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無知への憤りと人生観について

 まさか現代日本のニュースで、「凶弾に斃れた」という言葉を聞くことになろうとは。ショッキングな出来事だった。ニュース自体もその結果についても。平和であることが売りの日本でこんな事件が起こったことにただただ衝撃が隠せない。

 このニュースに触れて、二つの考えを言語化したくなった。それぞれの考えは全く毛色の違うものだが、思考の種が同じだったので一つの記事としてまとめようと思う。


 まず一つ目。

 私がこのニュースに接して最初に湧き上がった感情は、平和な日本において銃殺という事件が起こることへの驚きだ。もちろん元総理が銃で狙われたという点にも驚いたが、「銃撃」という行為そのものに対しての驚きがとてもとても強かった。当たり前のように暮らしている日本の中に、映画やドラマでしか見ない非現実的な殺害方法が入り込んでしまったことをまだ受け入れられていない。

 この考えをベースにすると、銃で狙われた相手が誰であれ、私は同じような感情を抱くだろう。狙われた対象が元総理であるという点は、私の衝撃にあまり大きな影響を及ぼしていない。

 なぜだろう。戦後日本で一番長きにわたって日本の舵取りをしており、我々の生活基盤の大部分を作ってきた人が銃殺されたというのに、なぜその点に対して心が動かないのだろうか。

 それは、私が安倍総理に対してあまりにも無関心だったからだと思う。安倍総理の政策をあまり理解していなかったし、そもそも彼の政治的、外交的な立ち位置も全くわかっていない。参政権を持ってからの選挙には必ず行っているし、今度の参議院選挙にも行く予定なので、いわゆる「政治に無知な若者」とは一線を画していると思っていたが、この事件を受けてその自負はガラッガラに崩れた。総理の政策に対して無知で、その無知ゆえに総理が銃殺されたことに対しても無感動であってしまう自分は、そこらの「政治に無知な若者」と同じではないか。いや、政治に無知であっても安倍総理の人間的魅力を好んでいた若者と比較すると、総理自体に無関心だった私の方がよっぽどたちが悪い。

 国のトップに対して何も思っていなかったこと、政治に対する感度が低かったこと、単純に政治に対する知識がなかったこと、この事件によってそうした私の態度が突きつけられた。興味のアンテナを高くすること、あらゆるものの知識をつけてどんな話題でも打ち返せるようにすることを人生の目標に掲げている自分にとって、この態度は非常に好ましくないものなのではないか。自分の世界が狭まるというデメリットだけでなく、無知ゆえに耳障りのいい言葉や概念に乗せられ、知らぬ間に国の破滅に巻き込まれる可能性だって考えられる。これでは私が批判的に捉えているナチズム下のドイツ市民と同じ轍を踏んでしまう。

 ので、とにかく政治を勉強しようと思った。選挙にあたって公約を批判的に読むといった小手先の政治参加だけでなく、今国のトップを担っている自民党はどんな主義を持っているのか、岸田総理はどういう考えで国の舵取りをしているのかなど、今現在国を動かしている政策の背景を知りたいと強く思う。そこから各党の細かい主義を理解し、それらと自分の考えをすり合わせ、能動的に政治に参加することが人生の新たな目標だ。

 今日のニュースを受けて、私は自分の政治に対する無知や無感動に強く憤りを覚えた。その感情を原動力として、政治に対する圧倒的な知識を身につけたい。いつか政治に無知だった自分を嗤えるように。



 二つ目。

 話は逸れるが、私は幼い頃から人生を極細の糸のように捉えていた。今我々が生きているのはその糸が奇跡的に途切れなかったからであり、過去にどこかのボタンが少しでも掛け違えられていたら、その糸はいとも簡単に途切れてしまい、今ここで生きていられていないと思っていた。今でもそう思っている。

 同じことは未来に関しても言える。糸は何かの拍子にぷつっと切れてしまう非常に繊細なものであり、切れるタイミングが来週ではない、明日ではない、ましてや今でないと言い切ることは不可能である。つまり、今生きている自分が一秒後も同じように息をしている保証なんてどこにもないのだ。言語化するとしごく当たり前のことだが、私の中にはなぜか昔からこの考え方が染み付いており、ふとしたときに意識に浮上してきて私を怖がらせる。

 ニュースを知ったまさにその時、この考えが頭をもたげた。昨日の今頃や今日の朝に安倍総理が銃殺されるなんてことを考えられた人は多分皆無だろうし、安倍総理が今日死んでしまうことはおそらく誰の意識の片隅にもなかったのではないか。そんな「安倍総理は今後も当たり前に生き続けるだろう」、つまり安倍総理の人生の糸はこれからも伸び続けるだろうという考えをぶち壊したのがこの事件だった。人が当たり前に生き続ける保証なんてないということを、久々にガツンと味わわされた。

 そして、この人生観を持っている私は、目の前にいる人の人生の糸がいつ切れても後悔しないようにしようと思って日々を生きている。会いたい人には積極的に連絡をとって会いに行ったり、目の前の人に対して感じた気持ちはすぐ伝えたりなど、自分を取り囲む人々がいつ人生の終わりを迎えたとしても、私がその人々に対してしたいと思っていたことは過不足なくできた、と思いたい。もう会えなくなってからその人への対応に後悔するのは絶対に嫌だ。事件の報に接して、その思いを改めて強くすることができた。大好きな友人たちに臆せず会い、自分が抱いている愛の気持ちを余さず伝えなくては。


  

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