レキシ

私は歴史に興味が全くなかった。理由は、単純明快。歴史を学ぶなんて意味がないと思っていたからである。インターネットもスマホもない時代を知って現在に何の恩恵がある?そんな疑問のわだかまりは私の心の中に住み着き、私もこいつを迎合していた。

高校時代では、出来るだけ歴史の勉強を避けた。世界史も日本史も勉強していない。地理にも少し歴史的要素はあるが、それらは現在と近いこともあり、現在とつながっている感じがして、学ぶ意義があると思っていた。

子供の頃から外国に憧れていた。ヨーロッパはもちろんのこと、日本以外のアジアにも興味があった。特に印象的なのは、小学校低学年の頃テレビで見た、フィリピンのスモーキーマウンテンである。自分と同じくらいの子供がゴミを漁って生計を立てていたのだ。そんな現場に、ある女性が取材し、ある家庭で出された料理を食べるシーンが映し出された。その女性は食べて号泣していた。それが、食べたことのないほどの美味しさに感動した涙ではないことは、子供ながらに理解した。しかし、その家庭の子供たちはとても笑顔で感想を心待ちにしている様子だった。この女性とフィリピンの子供たちが同時に映るその場面は、一緒に居合わせているのにもかかわらず、別次元で生きているような歪みが感じられた。この歪みは今でも脳裏に焼き付いている同じ人間なのにこんなにも違うものなのかと。

これが契機となり英語を勉強したいと思った。勉強してみるとすごく難しいかった覚えがある。はっきり言えば、苦手だった。特に、冠詞のつけ忘れが酷かった。無冠詞、不定冠詞、定冠詞の区別が本当によく理解できなくて、機械的に覚えていた。

この疑問は大学時代のオーストラリアでの留学で解消された。ある時、現地の人が何らかのソースがかかっていることをwith a sourceと答え、aをはっきり付けた。ソースはどろどろで液体みたいなもののはずなのに。この疑問は後に解消された。端的に言えば、はっきりしているものは冠詞を付け、はっきりしていないものには冠詞を付けない。日本語では、形而上のことを話しているのか、それとも形而下のことを話しているのかはっきりさせない。しかし、英語は明確にしなければ話せないのだ。

このような違いがどこから来ているのかを探ろうとした時、歴史に出会った。特に神をめぐるキリスト教の論争である。宗教改革が起こるまでの間出来事が今の資本主義の根本を作ったとされる意見が述べられた論文を読み、歴史ほど今を知るのに必要なものはないと思った。今を知るためには昔を知ることが大切であるという逆説が、あの、私の歴史に対するわだかまりを吹き飛ばしたのである。

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