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2020年の憂鬱①

1人っ子、首都圏の田舎育ち。野球は球が怖くてやめた。テニスは友人に追い抜かれてやめた。親に言われて勉強だけは惰性でやっていた。つまらない人間かといえばそうである。

自分でコミュニティに参加してるくせに、反応があると半日くらい面倒になって返信をためらう。そんな私にも付き合ってくれる物好きな友人はいた。2020年の初詣はその内の1人といったのを覚えている。

「これからは女の子とのデートで忙しいから、お前と出かけることはもう無いかもな笑」

3月、そいつとラーメンを食べた。5日間くらい放置した返信にようやく重い腰を上げると5分くらいで返ってくる。私は彼を見習わなければならない。

私は友人と遊んでいる。帰りの時刻表確認のためスマートフォンを見る。親からのメールだ。

「何時に帰ってくるの?あまり遅くならないようにね」

私は友人から遠ざけるように返信する。

「ご飯は外では食べないようにするからもう少しだけ待ってて。」

夜もラーメンは流石にきつい、もう帰ろうと私は友人に伝える。友人は不満そうにしつつも、じゃあまたなと一言。

2020年、母が亡くなった。

ちょうど母は50歳、私は20歳となる節目の年である。

1人っ子ゆえの愛情表現なのか、私は非常に守られて育った。小学校、ガキ大将と喧嘩になった時には母は学校に乗り込んで一方的にまくし立てていた。それ以来私の母は「子を守る懸命な母」である自分を形成したのだと思う。保育園・小学校では保護者会の中心だった。

中学では事情が一変する。子供の私を取り巻く環境、PTAの環境は小さな地域のそれとは別物である。ある時、私は母に散髪をしてもらい、「ツーブロック」の髪型にした。しかし、中学校では「中学生らしくない髪型」は禁止なのである。母は自ら作った髪型にケチを付けられたと思い、抗議した。中学ではもはやそれは正義ではない。私と私の母に対する周囲の認識はいわゆる「モンスター」のそれであったことだろう。私も同級生から心配された。

「お前色々、大丈夫か?」

本当に色々なんだと思う。周囲から私と母の関係性に対する複雑な心情も、私への同情も。しばらく中学の生活にも慣れ、クラスの指揮者に選出されると、合唱のリーダーとして放課後の終業限界時間まで居残ったことがあった。特にピアノ担当の子とペアで居残って練習することが多かった。その子とは小学生の時から親しく、思春期特有の甘美な下校を指揮者の立場に甘んじて楽しんでいたのである。

ある日の練習後、私は突然校長に呼び止められた。家まで私だけ車で送迎するというのである。ピアノの子はきまりが悪そうに「また明日」と告げて一人で下校した。おそらく「色々」察したのであろう。私は初めて自分が情けないと感じた。同時に、母に激しい嫌悪感を覚えた。ピアノの子とはそれ以降、私の方から距離をおいた。恥部を見られてしまったような気がして。

私は母に目をつけられないよう、周囲に目をつけられないよう、必死に勉強だけをした。生徒会も、学年委員長も、合唱コンクールの主体も、全部全部「忖度」に見えてしまう。もう全部やめた。幸い母は教育熱心であったから有名な進学塾に通わせてもらうことができた。

その結果、私は3年次、学年1位であり続けた。母が私を最後に褒めたのはその時期だったかもしれない。事件は受験前の三者面談のことである。

私は地域の公立トップ校を受験するよう教師と親の双方から勧められた。ただし、両者には致命的な食い違いがあった。併願校の数である。学校の教師は滑り止めの私立高校のことを「お守り」と表現した。そのことが母の逆鱗に触れたのである。家計はとても裕福ではなく、複数校の受験料および進学願い留保のための料金がバカにならないのである。母は激昂して公立と私立一本ずつという意思表示を貫徹し、本当に私の受験はそうなってしまった。これは息子の実績ありきの大きな賭けであったのだと思う。体裁を保つための啖呵を切ったのである。

私は「お守り」高校の特進生として合格した。その後、本命には落ちたのである。母は卒業式に姿を現すことはなかった。高校の入学式にも。


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