエル・カーネマン「ファスト&スロー」
早川書房／ハヤカワノンフィクション文庫

▽ヒューリスティクスは素早く問題を解決するのための「近道」や「置き換えを」を行う仕組みで、私たちがこれを使うときは必ず「情報」を探します。代表性ヒューリスティックにおける「ステレオタイプ」、利用可能性ヒューリスティックにおける「想起性が生み出す何か」などもまぎれもなくこの「情報」です。そしてアンカリングも同じようにアンカーになる「情報」を探します。

▽ただ、手段としての「近道」や「置き換え」ですから、問題解決そのものではありません。私たちは、ついついこの事実を忘れてしまうのです。それはシステム１がせっかちなのと、近道や置き換えであれ、その答えがおぼろげにでも見えてくると、思わず結果に跳びついてしまうからです。

▽推定のための情報は、それぞれに大きな問題を抱えています。アンカリングの場合の性質の悪さは、カーネマンが示唆する暗示性にあるような気がします。ワシントンやエベレストの事例の様にアンカーに根拠があれば、そこそこの解答が得られます。問題はアンカー（情報）が欲しいばかりにその質を問わないケース、例えば白雪姫という答えは持っているのに、プライミングの暗示をうけてシンデレラといってしまうようなケースです。これを防ぐためには、「１０回言って」といわれたら、用心してかかることです。それしか、方法はないようです！