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【小説】悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ【完】

こちらの小説は、『小説現代長編新人賞』で一次選考通過した作品です。
多くの人に読んでいただければと思います。ぜひ、感想などいただけると嬉しいです。

ぜひ、悩みのヒントを差し上げます ヒント屋キタミ①、②、③を先にお読みになってからこちらをお読みください。



 ◇今月の人生相談◇

【十九歳 専門学生 K・Uさんからの相談

 私は、シンガーソングライターを目指している19歳、女子です。

 この間、初めての路上ライブで、自分で作詞作曲した歌を歌いました。私が作った歌を聴いた友達から、「あなたの歌詞は心に響かない」と言われてしまいました。どうすれば、誰かの心に響く歌詞が書けるようになるのでしょうか。アドバイスをください。ちなみに恋愛ソングを中心に歌っています。】

 

 ◇アンサー◇ 

【二十九歳 会社員 Y・Kさんからの回答

 あなたが一生懸命作った歌をお友達から心に響かないと言われてしまったのは、とてもショックな出来事だったと思います。心情、お察しします。しかし、私はただの会社員であり、音楽の専門家ではありません。ですので、素人の私が考える、恋愛ソングでのアドバイスをお伝えしようと思います。参考程度に聞いてください。

 恋愛ソングでポイントになるのは、大まかに分けて2点あると思います。ポイント1点目は、あるあるエピソード。続いて、2点目は、独自性やオリジナリティーです。

 まず1点目、あるあるエピソード。御察し付くかとは思いますが、あるあるエピソードとは、恋をしている時や失恋をした時に、思わず「あるある〜」と言ってしまうようなシチュエーションのことです。「あるあるエピソード」は、共感性が高いことが特徴です。みんなが似たような経験をしたエピソードを歌詞にすることで共感が生まれます。その共感によって、あなたの歌詞を聴いた人がまるで自分のことを歌っているかのように思え、それが誰かの心に響く歌詞になるのかもしれません。ですので、思わず「あるある」と頷いてしまうような恋愛でのエピソードを考えてみてください。

 参考までに、恋をしている時の『あるあるエピソード』の歌詞を作ってみました。

【〜♪ 今日、何食べたい? 君に聞かれた晩ごはん 「すき焼き食べたい」 なんて照れ臭くて言えなかったよ 「しゃぶしゃぶ」ってぼくが答えれば 「また、それ? 好きだね」と君は笑うんでしょ】

 この歌詞の解説をすると、好きな人の前では、「すき焼き」の「すき」という単語すらも言えない片思いの様子を表現しています。私も、中学生の頃、「今田くん」という男の子を好きになり、意識し過ぎたあまり、「今だ」「今だから」「未だに」「未だかつてない」という単語が言えなかったことがありました。

 また、主人公の【ぼく】が、「すき焼き」とすら言えないことに対して、相手の【君】は、「また、それ? 好きだね」と、簡単に「好き」という単語を言えてしまう、二人の関係性も想像することができます。

 続いて、ポイント2点目は、独自性やオリジナリティーです。あなたがシンガーとして成功するには、あなた独自の世界観を歌詞に落とし込む必要があります。独自性やオリジナリティーには、【あなたらしい】ということが重要です。ですから、恋愛での情景をあなたらしく切り抜き、それを歌詞にしてみてください。今までの恋愛経験や過去の出来事の中に、あなたがあなたらしく感じた情景はありませんでしたか? 「これって共感されるかな?」とか、「この話、友達に話したら笑われたんだよな」というエピソードでもいいのです。あなただけが感じた情景、それこそがオリジナリティーなのです。

 参考までに、私オリジナルな恋愛エピソードをご紹介します。

 私もあなたと同じ19歳の頃、当時付き合っていた恋人と別れ、ひどく落ち込んだことがありました。ちょうどその頃小学校4年生の男女がドッチボールの全国大会に向けて日々奮闘するドキュメンタリー番組がテレビで放送されていました。私は、その番組を見た時すごい衝撃を受けたのです。

「逃げるなー」

 テレビでは、相手の攻撃のボールに怯み、逃げてばかりいる内野の児童にコーチの怒鳴り声が体育館中に響き渡りました。

「ボールが怖いです」

 コーチに叱られた児童は告白しました。その時、コーチが言ったのです。

「ボールと向き合うんだ。ボールを受け止めろ」

 コーチの言葉は、なぜか私の胸にも刺さりました。それは、私には内野で逃げていた児童が私自身と被ったからでした。私も、いつの間にか、恋愛というドッチボールで恋人からのボールをキャッチしようとせず、内野で逃げてばかりいたことに気づいたのです。恋愛とは、恋や愛、好き、愛してる、そういった感情ばかりではないのです。恋愛とは、時に試合なのです。恋愛においてもドッチボールのように、恋人からボールを投げられることもあります。けれど、そのボールを怖がり、受け止めようとせず、内野で逃げ回っているだけでは試合にはならないのです。恋愛にはならないのです。恋人のボールに向き合わなければならないのです。失恋した私は、小学生のドッチボールから自分を見つめ直すきっかけをもらいました。そして、それは失恋から立ち直るきっかけにもなりました。小学生のドッチボールと失恋。一見、かけ離れたもの同士ですが、これが私独自の世界観なのです。あなたにも、あなた独自の世界観があるはずです。それを歌詞に書いてみてください。あなたの世界観は、きっと誰も真似ができない歌詞を作り上げることができると思います。

 最後になりますが、シンガーにとって一番大切なことをお話するのを忘れていました。シンガーにとって一番大切なことは、歌詞よりも歌唱力だと思います。歌唱力があるからこそ、歌詞にも説得力が生まれるのです。歌が心に響かないと言われたのであれば、一度ボイストレーニングに通われてみてはいかがでしょうか】

 

 人生相談のコーナーを読み終えて雑誌を閉じた。読み終えた雑誌を元の場所に戻すため、カウンターの右側に腕を伸ばした。雑誌を置いた時、雑誌の表紙に【TAKE FREE】と書かれた文字が目に入った。

「色々言っておいて、最後はボイトレに通えって」

 思わず笑ってしまった。音楽のプロでもない会社員の素人に自分の相談を回答された19歳の女の子を少し気の毒に思った。けれど、音楽に関して素人の会社員が作詞の相談に回答をしなければならないのも、十分気の毒だと思った。

「何とも言えないよな」

 同情した。同情するのは相談者の女の子でもあり、回答者の会社員でもあった。

 コーヒーの匂いが漂ってきた。香りに反応して顔を上げると、カウンターでコーヒーを淹れる店主の顔を覗いた。店主の後ろの食器棚にふと目線をずらす。食器棚の中にカバンのような物が見えて、俺は思わず目を凝らした。喫茶店であれば、本来皿やコーヒーカップが入っている食器棚になぜかブランド物の財布やバッグが入っていた。食器を入れることを想定して作られた食器棚の中で、不釣り合いなバッグや財布が詰め込まれている。

「金目の物か」

 店主が立っているカウンターの中へは、カウンターの左側に付いている柵を通らないと入れないようになっていた。柵と言っても、赤ちゃんやペットを通れないようにするための簡易的なロック付きの柵だった。けれど、ロックをいちいち外すのが面倒なのか、柵は常に開いているままだった。一応、金目の物は盗まれないように店内には置かず、カウンターの食器棚にしまっているのだろう。ブランド品を質屋みたいな鍵付きのショーケースに入れるのではなく、備え付けの食器棚に入れてしまう雑さが統一感もなく見栄えを気にしていない店内によく似合っていた。

「ここって、なんでもありのリサイクルショップみたいですね」

 俺はカウンターの店主に話しかけた。

「よく言われます」

 店主は微笑みながらテーブルにコーヒーを置いた。どうも、と俺は軽く頷いてからコーヒーを一口啜った。店主も自分のコーヒーを啜ると、ソーサーにカップを置くと同時に話し始めた。

「初めての方なので、簡単にこの店の説明をしますね」

 店主が説明を始めたので、俺は慌てて店主の話を遮った。

「ここの店のことは知っています。以前、ここでヒントをもらったという人と知り合いで、その人から話を聞いて今日はやってきたんです」

「そうですか。それなら話は早いですね」

 店主は説明の手間が省けたことを喜ぶように笑った。俺は知っている情報を店主に話した。

「あなたがヒント屋の店主の北見さんですよね。ここではまず自分の悩みを話して、店主のあなたからヒントをもらう。それで悩みが解消したら、今度は自分のヒントをこの店に持ってくる。俺の知り合いは宇宙図鑑をヒントにもらったって言っていました。渡したヒントは……。何だったっけな。すいません、忘れちゃいました」

 店主は記憶を辿るように顔を上げ、斜め上を見てからパッと笑顔を見せた。宇宙図鑑のヒントを渡した相手のことを思い出したのだろうか。

「店のシステムについては合っています。ですが」

 店主は、以前と違ってここの店のルールが変わった点について説明を加えた。

「その、知り合いの方が以前ここに来られた頃と変わった点が一つありました。ここでは相談者様のことをニックネームでお呼びするようになったんです。お悩みを話していただく前に相談者様のニックネームを決めております。さっそくですが、なんてお呼びすればよろしいでしょうか?」

「ニックネーム?」

 突然変なことを聞かれ、俺が戸惑っていると店主はそんな様子に慣れているように質問を重ねた。

「あやとりとちりとり、どちらがお好きですか?」

「はい?」

「あやとり、と、ちりとり、どちらがお好きですか?」

 店主は聞き取りやすいように、ゆっくりと言った。ゆっくり言えばわかるとか、そういうことではなく店主の質問の意図がわからなかった。

「何で、あやとりと、ちりとりなんですか?」

 俺は店主に尋ねる。

「何となく」

 特に深い意味はありません、と店主は笑った。

「あやとりと、ちりとり……。なら、ちりとりかな」

 店主のことを変わった人だな、と思いながら俺は質問に答えた。

「では、あなたのニックネームはちりとりさんに決まりました」

 店主はノートを広げ『ご新規 ちりとり様』と今日の日付の隣に書き込んだ。それから、店主は話を聞く体勢になった。俺は相談を話し始める前に一つ店主に質問した。

「なんで、相談者のことをニックネームで呼ぶようになったんですか?」

 店主は意外なことを聞かれたような顔で俺の顔を見つめた。

「個人情報に厳しい時代ですからね。では、早速お話聞かせてください」

 店主は俺の質問を軽く受け流すようにコーヒーを一口啜った。

 

 ❇

 

「なるほど。つまり、ちりとりさんは現在作家を目指しているが、それを続けるべきか悩んでいるという状況なんですね」

 店主は俺の相談を聞いて、そう要約した。

「まぁそうですね。簡単に言えば」

 俺の悩みを手短にまとめれば、そういうことだ。やりたいことがあるようで無くて、いつも何かに地団駄を踏んでいる30手前の男のよくある話だ。

 店主は俯きながらノートを見ていた。さっき俺の相談を聞きながら店主は何やらメモを取っていた。店主は何かを探るようにノートの文字を見つめている。そんな店主を見つめながら、さっきは詳しく話さなかった奥底の自分の本音部分を考える。

店主に自分の悩みを話した時、悩みを打ち明けるというよりは説明しているような気分だった。自分自身の現状を話したつもりだが、本音や思いのようなものは口にはできなかった。いつも人に相談する時に思う。誰かに悩みを相談する時、どれだけの人が自分の本音を正直に全部さらけ出せるんだろう。さらけ出せないことに後ろめたさを抱えながら、それでも本音を言えないのは俺だけなんだろうか。たとえ相談を聞いてもらっても相談者が肝心な部分を話さずに自分の都合の良いように話してしまったら意味があるようには思えなかった。

 メモを根気よく見つめる店主から視線を外し、俺は冷めないうちにコーヒーを味わった。

 

「作家になりたい」

 漠然とそう思い始めたのは高校生の頃だった。本格的に作家を目指そうと決めたのは大学の就職活動の時期だった。

 大学時代は映画研究会と読書愛好会のサークルを掛け持ちしていた。俺の周りには脚本家や作家志望の奴が多かった。よく酒の席で自分の好きな映画や監督、作家について話した。脚本家や作家を夢見る俺たちは、互いに自分の夢を語り合った。けれど、大学を卒業して就職をしなかったのは結局俺くらいだった。大学時代、未来に夢見て酒を交わした仲間たちも就活の時期になれば当然のように茶色から黒に髪を染め直し、会社説明会に足繁く向かっていった。俺と同じだと思っていたサークルの奴らは、将来を冷静に考える真っ当な奴らだったことを知った。でも、あの頃の俺はまだ平気だった。まだ、夢や希望を持っていたから。

 25歳を過ぎたあたりから少しずつ雲行きが怪しくなった。そして、夢から覚めたように27歳を迎えると周りの反応が一気に変わり始めた。

「飯田、久しぶり。最近、仕事は?」

 久々に会う友人たちは必ずこの質問をした。

「相変わらずだよ」

 俺は毎度変わらずそう答えた。

「まだ作家目指してんの?」

 俺の夢に半笑いで流す奴もいれば、将来を真剣に考えろとなぜか怒る奴もいた。中には結婚を考えず定職にも付かないことをこの世の悪のように捲し立てる奴もいた。

「まぁな」

 一通りの攻撃に俺はこの一言で全てを切り抜けてきた。「まぁな」に続く言い訳や説得をしなかった。そんな、言い訳もしない俺を周りは冷ややかな視線で見つめていた。

 どうしてみんな俺に夢を諦めさせたがるんだろう。お前らが自分の人生に満足ならそれで良いじゃないか。そんな風に思うと同時に、彼らの言う通りの部分を認めざるを得なかった。就職をして働きながら本を書いている人がいるのも知っていた。将来のことを真剣に考えているかと聞かれれば、苦笑いをするしかなかった。彼女がいたこともあるが結婚なんて考えたことなんてなかった。本音を言えば、同世代の友人たちのようにストレスを抱えながら働きたくなかった。作家の夢を言い訳にしている部分もあった。

 俺だって焦っていた。このままで良いわけがなかった。でもどうすればいいのかわからなかった。いや、わからないんじゃない。どうすればいいか考えることが面倒だった。

「28にもなって夢なんて追いかけるなよ」

 28歳になると年齢を引き合いに出されることが多くなった。夢を追いかけていい年齢制限があるんだろうか。28歳とは、28年目の人生の始まりではなく夢を追いかけてはいけない年齢の始まりなのか。

 

「飯田?」

 ある日のバイト帰り、自転車のロックを外していると後ろから名前を呼ばれた。声の方に振り返ると、懐かしい友人が立っていた。

「館林?」

「飯田。久しぶり」

 館林はもう一度俺の名前を呼んだ。館林は、大学の同級生で読書愛好会サークルの同じメンバーだった。館林は俺が作家になりたいという夢を唯一大学時代から応援してくれる奴だった。

「館林、久しぶりだな」

 旧友との再会に俺は喜んだ。

「飯はまだだよな? これから飲みに行かないか?」

 舘林に誘われ、俺たちは近くの居酒屋に飲みに行くことになった。

「館林、今日はスーツじゃないんだな」

 コースター代わりのおしぼりにジョッキの底を押し付けてから聞いた。サラリーマンの館林が今日はラフなパーカー姿だった。館林は確か食品系の営業だったと俺は記憶を辿った。

「もしかして、今日休み?」

 平日の18時に館林がパーカー姿ということは今日は会社が休みだったのかと何の気無しに俺は思った。

「俺、会社辞めたんだ」

 館林はビールを一口飲んでから、そう言った。再来月、自分で立ち上げた居酒屋の店をオープンさせるのだと館林は続けた。

「ずっと、自分の店を持つのが夢だったんだ」

 館林は前の会社を辞めてから居酒屋を立ち上げるまでの経緯を楽しそうに話し出した。居酒屋の開店日を聞くと、俺の誕生日の5日前だった。

「今日は仲間内との打ち合わせだったんだ。そういや、最近全然スーツ着てないな」

 館林はたこわさを箸で摘みながら言った。

「館林、去年結婚したんじゃなかったっけ?」

 小鉢のたこわさを見つめながら俺は聞いた。

 去年、館林は会社の同僚と結婚した。館林の披露宴に俺は行かなかった。年中金欠の俺にとって披露宴のご祝儀は痛い出費だった。適当に理由をつけて披露宴の招待を断った。

「奥さんは? 一緒の会社の人だったよな?」

「同じ会社だよ。でも知佳は今も会社で働いてるよ。知佳は仕事ができるし、今の仕事が楽しいみたいだから仕事辞める気ないみたい」

 館林はさらりと言った。なぜか館林の言い方に俺はカチンと頭にきた。

「お前、呑気だな。俺に言われたくないと思うけど危機感とかないわけ?」

 自分のことを棚に上げて、館林に説教じみた口調で言う。

「危機感って?」

「だって、お前去年結婚したのにサラリーマン辞めて居酒屋開くんだろ? 居酒屋なんて失敗するかもしれないのに。奥さんとか両親に反対されなかったのか? 俺と違ってお前は要領良いんだから、あのまま大手の会社にいたら出世していたかもしれないだろ。もったいねー。それに飲食の世界は厳しいんだぞ。年間で何店舗が潰れてると思ってんだよ。なんでわざわざ自分から大変な道を選ぶかな。下手したら奥さんに逃げられるぞ」

 一気に捲し立てて俺はビールを呷った。おしぼり代わりのコースターにジョッキを戻して俺は館林の反応を窺った。館林はたこわさの小鉢に箸を置いて話を聞いていた。

「意外だな」

「え?」

 館林は顔を上げて、俺に笑顔を見せた。

「いや。飯田がそういうこと言うの、意外だなと思って。会社を辞める前に会社の人にも友達にも似たようなこと散々言われたからさ。飯田、覚えてるか? 何年か前にサークルのOBの集まりがあってお前がまだ作家を目指してるって話をしたらみんなが飯田のこと笑ってその場の全員がお前のことを総攻撃したんだよ。俺、それ見てて、すっげー悔しかった。俺、本当はずっと飯田のことが羨ましかったから。お前は誰に何を言われようと自分のやりたいことを愚直にやってただけだろ? 周りの奴らに「夢なんて追いかけてないで将来を真剣に考えろ」とか言われているのに「まぁな」しかお前言い返さないでさ。俺、心底飯田みたいになりたいと思ったよ。俺は飯田みたいに自分の夢をみんなに堂々と言えなかったから。その飲み会の帰りに、俺気づいたんだ。俺が飯田のことを応援するのは自分の夢に挑戦する勇気がないからなんだ、って。夢を追っている飯田を応援することで、挑戦できない自分の夢を俺はお前に託していたんだよ。お前を応援することで俺は報われようとしていたんだ。でもさ、そんなのやっぱり悔しいだろ。飯田の夢と俺の夢は全然違うのに夢を追っている奴に自分の夢を重ねて応援するだけなんて。俺は安全な場所から挑戦している人を見ているだけなんて悔しいし、やっぱり羨ましかった。だから俺は会社を辞めた。やってみようって決めたんだ。俺はお前のことを、すげー奴だと思ってる。昔も今も。お前が作家になりたい夢を応援しているのも変わらない。夢追い人っていう意味では勝手に飯田と俺は似たもん同士だと思ってたから今飯田に結構まともなこと言われてびっくりした。飯田にしては意外だなって思ってさ。飯田、小説は今も書いてるんだろ? よく大学時代にお前が書いたの読ませてくれたよな。俺、お前が書く言葉好きなんだ」

 大学時代を思い出すように舘林は一瞬間を置いた。その間を埋めるように舘林はビールを口に含んだ。誰かと飲みに行くと時々思う。喋るか飲むか、口は同時にそれをできない。そんな時に口は一つしかないのだと改めて思ったりする。

「まぁでも今はもう会社辞めちゃったし、店潰れないように頑張るよ。でも一応言い訳させてもらうと食品系の会社に就職したのも居酒屋の夢を諦めきれなかったからなんだ。もし自分の店を開くとしたら食品関連の繋がりは大事だし、実際、会社員時代の繋がりを今に活かしてる。周りからはいきなり無謀なことをしているように見えるけど、意外に準備周到だったんだぞ」

 そう言って、館林は笑った。いい笑顔だった。館林の笑顔には迷いがなかった。きっと、会社を辞める前に散々悩んだだろう。俺が言ったようなことを周りから言われ続けて、夢を諦めようともしただろう。けれど、館林は俺の話を笑って切り返した。その笑顔が全てを物語っていた。

「ちなみに、知佳は、あ、奥さんは最初から応援してくれたよ。結婚する前から俺が店を持ちたいことは話していたし。食えなくなったら私が食わせてやるって言ってくれた。こういう時に心強い人がいてくれて良かった。本当、飯田の言う通り、奥さんに逃げられないように頑張らないと。それに、今奥さんの実家でご両親と一緒に暮らしているんだ。店が軌道に乗るまでここで暮らしていいって知佳のご両親が言ってくれて、本当に周りの人たちに感謝してる。でも甘えてばかりじゃいられないだろ。周りの人のためにも俺は絶対に成功させる。それに店がすぐに潰れたらみんなに笑われるもんな。「そら見たことか」って、みんな鬼の首を取ったように言ってくるよな。店がオープンしたら飯田も飲みに来てくれよ。サービスするからさ」

 館林の輝かしい笑顔に俺は何も攻撃ができなくなった。黙るのが悔しくて、ビールを一気に飲み干した。

「明日、早いんだ」

 そう言って、俺は館林との再会を早々に切り上げた。居酒屋からの帰り道、俺は夜風に当たりながら館林との会話を思い返した。館林は俺と自分を似たもん同士だと言った。でも俺と館林は似たもん同士なんかじゃないと思う。俺と館林は全然違う。俺は館林の夢を否定した。人の夢をいとも簡単に否定した。館林が会社を辞める前にどれほどの葛藤や迷いがあったのか。再来月の開店日に向けて、館林がどれほどの資金や労力を費やしたのか。一瞬も想像せず俺は簡単に言い退けた。自分の夢を否定される痛みは、俺が一番わかっていたんじゃないのか。俺は館林に自分の夢を否定されたことなんてなかった。俺と館林は似たもん同士なんかじゃない。俺とお前は全然違う。

 館林は昔と変わらず今も俺を応援してくれた。それは大学時代から変わらないことだった。でも今の館林が今の俺を応援できるのは、今の俺の方が舘林よりも何もかも劣っているからだと思った。館林には結婚をして自分の夢に理解がある奥さんや両親がいる。館林には自分の夢に向かって具体的な目標を掲げた希望がある。今の俺には館林に勝るものが一つもなかった。自分よりも劣っている俺だから、お前は応援なんてできるんだ。館林と俺は似たもん同士じゃない。俺とお前は全然違う。

「俺ってこんな奴だったんだな」

 生暖かい夜風に負けないように大きな声で呟く。人の夢を否定する奴にはなりたくなかった。でもそれと同じくらい、友達からの応援を拒絶する奴になんて俺はなりたくなかった。

 

「作家志望ですから、文章を書くのは得意ですよね?」

 店主はノートから顔を上げて、思い出したように聞いてきた。顔を上げた店主とは目線を合わせず、俺は斜めに視線を下げた。

「得意というか。まぁ、嫌いではないですけど」

 俺は歯切れ悪く答える。

「ちりとりさん、悩み相談を受けてくれませんか?」

 店主は後ろの食器棚の引き出しを開け、何かを探し始めた。食器棚として正解の使い方であれば、本来スプーンやフォーク、箸などが入っているだろう横長の引き出しからクリアファイルを取り出してカウンターに置いた。

「これです。この悩み相談を受けてくれませんか?」

「え?」

 店主はクリアファイルからA4サイズの紙を2枚取り出し、カウンターに置いた。

「ここにアンサーって書いてありますよね。ここのアンサーの枠に相談者へのアドバイスを書いて欲しいんです。作家志望なら文章を書くのは得意だと思いますし、それにこういう悩み相談も小説のネタになるかもしれませんよ」

 俺は用紙を手に取りながら釈然としない様子で店主に聞いた。

「いや。でも俺は悩み相談に来ているんですよ。悩み相談に来ている奴が他の人の悩み相談に回答するんですか?」

 用紙には悩み相談が書かれた枠の下にアンサーと書かれた空白の枠があった。相談内容よりも明らかにアンサーの枠の方が大きい。空白の枠は威圧的に何かを訴えかけているようだった。

「俺なんかにアドバイスなんてできますかね」

 そう言って、俺はコーヒーに手を伸ばした。店主に気持ちを悟られないようにゆっくりとコーヒーを飲む。相談事に真剣に回答するのは正直言って嫌だった。もし真剣に考えた回答が相談者に何も響かなかったら、俺の人生を丸ごと否定されてしまうようで怖かった。

「どうですか? 悩み相談の回答やれそうですか?」

 店主は覗き込むように俺を見つめた。店主の視線を感じながら俺は手元の用紙をただ見つめているだけだった。

「それでは、今回のヒントはこちらの悩み相談になります」

「え? ヒント?」

 俺は顔を上げた。店主と目が合う。

「相談内容をよく読んで、ここのアンサーと書かれた枠の中にちりとりさんなりのアドバイスを書いてみてください。これは、あくまでもヒントです。仕事ではありませんので締め切り等はございません。お好きなように回答して、ヒントと向き合ってみてください。このヒントがちりとりさんのお役に立てることを私は心から願っております。それに、ちりとりさんのように悩み相談に来ている方が、誰かの悩み相談を受けてもいいと思いますよ」

「え?」

「先ほど気になさっていたので」

「もしかして、この悩み相談がヒントなんですか?」

 そう聞きながら、ようやく意味を理解した。店主が頼んできた悩み相談は今回のヒントだったのか。

「よかったら、こちらのファイルもお使いください」

 店主はそう言って、2枚の用紙を元々入っていたクリアファイルに入れた。

 違うヒントに変えてもらおうか。一瞬、別の選択肢が頭に過った。

「私からは以上です」

 そんな俺を見透かしたように店主はファイルを差し出した。俺は黙ってカバンにファイルを入れ、ヒント屋を後にした。

 

 ❇

 

「飯田さん、本当にヒント屋に行ったんですか?」

 立花さんは目を丸くして俺に聞き返した。それから、彼女はウーロンハイを一口、二口、三口と飲んだ。相変わらず、飲みっぷりがいい。

「あの店、変な店だよな。店主も変わった人だった」

 ヒント屋での出来事を立花さんに話すと、立花さんは時々懐かしそうに相槌を打ち、時折大きく口を開けて笑いながら俺の話を聞いていた。

「それともう一つ気になったんだけどさ、ヒント屋の店主ってどうやって生計立てているんだ? 客から金を貰えなきゃ店の維持はできないだろう?」

 俺が尋ねると、立花さんは記憶を引っ張り出すように首を右に曲げた。

「ヒント屋の北見さんって、たしかマンションかアパートの大家さんやっているとか言っていたような。私も昔聞いたことあったんですけど、賃貸収入がメインだからヒント屋は儲けは必要ないとか言っていましたよ」

 変わった人ですよねぇ、と立花さんは視線を下げると話を続けた。

「それに私が行った頃はヒント屋にニックネームなんてなかったですよ。元々、自分の名前を言うこともなかったし。それにしても飯田さんに【ちりとりさん】なんてニックネームを付けるなんて、あの店主はやっぱりおもしろい人ですね」

「あやとりか、ちりとりか、どっちか選べと言われたら【ちりとり】を選ぶだろ?」

「そうですか? 私は、あやとりの方がいいな」

「それなら、今度行った時はニックネーム【あやとりさん】にしてもらいなよ」

 俺がそう言うと、立花さんはまた大きな口を開けて笑った。

「私が飯田さんにヒント屋のことを話したのって、私がまだ大学生の時で飯田さんと一緒にバイトしていた頃ですからずいぶん前ですよね? 飯田さんがヒント屋に行ったってことは、最近何か悩んでいるんですか?」

 立花さんはエイヒレを食べながら聞いてきた。

「いやまぁな。年齢も年齢だし、作家の夢諦めようかなとか。就職しようかなとか。そういう相談だよ」

 歯切れ悪く俺は答えた。ふーん、とだけ言って立花さんはまたエイヒレをかじった。立花さんはさっきからエイヒレにマヨネーズを付けずに食べていた。結局最後まで皿の端のマヨネーズを付けることなくエイヒレを食べ終えた。食べ終えたサインのようにマヨネーズだけ残った空の皿を横にずらした。ずらした時に、彼女の親指にわずかにマヨネーズが付いた。親指のマヨネーズに気付くことなく、立花さんはジョッキを握る。握った親指はジョッキの水滴に当たった。マヨネーズが付いた親指はジョッキの水滴で拭われたのだと俺は一人安心した。

「それで飯田さんはもらったヒントの悩み相談はやってみたんですか?」

 俺は黙って首を振った。カバンからヒント屋でもらった悩み相談を取り出し、ファイルごと彼女に渡した。

「へぇ。男子高校生の相談と、30代主婦の相談か。おもしろいヒントですね」

 相談内容を読み終えると、立花さんは相談用紙をファイルに戻して俺に返した。

「悩み相談なんて困ったヒントだよ。高校生の相談なんて、新しいクラスに馴染めないっていう相談だろ。そんなこと俺に聞かれても困るんだけど」

 文句を言いながら俺はカバンにファイルをしまった。

「飯田さんは、高校時代、友達関係で悩んだりしなかったんですか? 自分の経験を引用して答えればいいじゃないですか」

「高校時代、俺あんまり友達いなかったからわからない」

「そうなんですか?」

「話が合う奴がいなくていつも一人で本を読んでいたから」

「へぇ、意外ですね」

 立花さんは意外でもなそうな相槌をした。それから店員を呼び、彼女はウーロンハイの注文をした。

 高校時代は楽しい思い出がなかった。くだらないことに騒いでいるクラスメイトがうっとうしかった。自分たちと同じテンションではない人を「空気が読めない」「ノリが悪い」の一言で片付けてしまう奴らが嫌いだった。別にいじめられていたわけではないし、友達が全くいなかったわけでもなかった。けれど、俺はいつも一人だった。修学旅行の自由時間に一緒に回る友達もいた。卒業アルバムに寄せ書きを書いてくれた友達もいた。けれど、俺はいつも独りだった。高校時代の思い出はいつも俺をネガティブな感情へ引っ張っていく。あまり思い出したくない、思い出だった。

「ウーロンハイでーす」

 立花さんのウーロンハイが運ばれてきた。立花さんは空のジョッキを店員に渡す。

「今さら過去の高校時代の話なんてしたくないよ。仮に俺が真剣に相談にのったって、相手がちゃんと分かってくれるかもわからないし」

「でも飯田さんの回答をどこかに提出するわけではないし、相談者の男の子なんて実際にはいない訳ですから相手が分かってくれるも何もないと思いますけど」

「そんなこと言ったら終わりだろ。全部無駄なことだよ。こんなことやる意味なんてなくなる」

「いや。これはヒントですから、相談者の高校生のためにやるんじゃなくて飯田さんのためにやるんですよ」

 立花さんはウーロンハイを飲んでから、軽くおしぼりで口を拭いて話を続けた。

「飯田さんは過去の話をしているんですよね? 飯田さんにとって高校時代は過去の話ですよね?」

 立花さんは確認するように聞いてきた。立花さんが言っている意味がよくわからなくて俺は首を傾げた。

「そうだよ、過去の話だよ。だって俺の高校時代はどう考えたって過去の話だろ?」

「そうなんですけど。飯田さんの話を聞いていると今の話をしているのかなと思って」

「今の話?」

「なんと言うか、飯田さんは高校時代に今も執着があるように思いました。高校時代を過ぎた過去の話と思っていなくて、うまく消化できずにまだ現在進行形で話しているように見えます。よくわからないですけど、多分飯田さんは高校時代の自分が嫌いなんじゃないですか」

「そんなことないよ。何、変なこと言っているんだよ」

 俺はそう笑うと通りすがりの店員にビールのお代わりを頼んだ。立花さんも追加でジャンボ手羽先唐揚げ2本入りを注文した。

「あ、飯田さんも食べます?」

 俺は首を振った。立花さんは「以上で」と店員に告げ、俺に向き直った。

「飯田さんがヒントでもらった悩み相談にもし私が答えるなら、相談者の高校生に【宇宙図鑑を読みなさい】って回答するかな」

「宇宙図鑑って分厚い、アレ?」

「はい。分厚い、アレです。私も高校時代、その高校生の男の子と同じように友達関係に悩んだことがあったんです。私が高校2年生の時かな。クラス替えがあって新しいクラスメイトに馴染めなくて、二週間くらい学校に行かなかった時期がありました。プチ不登校です。友達と自分とのズレみたいなものを感じて、喋っていてもつまらなくてなんか色々悩んでしまいました。それがきっかけで私はヒント屋に行ったんです。その時、私が店主からもらったヒントが宇宙図鑑だったんです。はじめ私も半信半疑でした。正直分厚い宇宙図鑑なんて家にあっても邪魔だったから、もらってすぐは飼っていた猫が通れるようにドアのストッパー代わりに使っていました。

 ある日、学校を休んでいた私を見かねた母が従姉妹のお姉ちゃんと遊びに行っておいでって言ってくれたんです。私の従姉妹のお姉ちゃん、真由ちゃんっていうんですけど年が7歳離れていて本当のお姉ちゃんのような人なんです。それで、真由ちゃんが占いに行きたいって言うから二人で占いに行ったんです。私、占いに行ったのが人生で初めてでした。最初に私が占ってもらって、その後真由ちゃんの番になったら、真由ちゃんが占い師さんにいきなり質問を始めたんです。「私、結婚できますか?」「私、何歳で結婚しますか?」「今、彼氏いないんですけど彼氏はいつできますか?」とか、とにかく必死に聞いていました。私は当時まだ高校生でしたけど、真由ちゃんは24歳くらいだったから結婚とか気になったのかな? そしたらね、真由ちゃんが次第に具体的なことまで聞き始めたんです。「結婚したら私は相手の両親と同居しますか?」「私、犬より猫派なんですけど結婚相手はどっちですか?」とか聞き出して。真由ちゃんって本当におもしろいこと聞く人だなって私は側で笑っていたんだけど、でも占い師さんは真由ちゃんの質問に笑うことなく「あなたは同居の星にないわよ」とか「今年の9月に出会う人が猫アレルギーの可能性が高いかもしれないわよ」とか淡々と丁寧に受け答えをしていたんです。私には真剣な二人のやり取りがなんだかすごく可笑しくて」

「お待たせしましたー」

 ビールが運ばれてきて店員が割って入ってきた。店員が空いた皿を片付ける様子をじれったそうに立花さんは見守っていた。店員が去ると彼女は先を急ぐように話を続けた。

「でね、その時占い師さんが言った【同居の星】ってワードが私の中に残ったんです。同居の星って、同居をすることを運命的に決められた人のことを指すんですかね? 私、占いのお店を出てからずっと考えていました。星ってなんだろうって。猫派の星とか、炭水化物の星とか、歌が下手な星とか、社交的な星とか、アイドルが好きな星とか。それから家に帰ってきてヒント屋でもらった宇宙図鑑を読んでみたんです。宇宙図鑑を開いてみると、こんなにたくさんの星があるんだって知ったのと同時に、こんなにたくさんの星があるんなら、私と違う【星】の人がいるのかもしれないって思い始めたんです。占い師さんが言っていた【星】と、宇宙図鑑に載っている星とでは意味が全然違うのかもしれないけど、図鑑に載っている星がこんなにたくさんあるんだったら私たちの中にもたくさんの【星】が存在していると思ったんです。同じ地球に生まれた地球人でも、【星】はみんな違うんだと思ったんです」

 途中まで聞いて、俺は立花さんの話のオチが大体分かった。そして思わず口を挟んだ。

「つまり立花さんは話が合わないクラスメイトに対して、君らと私では【星が違う】って友達を諦めたわけだ」

 立花さんは一瞬目を見開いて、冷ややかな目で俺の発言を睨みつけた。そして小さく首を振った。

「飯田さんって物事をすぐネガティブな方に変換しますよね。こんな捻くれた発想ができるなら、それを小説で活かした方がいいんじゃないですか。私が言いたかったのは友達に対して諦めたんじゃなくて受容したんですよ。相手を受け入れたんです。私は友達の【星】を認めようと思ったんです。私の興味や考えが違う話をする友達がいても、それはその子の星なんです。それはそれでいいんです。まぁ飯田さんからすれば、それを「諦め」と思うかもしれないですけど。うまく説明できないですけど、誰かを認めることは自分を認めることと同じだと思いませんか。私は友達の【星】を認めた時、私自身が私の【星】を認めた気がしたんです。誰かを許すことは、自分を許すことでもあるような気がします。ヒント屋でもらった宇宙図鑑を眺めていたら、そんな風に思えるようになってまた学校に行くようになりました」

「で、クラスメイトの反応は?」

「久しぶりに学校に行ったら風邪だと思われていたみたいで、「体調、大丈夫?」ってみんな心配してくれて授業のノートを見せてくれました」

「その後は友達とは何にもなかったの?」

「そうですね。みんな星が違うと思うようになってからは、あんまり悩むこともなかったかな。要は私の心持ち次第だったのかもしれませんね。それに私と飯田さんだって【星】が全然違うけど、なぜか今でも飲みに行くでしょ? 人付き合いなんて、そんなもんです」

「ふーん。じゃあ立花さんが今言ったことを回答に書こうかな」

「ダメですよ、飯田さんが自分で考えないと。それより手羽先遅いな」

 さっき立花さんが注文した手羽先がまだ来ていなかった。立花さんは店員を呼び止めると、店員は申し訳なさそうに注文を確認しに行った。

「最近、飯田さん小説は書いてないんですか?」

「うん。まぁ」

 そう答えると、俺はすぐにビールで口を塞いだ。

「飯田さん、これを小説で書けばいいのに」

「これって?」

「高校時代の自分のこととか、飯田さんが高校生の悩み相談に答えたくない理由とか。そういうことを小説に書くんですよ。自分が嫌だと思っていることが他の人も嫌だと思っていることって結構ありますから。そういうことを書けば、みんな読むんじゃないんですか? 多分ここにヒントが隠れていますよ」

 ウーロンハイを飲む立花さんの後ろから、さっきの店員が手羽先を持ってきた。立花さんはパッと笑顔を見せて「これこれ」と嬉しそうに笑った。

「丹生店長、元気ですか?」

 指に付いたゴマを舐めると立花さんは聞いた。立花さんが大学生の頃、一緒に働いていたバイトメンバーが俺だけになったことを教えると古いバイト仲間を懐かしむように「寂しいですね」と彼女は笑った。

「立花さんは? 仕事は順調?」

 近況を聞く俺の傍らで立花さんは夢中で手羽先を食べていた。

「仕事。うーん、まあまあですね」

 立花さんは手羽先のタレが付いた親指をぺろりと舐めた。この店の手羽先はよっぽど美味しいのか。立花さんは早くも2本目の手羽先に手が伸びた。

 

 ❇

 

 カバンからファイルを取り出し、二枚の用紙をテーブルに置いた。大学生の頃から使っているテーブルと座椅子は十年来の付き合いだ。そのおかげか、座椅子は俺の体によく馴染むように変形していた。

「やるか」

 座椅子の背もたれから体を離し、俺はテーブルの上に肘をついた。

 もらったヒントに手を付けずにいた。面倒なことを後回しにするのは昔からだ。なにが後回しにさせているかは薄々気づいてはいた。用紙を手に取り相談内容を改めて読み直した。

【高校2年生 男子生徒からの相談

 クラス替えで仲の良い友達と別のクラスになってしまい、新しいクラスに馴染めません。仲の良い友達は新しいクラスでも楽しそうです。新しいクラスで楽しそうな友達を見ていると、その子のクラスに行くのも気が引けます。どうすれば楽しい学校生活を送れるのでしょうか。アドバイスをください。】

 相談用紙に目を通すと俺は天井に顔を向けて息を吐いた。

「本でも読めよ」

 俺がこの相談者の高校生に言えるのは本当にこれだけだった。人は自分の経験からしか物事を語れない。自分のことを誰もわかってくれないと思っていた思春期に俺は幾度となく本に救われた。どうしてこの作者はこんなにも俺の気持ちがわかるんだろう。そう共感する度に、俺の中にある言語化できなかった思いや感情が成仏されていった。

ヒント屋で高校生の悩み相談をもらってから、高校生の頃、俺もいつかあっち側にいきたいと思っていたことを俺は何度も思い出すようになった。言葉にできなくて心のどこに置けばいいのかわからない心情を俺が書いた本で成仏させてあげたい。それが最初に物書きになりたいと思った瞬間だった。でも高校生の時に抱いたなりたい自分と、今の現実の自分は遠くかけ離れたところにいる。高校生の相談を読んでいると、そんな現実を突き付けられるようで無意識に足の揺すりが早くなった。

結局、高校生の相談に対し気の利いたアドバイスが何も思いつかずボールペンの先を見つめているだけで時間が過ぎた。高校生の相談用紙を2枚目に回し、主婦の相談用紙を前に出した。テーブルに肘を付き用紙を覗き込む。あぐらの足を組み替えると右手に握ったボールペンを回した。

【30代 主婦からの相談

 最近、VIOの脱毛サロンに行こうか悩んでいます。しかし、旦那にそのことを相談すると「浮気してるの?」と言われてしまいました。急にそんな所を脱毛したいと言い出すのはおかしいと責められ、不倫を疑われました。私は不倫なんてしていません。せめて女性としての身だしなみをしたいだけです。そう旦那に説明しても、「そんな所、他のヤツに見せる機会ないだろ。身だしなみもクソもあるか」と、もっと怒りをかってしまいました。私が悪いのでしょうか? アドバイスをください。】

 ボールペンを放り投げてまた天井を見つめた。

「俺に聞くなよ」

 ため息を吐いた。テーブルから体を離し床に寝転んだ。鼻から息が抜けると、俺は静かに目をつぶった。旦那には内緒で勝手に脱毛サロンに行けばいいだけの話だろ。脱毛なんて今時珍しいことではないんだから。目をつぶると瞼の裏に本音が溢れ出す。

 俺に女心がわからないのか、相談者の主婦が何に悩んでいるのか、記された相談内容だけでは分からなかった。悩みの原因は脱毛に理解がない旦那に不満なのか、それとも不倫を疑われたことが心外なのか。第一に、自分が何かをする時にいちいち配偶者に相談をしなければいけない、この感覚が俺にはわからなかった。

「こんなことで悩む人がいるんだな」

 どこか遠い国の話を聞いている気分になった。俺には理解できない感覚の中で生きている人達がいる。でも、それはきっとお互い様だ。俺の悩みだってこの主婦からすれば遠い国の話になるだろう。

 ハッと目が覚めた。目をつぶるだけのはずが気付くと浅く眠ってしまっていた。慌てて時間を確認するとバイトに行く時間になっていた。俺は急いで出発の準備をした。

 ロックを外して自転車にまたがった。空気が入っていないタイヤは重い。俺は忙しなくペダルを漕ぎ続ける。ブレーキをする度、古い自転車はキーと嫌な音を鳴らした。

 いつもの道をいつも通りに自転車を走らせた。学校帰りの小学生を通り過ぎる。近所のコンビニを横切ると、作業着の男性3人がタバコと缶コーヒーを交互に口に運びながら談笑していた。

 いつもの道をいつも通りに自転車を走らせる。自転車で坂を下る途中、昔バイトしていた本屋の記憶が頭に浮かんだ。寝ぼけた頭は無防備だった。無防備になると、なぜか昔の記憶が無意識に浮かんでしまう。普段は忘れているのに無防備になると流れてくるこの記憶は俺にとって何なんだろう。蓋をしたくなるような臭いものなのか。けれど無防備な頭では臭いものにも蓋ができなかった。

 大学2年の頃、俺は大学近くの本屋でバイトをしていた。本が好きなら本屋でバイトをするのは安易な考えで、且つ自然な流れだった。大学を卒業した後、しばらくは同じ本屋でバイトを続けた。大学近くの本屋なのでサークルの後輩が店に来ることも多かった。大学を卒業したすぐは、リクルートスーツ姿に不自然な黒髪の後輩を「似合わねー」と茶化す余裕があった。けれど二学年下の後輩が真剣にSPIの本を選んでいるのを見かけた時、俺は気軽に声がかけられなくなった。自分が取り残されている焦りを認めないわけにはいかなかった。自分でこっちを選んだくせに。それから逃げるように本屋のバイトを辞めた。

 

「落ちましたよ」

 振り返ると新人の大学生の男の子がファイルを拾ってくれた。俺のトートバッグが更衣室の椅子の上でうなだれていた。

「あ、ありがとう」

 なぜヒント屋でもらった悩み相談がここにあるのかと思ったが、さっき急いで準備をした時に寝ぼけ頭で間違えて持ってきてしまったのだと気づいた。俺は急いでファイルをバッグにしまった。

「きみは、先週から入った橋本くんだよね?」

 ファイルを拾ってくれた大学生に俺は話しかけた。

「はい。橋本です。よろしくお願いします」

 橋本くんは礼儀正しくお辞儀をした。

「よろしく」

 橋本くんのお辞儀に俺も倣った。顔を上げると、更衣室のカレンダーが目に止まった。今日は遅番の火曜日。ヒント屋に行って、ちょうど二週間が経っていた。

 

 ❇

 

「新人のバイトの歓迎会やるから浩二も来いよ」

 新しく入ったバイトのメンバーが少しずつ仕事を覚えてきた頃、俺は店長に飲み会に誘われた。

「丹生さん、いつもの居酒屋っすか?」

 店長の丹生さんは得意げに頷くと持ち場を離れた。バイトのメンバーで飲みに行くのは久しぶりだった。仕事が上がった人から順にいつもの海鮮居酒屋に向かう。仕事を終えた俺が店に着くと、この前ファイルを拾ってくれた橋本くんも飲み会に参加していた。

 橋本くんとは、あれから毎週火曜日は同じ遅番で顔を合わせるようになった。まだ知り合って日は浅いが彼とはバイト中よく話をするようになった。橋本くんは美大の大学一年生で、油絵の専攻だと教えてくれた。有名美術大学に現役合格したことを俺が褒めると、「運がいいだけです」と橋本くんは照れ臭そうに笑った。

 

「飯田さん、悩み相談とか受けるんですか?」

 飲み会の中盤、俺がトイレから戻ると橋本くんが俺の隣の席に座っていた。

「前に更衣室でファイル拾った時、見ちゃって」

「あぁ、うん。ちょっと知り合いに頼まれて」

 誤魔化すように俺はビールを飲んだ。橋本くんはストローで自分のウーロン茶を混ぜた。橋本くんはグラスに口をつけて、ストローが顔に当たりながら飲みづらそうにウーロン茶を飲んだ。

「飯田さん。俺、最近分かったんですけど人生って結局はピックアップ力だと思うんです」

「ピックアップ力? 何それ?」

「ピックアップ力というのは、物事に対してピックアップする力です。拾う力のことです」

 そう言って橋本くんはストローを使わずまたグラスに口をつけた。飲みづらそうなのでストローを外して飲めばいいのに、と俺は思ったが口には出さなかった。

「橋本くんの言う、ピックアップ力って例えばどういうこと?」

「例えばですけど、子どもが何気なく言った発想とか感想に人がえらく感動することってありませんか? あれって何気ないことを言った子どもがすごいというよりも、その何気なさに深い意味を考えられた人がすごいんだと思うんですよ。普通だったら見落してしまうものを丁寧に拾うことって、なかなかできることではないですよね」

 なぜ橋本くんがウーロン茶を飲んでいるのと思ったら彼がまだ二十歳になっていないことを思い出した。そこには触れず、橋本くんの話の続きを聞いた。

「人生って、つまりはピックアップ力なんですよ。物事に対して何を拾うかが肝心なんです。悩み相談なんて、もろピックアップ力が必須ですよ。悩んでいる時って、悩みのモヤから抜け出せなくて苦しいじゃないですか。でも、そこから抜け出すにはいろんなものを拾うんです。拾って、拾って、拾って、拾いまくるんです。そんで、拾ったものと自分の悩みを繋げてみるんです。でも、拾ったものが全て悩みと繋がるとは限らない。でもある時、何気なく拾ったものが悩みと繋がって悩んでいるモヤが晴れることがあるんです。拾ったものと自分の悩みが遠ければ遠いほど、関係なければ関係ないほど、ピックアップ力が高いと思うんです」

「遠ければ、遠いほど。関係なければ、関係ないほど」

 俺は独り言のように声に出していた。今の橋本くんの話を聞いて、俺はヒント屋で読んだフリーペーパーの悩み相談を思い出した。

「じゃあ、例えば小学生のドットボール大会から自身の失恋の悩みを乗り越える。これはピックアップ力、高め?」

「小学生のドッチボール大会と失恋ですか。それはかなりピックアップ力、高めですね。小学生のドッチボールから失恋を乗り越える要素なんて俺には拾えないです」

 橋本くんは笑いながらグラスを持ち上げると、グラスからストローを外した。ストローの先端に付いたウーロン茶が一滴、小皿と小皿の隙間に垂れた。

「なら聞きたいんだけど、橋本くんが過去に「これは、いいもん拾ったな」っていう経験ある? これを拾ったおかげで悩みが解消した、っていう経験」

 橋本くんは考えるように腕を組んだ。けれど頭の回転が早い彼はすぐに腕をほどいて質問に答えた。

「俺、大学受験が終わって美大に入学することが決まった後、本当にこのまま美大に行っていいのか悩んだことがありました。俺、高三の時、美大専門の予備校に通っていて毎日死ぬほど絵を描かされたんです。予備校に行く前は、絵は好きな時に好きなように描くものだったんですけど予備校に通うようになってから毎日毎日デッサンして、毎日毎日油絵描いて筋トレみたいに絵を鍛えていくんです。予備校に通っていた頃は正直絵を描くのが嫌いになりそうでした。でも、そのおかげで無事志望の美大に合格できてほっとしたんですけど、高校卒業間際になって急に大学に行くのが不安になってきたんです。絵が好きだから美大に行くって決めたのに大学に入学したら絵が嫌いになるんじゃないか、って怖くなりました。それで、俺拾うことを始めたんです。とにかくいろんな人に悩みや不安を打ち明けて、相談して、助言をもらって、何かを拾うことにしたんです。予備校の講師や友達に相談したり、中学の恩師に会いに行ったりもしました。でもみんな「お前なら大丈夫だ」って励ましてくれたし、新しい環境に飛び込むのは不安だよな、って共感してくれました。みんな真剣に俺の相談に乗ってくれました。でも俺の悩みは晴れなかったんです。それである日、久しぶりに中学の友達と地元のファミレスで会うことになったんです。俺、その友達にも悩みを打ち明けました。美大を選択して本当によかったのか、美大には行かずにちょっと絵が上手な大学生でもよかったんじゃないか、とか。そいつに本音を話しました。すると、その友達が俺の話の途中からスマホをいじり出したんです。うん、うん、って相槌はするんですけど、そいつのスマホを見たらゲームしていたんです。俺、なんとも言えない気持ちになって、しばらく黙りました。そしたら、その友達が「課金しよっかな。でも今月厳しいんだよな」って、そいつ顔を歪ませたんです。俺、その時に悩みのモヤが晴れたんですよ」

「え? そこで? 普通、嫌じゃない? 自分が悩みを打ち明けているのに友達がゲームしていたら。ましてや課金するか悩んでいたんでしょ?」

「そうですよね。普通、嫌ですよね。自分の悩みよりゲームに課金する方が大事なんて。でも、中学の友達に相談するまでは俺の悩みを真剣に聞いてくれる人ばっかりに相談していたから、俺も自分の悩みが一大事のように思っていたんです。でも、俺の悩みなんて中学の友達からすればゲームで課金するよりも大した悩みじゃないんです。中学の友達の反応を目の当たりにして、自分の悩みをどんどん深刻にしていたのも俺自身だったことに気づいたんです。俺の悩みなんて友達がゲームの片手間に聞いている程度のものなんだと思ったら笑えるくらい気が楽になりました。だから、それ以降何かに悩んだ時は「ゲームで課金するよりも悩むことか?」と考えるようにしています。大体のことはゲームの課金より悩むことなんてないですよ」

 そう言って、橋本くんは笑った。バイトで見る時よりも幼い笑顔を俺に向けた。すると橋本くんは後ろを向いた。

「すいませーん」

 大声で店員を呼ぶと、橋本くんは自分のウーロン茶と俺のビールを頼んだ。橋本くんが店員とやりとりをしている間、俺は彼の話について考えた。橋本くんが前に向き直すと俺は橋本くんに話の続きをした。

「普通ならゲームしながら人の話を聞くなんて失礼だけど橋本くんはその失礼さを拾ったのか。相談って真剣に回答するだけが正解じゃないんだな」

 俺が感心していると、そんな俺を見て橋本くんが笑った。

「この話を理解してくれたの、飯田さんが初めてですよ」

 橋本くんは自分が飲んでいた空のグラスにストローを戻した。

「ジンジャーハイボールでーす」

 店員が俺と橋本くんの間に入った。

「いや、頼んでないです」

 俺が訂正すると「それ、こっち」と隣の客が店員に手招きした。すぐ後ろに別の店員が立っていて、俺のビールと橋本くんのウーロン茶が置かれた。

「飯田さんは、どんな悩み相談を受けたんですか?」

 以前、橋本くんが拾ってくれた悩み相談について橋本くんは聞いた。

「よくある相談だよ」

 説明するのが面倒で俺は言葉を濁して来たばかりのビールを飲んだ。橋本くんはただのウーロン茶をまた無意識にストローで混ぜた。ウーロン茶の中で氷がくるくる回るのを見つめながら俺は口を開く。

「俺、相談事を受けるのは苦手なんだ。相談に乗ってほしいって言うからこっちが真剣に答えても、「なんか、違う」って相談者の顔に書いてある時あるだろ?」

「わかります。そういう場合って、大体は相談者の中で答えが決まっている時ですよね。でもいろんな正解がありますから、自分のアドバイスが相談者に選定されるのは仕方ないことだと思います。それに俺みたいな場合もありますからね。俺の中学の友達みたいに、本人が思ってもみない所で誰かの悩みを解消していることもあるんです。真剣に回答するだけが正解だとは限らない。何を拾うかは、人それぞれですから」

 橋本くんは自分の言葉に納得するように頷いた。

「生ビール、お待たせしましたー」

 ドン、と俺の前にまたビールが置かれた。店員に間違いを伝えようとすると「浩二、ビールこっち」と店長の丹生さんが手を伸ばした。俺の横で店員は空いたジョッキやお皿を手際良くお盆に乗せていく。

「橋本くんって、おもしろいよね」

 ストローでウーロン茶を混ぜながら橋本くんは俺の言葉の意味を一瞬だけ考えた。

「俺をおもしろいと思うのは飯田さんのピックアップ力が高いからですよ」

 そう言って、橋本くんは上機嫌にストローでウーロン茶を啜った。

 

「ほんとにカラオケ行かないの?」

 そう俺が聞くと「俺も歌苦手なんで」と橋本くんは笑った。二次会のカラオケを断り、俺と橋本くんは一緒に帰ることにした。

 橋本くんにどこに住んでいるのかと聞くと、橋本くんの家は俺のアパートの近所だった。普段、活動時間が違うからなのか今まで橋本くんと近所で遭遇したことがなかった。

「店長の丹生さんから聞いたんですけど、飯田さんって作家を目指しているんですか?」

 賑やかな駅前から静かな住宅地に入ると、橋本くんが聞いた。

「まぁ、うん」

 胸を張って答えるのが嫌で、俺は言葉を濁した。19歳の子にされた質問に耳が熱くなるのがわかった。

「今度、俺のことを小説に書いてくださいよ」

「橋本くんのことを?」

「はい。俺をモデルにした人物を物語の中に登場させてほしいです」

 橋本くんは楽しい話をするように、はしゃいだ。

「飯田さんの小説に俺のことを書いてほしいです。もし、その本がベストセラーになったらどうします? 映画化とかされたら俺みんなに自慢しちゃいますよ」

 橋本くんは無邪気に笑った。無邪気に笑う橋本くんのリアクションがどこか懐かしく思った。こういう話をするのは久しぶりだった。

「飯田さん。絶対俺のこと書いてくださいね」

 念を押すように、橋本くんはもう一度笑った。橋本くんの真っ直ぐな笑顔が懐かしい。けれど懐かしいと口に出してしまったら、本当に懐かしい思い出になってしまいそうで俺は黙るしかなかった。

いつも自分が主人公であり、そんな自分を題材にした小説がベストセラーになるかもしれないと思えるのは橋本くんが自分の可能性を信じていることと比例しているようだった。自分は突出した人物なのだと迷わず信じられるのが若さということなのか。

「もし、飯田さんが作家として売れたら俺に飯田さんのブックカバー描かせてください」

 もしもの話が似合う人と話すのは久しぶりだった。無邪気に笑う19歳の橋本くんは、「もしも」の話がよく似合っていた。

「いいよ。描いてよ」

久しぶりの高揚感に俺も胸が躍るのがわかった。酒が入った気持ちよさも手伝って、静かな住宅地で俺は久しぶりに自分の夢を語った。

 

「お疲れ様でした。おやすみなさい」

「おやすみ。また来週バイトで」

 家の近所のコンビニの前で橋本くんと別れた。橋本くんは左に曲がり、俺はコンビニを過ぎて真っ直ぐ歩いた。客が誰もいないコンビニの店内では店員が暇そうに腕を伸ばしていた。

 一人になっても久しぶりの高揚感は続いた。誰かに自分の夢を話したのは久しぶりだった。橋本くんと話している時、自分で自分の言葉に興奮するのがわかった。今なら何でもできる気がした。やりたくない悩み相談も今なら答えられそうだ。

「帰ったら、もらったヒントでもやってみるか」

 やる気がピークに達した時、ちょうど俺のアパートの前に着いた。

 玄関のドアを開け、電気を付けてカバンを床に置く。手を洗い、タバコ臭いTシャツの匂いを確認する。座椅子に座り、靴下を脱ぐ。靴下を脱ぎながらスマホでSNSをチェックする。帰宅後の染み付いた行動パターンでいつもの座椅子に座っていた。手を伸ばせば届く位置にテーブルはあった。テーブルにはヒントの悩み相談が置いてある。体をずらし、座椅子の上で横になった。スマホの画面がぼんやりしてきた。だんだんと瞼が下がっていく。体が座椅子にくっ付いて、頭も体もどんどん重くなっていく。

 結局、テーブルの上のヒントに触りもせず漲っていたやる気はすぐに睡魔に負けた。

 

 ❇

 

「ヒントを失くした?」

 店主は顔を上げた。

「はい」

 俺は神妙な面持ちで小さい声で答えた。さっきまでコーヒーの香りがしていたのに鼻が慣れたのか今は何も匂わない。

「それは困りましたね」

 大して困ってもいない顔で店主はそう呟いた。店主は何かを考えながらコーヒーを啜った。俺も店主に倣ってコーヒーに手を伸ばしたが、店主がコーヒーカップをソーサーに置く前に俺は口を開いた。

「代わりのヒントをもらうことはできますか?」

 店主に尋ねる。

「代わりのヒント、ですか?」

「はい」

 ほんの少しの間をあけて店主は考えを巡らせていた。店主はカップを戻すと改めて俺の方を向いた。

「そうですね。差し上げたヒントを失くしてしまってはどうしようもないですから、代わりのヒントを差し上げましょう」

 俺は心の中でガッツポーズをした。しかし、嬉しい顔を出さないように気をつけながら「すいません」と申し訳なさそうな顔で謝った。

 ここヒント屋キタミには約一ヶ月ぶりにやって来た。今日で二度目の来店だった。

「こんにちは。ちりとりさん」

 店のドアを開けると、店主は俺に笑顔を向けた。はじめ、ちりとりさんとは何のことだか分からず俺は黙ってしまった。けれどすぐに思い出した。この店では俺はちりとりというニックネームだった。

「コーヒーでいいですか?」

 挨拶も早々に、店主は前回と同じ質問をした。俺の返事を待たず、店主はヤカンに火をかけた。俺は喫茶店の常連客のように黙ってカウンターの椅子に腰掛けたのだった。

「さてと、代わりのヒントを今お持ちしますね。少々お待ちください」

 店主はコーヒーを早くも飲み終えると、早速代わりのヒントを探しに店内を物色し始めた。俺はコーヒーを一口啜った。ほんの少しの申し訳なさを持ち合わせながらカウンターの席で店主のヒントを待った。

 

 悩み相談のヒントを失くしたというのは嘘だった。悩み相談のヒントは、俺には向いていないかもしれない。バイトの飲み会から数日が経ち俺はそう思い始めた。そして一度確信するとそれ以上やる気は湧いてこなかった。そして、良いことを考えた。代わりのヒントをもらうことを思い付いたのだ。

【飯田さんがやりたくないのなら、他のヒントに替えてもらうのもアリだと思います。】

 別のヒントに替えてもらうのは有りか、俺は立花さんにメールで聞いてみた。立花さんからの返信に俺は許可を得られたような気になった。本来、立花さんの許可なんて必要ないのだが誰かが自分に同意してくれると後ろめたさや罪悪感を半減できる。これで心置きなくやりたくないヒントから逃げることにした。けれど、代わりのヒントをもらうことに決めたはいいが俺には一つ気になることがあった。他のヒントに替えてもらうには店主にそのことを伝えなければならなかった。なぜ他のヒントに替えなければならないのか、それまでの経緯の説明が必要だった。はじめ、正直に全て白状しようと思った。けれど正直に全てを話すのは自分の至らなさをさらけ出すのと同じだと思って気が引けた。ヒントを失くしたと嘘をつけば本当のことを話さなくて済む。面倒なことから避けられるのであれば、それに越したことはない。不思議と店主に対して罪悪感の気持ちは抱かなかった。

 

「あった、あった」

 店主の声に反応して俺は後ろを振り返った。店主は両手で箱を抱えながらカウンターに戻ってきた。店主は抱えていた箱をテーブルに置いてから箱の蓋を開けた。箱の中には新品の折り紙が入っていた。箱から折り紙を取り出して、テーブルに重ねていった。【100枚入り】と書かれた折り紙の束が10個積み重なった。数えると全部で1000枚の新品の折り紙だった。

「こちらが代わりのヒントになります」

 テーブルの上で積み重なった折り紙を、ポンと触ると店主は説明を始めた。

「100枚の束が十個ですから、ちょうど折り紙は1000枚あります。ですから千羽鶴を作ってみてください。折り紙は得意ですか? 私も昔、千羽鶴を作ったことがあります。折り紙はただ折り続けるだけの単調な作業ですが、なかなか根気がいる大変な作業です。頑張ってくださいね。こちらのヒントも期限等はございませんので、じっくりとヒントと向き合ってみてください。出来上がった千羽鶴は、どなたかに差し上げても構いません。千羽鶴をどうなさるかは、ちりとりさんの自由です」

 そう言うと、店主は俺に背を向けた。店主はカウンターの中で折り紙を入れるための袋を探し始めた。グレーのビニール袋を取り出したが、袋が小さくて折り紙は全部入りきらなかった。あれこれ探したがちょうどいいサイズの袋が見つからず、結局元々折り紙が入っていた厚手の紙箱に折り紙を入れ戻し、箱ごと渡された。

「代わりのヒントが……」

 なぜ千羽鶴なのか。俺が質問しようと口を開くと、

「私からは以上です」

 店主はそう言って、最後に笑顔を見せた。店主に嘘を付いた罪悪感があったのか、それ以上何も聞けなかった。俺は黙って折り紙が入った箱に手を伸ばした。店主が運んできたように両手で箱を抱え、ヒント屋を後にした。

 

 折り紙で鶴を折るなんて何年ぶりだろう。店主が言った通り、本当に大変な作業だった。

 小学生の頃、クラスメイトの一人が入院してクラスのみんなでその子のために千羽鶴を折ったことがあった。学級員の女の子に数枚の折り紙を渡されて、その時に俺も何度か鶴を折った。クラスで千羽鶴を作るという活動が始まると教室の後ろの棚に【千羽づるBOX】と書かれた大きな箱が置かれるようになった。学級員の女の子が設置したもので、折った鶴はその箱に入れるシステムになった。学級員の女の子はいつも放課後になると箱の中の鶴を数えていた。100羽溜まると段ボールからビニール袋に鶴を入れ替えて、教室の隅で鶴を保管していた。

「その千羽鶴は最後どうなったんだっけ」

 クラスのみんなで鶴を折った記憶はあったが、千羽鶴が最終的に完成したかどうか覚えていなかった。小学生の頃の曖昧な記憶を思い出しながら俺は今になってひたすら鶴を折り続けている。

 色とりどりの鶴がテーブルや床に並んでいる。鶴を折り続けると首が凝ってきて、ぐるりと2回、首を回した。

「なんで、こんなことしてんだろ」

 鶴を折り始めると、ふと意味を考えてしまう瞬間が何度かあった。これが本当に悩みを解消するヒントになるのか。こんなことをやっても、どうせ意味なんかないのに。何度も何度も、そう思った。けれど店主に嘘を付いてまでもらったヒントを途中で投げ出す訳にはいかなった。悩み相談のヒントを途中で諦めたのだから今回の千羽鶴のヒントは途中で諦めるわけにはいかない。自分勝手なのはわかっていた。

「全部折ったら何か変わるかもしれない」

 千羽鶴が完成したら何か意味が生まれるのかもしれない。そんな期待や願いを持ち直した。そして、ただひたすら鶴を折り続けた。カラフルな鶴たちは無機質な狭い部屋を鮮やかにしていった。

「できたー」

 左右に首を鳴らした。折り紙の鶴がやっと100羽に到達した。伸びるように体を捻った。口から息を吐いて前に戻る。学級員の女の子と同じように100まで数えながら鶴をビニール袋に入れていった。心地よい達成感に浸りながら100羽の鶴が入ったビニール袋を眺めた。

 トイレから戻り、折り紙の鶴が入ったビニール袋をもう一度眺めた。そして冷静になって考える。100羽完成したということは、この作業があと9回続くということだ。達成感はすぐに消失した。けれど気持ちを思い直し、また箱から折り紙を一枚取り出した。

  

 鶴を折り始めてから数日が経った。バイトから帰ってくると、いつもの座椅子に座り眠くなるまで折り紙に手を伸ばした。そして鶴を連続で折っていくうちに、だんだん素早く上手に折れるようになった。最初の頃に折った鶴と比べると今折っている鶴の方が断然上手だ。

 店主の言う通り、折り紙は単調な作業だった。しかし、単調な作業を続けていると次第に頭がスッキリして無心になっていく感覚を覚えた。繰り返し、繰り返し、鶴を折る。次第に没頭し始め頭の中が整理されていく。邪念が取り除かれるようだった。

「あの子のビーズ作りと同じだな」

 正方形の折り紙を三角に折りながら、高校生の頃に付き合っていた女の子のことを思い出した。当時、交際していた女の子は考え事や悩み事があると趣味のビーズでアクセサリーを作る子だった。

「細かい作業をしているとね、それに没頭できて嫌なことを全部忘れられるの。テグスにビーズを一つ通して、次は交差させて二つビーズを通して、また一つビーズを通して、また二つビーズを通して。それを繰り返す。その間、頭の中では、ぐるぐるぐるぐる考え事をしているの。でも、そのうち頭から嫌なことが消えて無くなっている。不思議だよね」

 彼女は、そう言って笑った。

「お揃いだね」

 彼女は自分の左手首を俺に見せた。俺に作ってくれたブレスレットと同じターコイズの石が彼女の制服の袖から光っていた。その彼女と付き合っていた時、男性用に作ったブレスレットを何個かプレゼントされたことがあった。こういうことが嬉しい思う感覚が俺にはよくわからなかった。趣味の悪いブレスレットを俺は一度も付けることはなかった。

 何年か前に、その子が結婚したという話を風の噂で聞いた。彼女は今も嫌なことがあるとビーズ作りをしているのだろうか。俺と別れた時、彼女はビーズ作りに没頭したのだろうか。そんなことを考えていると、また一羽、鶴が完成した。

 

 ❇

 

【コージーさんが出品したものに「いいね!」がつきました】

 スマホを取り出すとフリマアプリの通知が目に止まる。通知画面を確認すると、スマホをズボンのポケットにしまった。バイト着をカバンに押し込んでポケットから自転車の鍵を取り出した。更衣室を出るとドアの前に橋本くんが立っていた。

「お疲れっす」

 俺は軽く手をあげた。

「飯田さん、お疲れです」

「なんか橋本くんのこと久しぶりに見る気がする」

 橋本くんは笑顔でコクンと頷くと、先週まで大学のテスト期間中だったのでシフトを入れていなかったことを教えてくれた。

「そういえば、飯田さん。前に話してた悩み相談の回答はまだやっているんですか?」

 俺は首だけ橋本くんの方に振り返った。「あぁ」とだけ声を出して俺は曖昧に頷いた。

「橋本くん、遅れるよ」

 何か言いかけた橋本くんを俺は優しく制した。俺の声かけに橋本くんは時計を見ると急いで更衣室の中へ入っていった。

 

 ヒント屋で折り紙をもらった日から俺は鶴を折り続けた。くる日もくる日も鶴を折り続けた。

 鶴を折っている時間は鶴を折るだけではなく、同時にたくさんのことを考える時間にもなっていた。時系列はめちゃくちゃでも今までの過去を振り返ることが多かった。そして考えるのは昔のことばかりではない。今日自転車のカゴにメロンパンのゴミくずが入っていたこと、今日バイトの休憩時間に近くのコンビニに行った時に列に並ぶ男女の会話、この前、店長の丹生さんから社員にならないかと誘われた話。鶴を折りながら、いろんな出来事が頭に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。懐かしさに浸ったり、激しい後悔を噛み締めたり、忘れていた怒りをぶり返したり、そして今日という日を振り返った。

 鶴が入ったビニール袋が4個目に到達した時、俺はこのヒントのカラクリに気づいてしまった。このヒントの目的は千羽鶴を完成させることではない。鶴を折る作業の過程で、いろんなことを考えさせるのが目的なのだ。考えを巡らせ、自分の悩みに向き合い、そこで答えを見つける。きっと店主は俺に自分自身と向き合ってもらいたかったんだろうと思った。千羽鶴を完成させることは目的ではなく手段だったんだ。悩みに向き合うための手段なのだ。鶴が900羽に到達する頃、俺はそう確信していた。

 箱の中の折り紙が全て鶴に変わった。溢れ返ったカラフルな鶴たちを見つめ、俺はある深刻なことに気づいてしまった。千羽鶴が完成したのに俺の悩みは解消されなかったのだ。結局、俺は何も辿り着けなかった。答えを何も見つけ出せなかった。

「全部折ったら何か変わるかもしれない」

 そう思いながら鶴を折り続けた。でも、ただ折るだけでは何も変われなかった。でも、本当はわかっていたことだ。だって手段を目的にしていたのだから。向き合わなければならない自分の悩みを無視して、鶴を折り続けた。俺自身を誤魔化しながら鶴を折り続けた。

 千羽鶴が完成し、俺に残ったのは大量の折り紙の鶴だけだった。捨ててしまおうかと一瞬考えた。けれど、これまでにかかった労力や時間を考えると簡単に捨てることができなかった。ビニール袋越しに透けるカラフルな鶴たちを眺め、俺はふとスマホを取り出した。スマホでフリマアプリを開き【千羽鶴 手作り】と検索をかけた。すると千羽鶴の販売が何件か出てきた。

「こういう物も売れるのか」

 続けて、検索サイトを開いた。【千羽鶴 つなげ方】と検索する。早速、折り紙の鶴に糸を通す作業に取り掛かった。折った鶴がお金になるかもしれないとわかると心なしか鶴の扱いが丁寧になった。現金な自分に少し笑えた。完成した千羽鶴をフリマアプリに出品すると、俺は明日もう一度ヒント屋の店主に会いに行こうと決めた。明日は早番の木曜日だ。バイトの後ならヒント屋に行ける。今回のヒントはちゃんとやり遂げたのだから何も嘘をつく必要はない。けれど、なぜか嘘をついているような気持ちを抱かずにはいられなかった。

 

 バイト終わりに小腹が空いたので牛丼屋に入り腹を満たした。時計を見ると夕方の5時を過ぎた頃だった。今から行けばまだ店は開いているだろう。自転車を跨ぐと勢いよくペダルを漕いだ。

 ヒント屋の前に着くと自転車を停めた。ロックをして鍵を抜き取る時、ガラス越しに店内を覗いた。店のカウンターの椅子に誰かが座っている。カウンターの椅子に座っている客は、時々体を揺らしながら身振り手振りを付けて店主と話していた。店主も楽しそうに相槌を打って笑っている。こちら側からはカウンターの客の顔は見えないが、店主の笑顔を見れば二人の間柄がよくわかった。こんなに楽しそうに笑う店主を俺は初めて見た。

「また来ます。ありがとうございました」

 俺が入り口のドアを開けると、カウンターに座っていた客が椅子から立ち上がる音が聞こえた。

「こちらこそ、いつも楽しいお話ありがとうございます」

 店主はペコリと頭を下げた。

「じゃあ、また」

 客は店主にくるりと背を向けると、ドアの前にいる俺に気がついた。少し驚いた顔をしたが、すぐに会釈をして店を出ていった。すれ違う時に客の横顔をよく見ると、まだ幼さが残る少年のような男の子だった。高校生か、もしくは橋本くんと同じくらいの大学生になったばかりの男の子だった。

 ヒント屋を出た男の子が見えなくとなると、俺はカウンターの椅子に移動した。店主はさっきの男の子が飲んでいたコーヒーカップを下げて、テーブルを布巾で拭いていた。

「さっきの子も、ここの店のお客さんですか?」

 カウンターでヤカンに火をかける店主に俺は聞いた。

「はい。彼も以前ここにヒントをもらいにやって来た方です」

「それじゃあ、今日もヒントをもらいにここへ?」

「いえ。今日はヒントを差し上げてはおりません。彼は時々ここにお喋りをしに来るのです」

「お喋り?」

 店主はカウンターの下からコーヒーカップを取り出した。ヤカンのお湯が沸騰し始め、小さな湯気が立ってきた。

「はい。コーヒーを飲みながら、ここで私と一緒にお喋りをするのです。さっきの彼が今何に悩んでいるか私は知りません。もしかしたら何も悩んでいないかもしれません。ですが、彼がお喋りしたいと思った時にここにやって来て私とお喋りをするんです。

 ちりとりさん。こんな経験、ありませんか? 落ち込んでいる時や悩んでいる時に誰かと楽しくお喋りしただけで元気が出たこと。自分の悩みを打ち明かさなくても、誰かと一緒に食事をして、お茶やお酒を飲みながらワイワイお喋りをするだけで元気が出た、なんてことありますよね。悩みを解消するのは相談をしたり相談に乗ったりするばかりではないのです。相談事と全く違う話をしていても気持ちが楽になって悩みが小さくなることがあります。以前、さっきの彼が言っていました。心が満たされるだけで悩みに立ち向かえる勇気が湧くんだと。だから、お喋りも立派な【ヒント】なのだと言っていました」

「お喋りがヒント、か」

 この前の飲み会の席で橋本くんが話していた『ピックアップ力』のことを俺は思い出した。店主が今言ったことは、橋本くんの話と通じるものがあると思った。

 コン、と俺の前にコーヒーが置かれた。頷くように頭を軽く下げる。毎回、店主はコーヒーにスティックシュガーとミルクを添えてくれる。けれど俺はブラック派だった。

「いただきます」

 火傷しそうなコーヒーに唇を震わせながらカップに口を付けた。さっきの男の子と一緒にコーヒーを飲んだのか、店主は自分のコーヒーを淹れていなかった。少々、手持ち無沙汰な店主を見て俺はカップを置くと早速本題に入った。

「追加でヒントをもらうことはできますか?」

 店主と目が合った。

「と、言いますと?」

 俺はもらったヒントの千羽鶴が完成したことを店主に説明した。

「千羽鶴は完成しましたが、結局答えは見つかりませんでした。一生懸命、考えたんですけどね。自分が本当にこのままでいいのか。作家の道を諦めて今バイトしているところで就職しようかとか。鶴を折りながら考えましたけど結局答えは見つからなかったんです」

 そう言って、俺は俯いた。

 本当にそうだったのか。答えは見つからなかったのか。見つけなかったんじゃないのか? 店主に話したことは嘘ではなかった。でも嘘を付かないことと本心を話すことは必ずしも同じではない。

 自分の本心に気づく前に急いで俺はコーヒーで口を塞いだ。喉を溶かすようにコーヒーの熱が流れ込んでいく。俺の動作を黙って見届け、店主は口を開いた。

「では追加のヒントを差し上げます。ご用意しますので少々お待ちください」

「毎度すみません。ありがとうございます」

 何度も店に来て、かわるがわるヒントをもらいに来る俺に店主は嫌な顔一つしなかった。俺のようにヒントを何度ももらいに来る客が他にもいるのだろうか。聞こうとしたが、やっぱり聞くのを止めた。追加のヒントを探す店主を背にして、どこか他人事のように次のヒントを待った。

 カウンターのテーブルに肘を付いて壁に飾られている夕焼けの絵を眺めた。それから体を捻り、店内を見回した。統一感がなく、溢れるように並んでいる物、つまりヒントたちを眺めながら俺はここに来た相談者たちのことを想像する。この店に来た他の相談者たちはどんな悩みを相談しにやって来たのだろう。さっきの男の子は店主からどんなヒントをもらい、そしてどうやって自分の悩みを晴らしたのだろうか。店内を埋め尽くす程の数々の品物は全てが大切なヒントだった。ここにこれだけのヒントがあるということは、これだけ誰かの悩みが晴れたという証拠でもある。今になってそのことに気づかされた。急に不安が押し寄せる。ヒントをもらっているのに俺の悩みは一向に解消できない。もしかしたら俺の悩みはいつまで経っても解消されないままなのだろうか。

「お待たせしました。追加のヒントはこちらです」

 カシャカシャ、音を鳴らしながら店主がカウンターに戻ってきた。店主の手元に視線を落とす。クッキーが入っているような箱を見て、箱の中身を見なくてもヒントが何かすぐにわかった。

「ジグゾーパズルですか?」

 嫌な予感がした。正解、とでも言うように店主は箱をカシャカシャと揺らした。そして箱の蓋を開ける。

「はい、正解です。ジグゾーパズルです。パズルはパズルなのですが、こちらのヒントは【不揃いのパズル】になります。このジグゾーパズルは全てのピースが揃っていません。その名の通り、不揃いのパズルなのです。ですから最終的にパズルを完成させることはできませんのでご注意ください」

 店主はヒントのパズルの説明を始めた。じわじわと店主に違和感を覚え始める。右足の揺すりが早くなる。違和感が次第に苛立ちに変わり、俺は苛立つ気持ちを抑えることで精一杯だった。一通り店主の説明が終わると、俺は言い放った。

「以上ですか?」

 店主と目が合った。そして俺はもう一度聞き直した。

「あなたからは以上ですか?」

 いつも店主が最後に言う「私からは以上です」を言われる前に、俺が代わりに言ってやった。嫌味っぽい言い方だったと自分でもよくわかった。

「はい。私からは以上です」

 店主は俺の嫌味を跳ね返すような笑顔を見せて頷いた。俺はその笑顔にまた嫌悪感を抱き、顔を逸らした。バイト着が入ったカバンにパズルの箱をそのまま突っ込むと俺はヒント屋を後にした。

 外は暗くなっていた。ヒント屋の前に停めた自転車のカゴにトートバッグを投げるように入れると、ロックを外し俺はペダルを踏み込んだ。

 自転車を漕ぎながら俺は今までにもらったヒントについて考える。悩み相談の用紙は今もテーブルの上に置かれたままだった。完成した千羽鶴はベッド側の壁に吊られたまま、買い手が見つかるのを静かに待っている。そして今日追加でジグゾーパズルをもらった。もらった3つのヒントの共通点を考える。答えは簡単だった。これまで店主がくれたヒントは全て俺が自分自身と向き合うためのアイテムだった。最初に渡された悩み相談のヒントは、悩み相談に来た俺に悩み相談の回答者をさせるなんて一見、的外れのように思えた。しかし、俺に他人の悩み相談を回答させることで客観的に自分の悩みを考えさせ、俺が自分自身と向き合わせる機会を与えたのだ。要は、他人の悩みに回答しているうちにいつの間にか自分の悩みにも回答していた、というシナリオだ。次にもらった折り紙のヒントも結局は最初のヒントと趣旨は変わらない。向き合う方法が変わっただけで、千羽鶴を折っている時間は自分と向き合う時間を生み出していたのだ。そして、さっき追加のヒントとして不揃いのジグゾーパズルをもらった。パズルも折り紙と要領は同じで、パズルを完成させることが目的ではない。パズルを完成させるまでの過程が重要なのだ。

「足りないピースを俺の答えで埋めるっていうわけだ」

 今回のヒントのオチがわかって俺は呟いた。今日追加でもらったヒントのジグソーパズルは、全てのピースが揃っていないと店主は言っていた。パズルを完成させるにも最終的にピースが足りない。けれど、今持っているピースだけでパズルが完成する頃には俺は答えを見つけ出している。そして見つけ出した【俺の答え】を足りないピースの代わりにはめ込んで最後パズルが完成するというわけだ。そんなシナリオを店主は思い描いているんだろう。

「バカらしい」

 苦い物を飲み込むように声に出した。店主にもらったパズルに取り組む気なんてなかった。悠長にパズルに取り組んでいる暇なんて俺にはない。

「早く答えを見つけ出さないと」

 次第に焦りが苛立ちに変わっていく。苛立ちの矛先が自分に向かないように立花さんに矛先を向けた。立花さんが大学生の頃、バイトの休憩時間に立花さんからヒント屋のことを教えてもらった。立花さんは、もらったヒントですぐに答えが見つかったと言っていた。だから俺はヒント屋に行ったんだ。なのに、なんで俺には答えが見つからないんだ。話が違うじゃないか。すぐに答えが分かるような効き目の良いヒントがほしかった。ならどうして店主は即効性のある効き目の良いヒントを俺にはくれないのだろう。ヒント屋の店主に期待しすぎた俺が悪いのか。いや、効き目の良いヒントを出せない店主の力不足だ。苛立ちの矛先がヒント屋の店主に変わる。

「誰か、答えを教えてくれよ」

 苛立ちをぶつけるように自転車を漕いだ。空気の抜けたタイヤでは足に重りが付きまとう。自転車は風を切って夜道を駆け抜けていく。ついこの間まで夜は半袖だと肌寒かったのに、今は背中にTシャツが汗ばんでくっ付いていた。

 点滅する信号が赤に変わった。慌てて急ブレーキをかけた。キーと甲高い音が響き渡り自転車のタイヤの摩擦で我に返った。強く握ったハンドルを緩める。手がジンジンする。鼓動が早い。俺は顔を上げた。

「そうだ。答えだ」

 信号が青に変わった。けれど自転車はUターンし、来た道を引き返した。ペダルを踏み込むと、俺はもう一度力強く自転車を走らせた。

 

 店の看板は消えていた。けれど店内の奥のカウンターの電気はまだ付いている。クローズと掛けられたプレートを横目に俺はガラス越しに店内を覗いた。店主の姿は見えない。もう帰ってしまったのだろうか。

「ちりとりさん?」

 声の方に振り返ると、ゴミ袋を両手に持った店主が立っていた。店主は少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「ちりとりさん、どうされたんですか? 何か忘れ物ですか?」

「あ、いや」

 店主は俺の返答に少し戸惑っていた。けれどすぐに笑顔を見せ、両手のゴミを軽く持ち上げた。

「ちょっと、ゴミ捨ててきますね。お待ちください」

「あの……」

 思わず声が出た。店主と目が合う。店主の履いているジーンズとゴミ袋が擦れる。

「答えを」

「はい?」

「答えを、ください」

 店主は言葉の意味を理解するように黙った。

「俺にヒントじゃなくて、答えをください」

「……答え、ですか?」

 店主はゆっくり繰り返した。すると俺は溢れるように話し出した。

「これまで俺はあなたから色々なヒントをもらいました。だけど自分の悩みを解消することはできなかった。でもあなたは悩みのヒントをくれるヒント屋だ。あなたは今までたくさんの人にたくさんのヒントを出してきました。ヒントは答えを導くものだ。そのヒントをくれるということは俺の答えを知っているんじゃありませんか? あなたは、本当は俺の悩みの答えをわかっているんじゃありませんか? それならヒントじゃなくて答えが欲しいんです。答えや正解を教えてください。俺、どうすればいいんですか? このまま作家を目指すべきなんですか? それとも諦めるべきなんですか? 正解は何ですか? 俺どうすればいいんですか? 教えてください。俺に答えを教えてください」

 店主が持っているゴミ袋から使用済みのスティックシュガーが透けて見えた。俺は、コーヒーはブラック派だった。今日俺の他にヒント屋に来た人が使った物だろうか。俺より先に店にいた、橋本くんと同い年くらいの男の子の姿が頭に浮かんだ。顔を思い出そうとしたが思い出せなかった。

 店主はゴミ袋を持ったまま、しばらく考え込むように黙っていた。悲しそうな顔で俺を見つめていた。そんな顔で俺のことを見ないでほしかった。遠くでバイクの音がする。バイクの音はスピーカーのボリュームを下げるように徐々に小さくなっていった。バイクの音が静まると沈黙がより大きく聞こえた。それを制するように店主は静かに口を開いた。

「時々あなたのように『ヒント屋キタミ』に答えや正解を欲しがる方がいらっしゃいます。あなたのようにご自身の悩みを他の誰かに解決してもらいたがる人は意外に少なくありません。自分で答えを見つけるよりも誰かに答えを決めてもらう方が楽だからです。ですが自分の答えや正解を自分以外のものに求めるのは苦しいことでもあるのです」

 店主はライトが消えたヒント屋の看板を見上げた。店主の目線につられるように俺もヒント屋キタミの看板を見上げる。

「この店には多くのヒントが置いてあります。ですが逆を言えばここにはヒントしか置いていないのです。たとえ溢れるくらいあなたの答えを導くヒントがあったとしても、あなたの答えを導くことができるのはあなただけなのです。あなた自身の中で本当に答えを見つけようとしない限り、このヒントめぐりは永遠と続きます。私はあなたに手助けしかできません。あなたに答えをあげることはできません。私はあなたの答えを持っていないからです」

「それは、つまり……」

「私からは以上です」

 今までにないほど店主は力強く言い切った。目が合うと店主はまた悲しそうな顔を見せた。そして俺に背を向けた。

「ちょっと待ってください」

 声を張って店主を引き留める。けれどいくら声をかけてもヒント屋の店主は二度とこちらを振り返らなかった。店主のジーンズとゴミ袋が擦れる音が小さくなっていく。俺は店主の後ろ姿を見つめることしかできなかった。俺たちの会話の終わりを待っていたかのようにまた遠くでバイクの音が鳴り響いた。

 

 ❇

 

「飯田さーん。新商品の在庫、もうないみたいです」

 アルバイトの小野さんは在庫表を挟んだバインダーで肩を叩きながら事務所に戻ってきた。小野さんの声に反応してパソコンから顔を上げると、小野さんは在庫表を挟んだバインダーを不愛想に俺のデスクに置いた。

「在庫整理ありがとう。そしたら小野さん売り場に戻ってレジお願いします」

「はぁい」

小野さんは気だるそうに返事をする。小野さんの返事に覇気がない。いつものアレか、と俺は小野さんの顔を横目で確認する。午前中まで元気があった小野さんが午後になると急に調子がダウンする日は、決まって小野さんが推しているアイドルグループのライブがあった次の日だった。

「飯田さーん。聞いてくださいよー。昨日のライブ、マジ最高だったんですぅ」

小野さんはライブの翌日にシフトが入っていると、俺に会うや否や前日のライブについて熱狂的に語り出した。お昼を挟んでその興奮が一旦冷静になると小野さんは決まって午後の仕事中気だるさを顔に出した。今まで大目に見ていたが最近ではお客さんにも気だるい態度を出すようになってきた。今後この状態が続くようなら一度注意をしなければと思った。

「小野さん、元気よくお願いしますね」

 俺が不自然な笑顔で笑いかけると、小野さんはすり足を立てて事務所を出て行った。

小野さんから受け取った在庫表に一度目を通してから俺はパソコンに目線を戻した。午後の事務作業を終え、パソコンの電源を切ると両手を上げて体を捻った。椅子から立ち上がり時計を確認する。エプロンを外しながら更衣室に向かった。

「浩二、お疲れ。今日はもう上がりだよな」

「はい。お先です。お疲れ様でした」

 店長の丹生さんと廊下ですれ違い、俺は更衣室に入った。胸の名札を外し、自分のロッカーに名札を置く。【飯田浩二】の上に付いている『副店長』という肩書きについ目がいく。思わず苦笑いしてしまう。みんなから副店長と呼ばれる度、俺はまだ若干の照れを隠せずにいた。シワにならないようにエプロンをハンガーにかけると、ポケットに入れていたボールペンが床に落ちた。

 店長の丹生さんの推薦で、長年バイトで働いてきたこのホームセンターに俺は社員として就職することになった。「社員になったら小説を書く時間が無くなるから」という理由で丹生店長からの就職の誘いを俺はずっと断り続けてきた。けれど1年以上の間ろくに小説なんて書いていなかったことを思い出した。何か行動に移さなければ現状は変わらない。そんな状況が俺に迫っていた。何かにかきたてられるように、面倒なことから避け続けていた自分に一旦区切りをつけることにした。

そして中途採用という形で3ヶ月間の社員研修を経て、二週間前にちょうど前任の副店長が抜けたことから俺はこの店の副店長を任せてもらえることになった。

 バイト先のホームセンターに就職が決まったことを両親に電話で報告すると「よかったね」と母さんたちは喜んだ。父さんも母さんもあまり口には出さなかったが、定職につかない俺を心配していたのは知っていた。だから電話口で実際に母さんの喜ぶ声を聞いたら、心配をかけた両親を少しは安心させることができるのだと思った。

「あんた、就職したら物書きはどうするの?」

 母さんからの質問に俺は電話口で黙った。正直、就職をした後の先のことなんてよく考えていなかった。とにかく現状を変える打開策は就職をすることだけで精一杯だった。作家の夢のために何か行動に移さなければとは思う。けれど日々の生活に追われることで考えなきゃいけないことに考えなくていい正当な言い訳を得られたよう気になっていた。

「別に就職をしても物書きは続けたらいいんじゃないの?」

 今はまだ何も考えられない、と言った俺にまさかの提案をしたのは母さんだった。

「別に夢は持ち続けていればいいんじゃない? 就職したら夢を持ってはいけない、そんな決まりなんてないんだから。うちの職場にもいるわよ。あんたみたいに会社員だけどボディービルの大会で優勝目指して頑張っている子」

「あんたみたいって俺は別にボディービルダーを目指している訳じゃないんだけど」

「例え話よ。あんたみたいに夢を持ってやりたいことをやっている人が私の職場にもいるって話でしょ」

 母さんは同じ職場にいるボディービルダーの吉野くんという男性社員のことを話し始めた。

「吉野くん、毎日ブロッコリーと茹でた鶏胸肉しか食べないのよ。お肉に味付けしてるのか聞いたら塩コショウも付けないんだって。私びっくりしちゃった」

 母さんの話はいつも脱線する。加えて話し出すと止まらなかった。ボディービルダーがいかにタンパク質を摂取しなければならないかという話を母さんは話し始めた。吉野くんに影響され、最近では自分も筋トレを始めたと母さんは楽しそうに話を続けた。母さんの話に適当に相槌を打っていると母さんは最後思い出したかのように話を戻した。

「浩二、確かに就職することは大事なことだと思う。だって生きていくためには働かなきゃいけないんだから。だから精一杯頑張りなさい。でもホームセンターに就職したあんたはホームセンターの社員でしかなくなるの? そう思ってんならあんた頭固いわよ。みんな生きていくために仕事も精一杯頑張りながら工夫して自分の夢ややりたいこともちゃんとやってんのよ。あんたももっと図々しく生きなさい」

 そう言って、母さんは笑った。

 電話を切った後、しばらく座椅子から立ち上がらず一点を見つめ考えた。母さんとの電話で誰にも言わなかった自分の本音が浮き彫りになった。きっと俺は就職をすると決めた時点で心の奥底で作家の夢を諦めたんだと思う。夢を追い続けることは、何にも属さず肩書きも持たない状態で追い求めるものだと俺は思い込んでいた。

肩書きやそういうものが存在する理由は、人ははっきりしない不明確な状態が苦手な生き物でもあるからかもしれない。就職してから実感したことは、肩書きとは自分がどんな人物なのかを説明しやすいものであるということだった。与えられた肩書きによって自身の所在が明確になることは時に安心材料でもある。けれどそれだけが俺の全てではない。そんなことを考え始めると、作家の夢は諦めることはないのだと思い始めた。母さんの助言を受けて俺はあっさり夢を諦めそうになるのを辞めた。

 それから思い切って就職をしてみると、社員になってバイト時代とは違う責任感やプレッシャーはあるものの、就職した後の日々の生活は俺が想像していたよりもずっと悪くなかった。最初、冷たい海に飛び込むのは怖いけれど思い切って飛び込んでみると案外海水の温度が心地よかったことによく似ていた。そして何より俺が一番驚いたことは、執筆活動に支障をきたすのが嫌で避けてきた就職が停滞していた執筆活動をまた再開させたことだった。不思議なことに持て余すほど時間があったバイト時代よりも、忙しくなった今の方が執筆活動に取り組むようになっていた。自由な時間が限られている方がやりたいことのために時間を割くようになったのは本当に不思議なことだった。俺の中に小説に対してまだこんなに情熱が残っていたなんて、俺自身が一番驚いていた。

 変わり始めた日々の中で少しずつ悩みのモヤが晴れていくと、俺は時々ヒント屋のことを思い出すようになった。ヒント屋に引き返し、店主に答えがほしいと言ったあの夜のことを考える。あの頃、俺が一番欲しかった【答え】とは見つかったんだろうか。

俺に【答え】のヒントをくれたのは、居酒屋を開くために会社を辞めた舘林の存在だった。俺が欲しかった答えを舘林は持っていた。俺にはなくて、舘林は持っていたものとは何か。それは夢に対する覚悟だった。

 

 着替えが終わり更衣室を出ると手に持っていたスマホが小さく震えた。右手に持っていた自転車のカギを左手に持ちかえてスマホを開く。画面を見ると立花さんからだった。

【舘林さんのお店の前に着きました】

【了解 すぐ行く】と返信する。時計を見ると待ち合わせの時間まで20分あった。相変わらず立花さんは時間にしっかりしているのか、せっかちなのかはわからないが到着が早かった。俺は駆け足で駐輪場へ向かった。

 いつも使っているトートバッグが今日は少し重たい。その重みを確認するようにカバンを肩に掛け直す。自転車のカゴにトートバッグを入れ、自転車のロックを外す。ペダルを踏み込み風に添うように自転車を漕いだ。新しい自転車はブレーキをしても嫌な音がしない。空気が満たされているタイヤは漕いでいると気持ちが良かった。

 大学のサークル仲間だった舘林の店に行こうと決めたのは、ホームセンターに就職してから書き始めた小説が完成した頃だった。俺の29歳の誕生日の5日前にオープンした舘林の居酒屋は、繁盛店になっていると大学の同じサークルだったメンバーが教えてくれた。サークルのメンバーに何度か舘林の店に飲みに行こうと誘われたが、舘林の成功と真っすぐな笑顔に触れる勇気がなかった。けれど書いている小説に目途が付いた頃、ふと今なら舘林に会えそうな気がした。

 夢を叶えた誰かの【覚悟(答え)】に触れたいと思った。ずっとその覚悟(答え)から背け続けた俺が今は舘林の覚悟を目の当たりにしたかった。その覚悟(答え)はきっと真っ直ぐで美しい。触れていると俺の情熱をかきたててくれるのは確かだった。

自転車は目的地に向かって進んでいく。柄にもなく緊張している自分に気づく。自転車を漕ぐ心臓の鼓動とは別に、気持ちのいい高揚感の鼓動が全身を巡る。舘林に会うのはバイト帰りに偶然会った、あの日以来だった。かれこれ1年以上前になる。

自転車のカゴに入れたトートバッグから分厚い原稿用紙が見えた。トートバッグからはみ出た原稿用紙の角が風で小さく揺れていた。トートバッグから顔を出す原稿用紙は今の俺の小さな【答え(覚悟)】だった。そんな俺の【答え(覚悟)】を舘林に見てもらいたかった。きっと舘林は今日だって変わらず俺の夢を応援してくれるだろう。そんな舘林の応援を今は素直に受け取りたい。そして、もっと素直に誰かを応援できる自分でありたいと強く思う。人の夢を応援できる人は、きっと自分の夢を誰よりも信じることができる人だと思うから。

自転車のスピードで当たる心地よい風が顔を撫でた。その気持ちよさに身も心も満たされていく。いつも通っている道が今日はやけに優しい。深呼吸をして顔を上げた。そこには水色と赤を混ぜたようなマーブル模様の夕焼けが目の前に広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エピローグ

 

「塚原、サボり?」

 背後から見下ろすように彼女は俺の手元を覗き込んだ。俺が顔を上げると、覗き込む彼女と目が合った。

「何、読んでるの?」

俺の正面に立った彼女が屈むと、結ばれていない長い髪が垂れて座っている俺の手にかすかに触れる。教室を抜け出し、風の通り道のようなピロティで一人座って本を読んでいる俺を彼女は見つけた。

俺が通っていた中学校にはピロティというスペースがなかった。高校に入学してピロティと呼ばれる空間を初めて知った時、ここが自分の居場所だと感覚的に思った。でもなぜ教室を抜け出しこんな所に俺が一人でいるのか彼女にとってそんなことはどうでもいいことみたいだった。

「何、読んでるの?」

 もう一度彼女は聞く。

「【あやとり、と、ちりとり】?」

 黙ったままの俺を無視して、彼女は本の表紙を覗くとタイトルをそのまま声に出した。俺が何も発さなくても本を持っているだけで彼女との会話は成立した。

「その本、おもしろいの?」

 目が合った視線を斜め下に外す。おもしろいか、おもしろくないかの二択でシンプルに答えるだけなら頷くか首を振るだけだった。けれどそれを考えるだけでも2秒も経ってしまい、結局会話のタイミングから外れて回答を逃した。

「塚原、今度その本貸して」

 彼女が俺の名前を呼ぶ。彼女は俺が何も言わないことを特に気に留めなった。屈んでいた体を起こすと俺を見下ろしながら笑った。そして俺の前を通り過ぎ、校舎に入る段差で「ねえ」と彼女は少し声を張って振り返った。

「それ、誰が書いた本?」

 何度も読んでいる作者だからすぐに名前が出てくるはずなのに、俺は本の表紙を一度確認してから息を吸った。

「【めしだ 麴】」

「めしだ、こうじ?」

 彼女は初めて聞く単語のようにその名を繰り返した。

「変な、名前」

 そう言って、彼女は笑った。【完】


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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ありがとうございました。

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