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「欲しかった大人」に、自分が、なっていく。

『 尊敬できる大人の存在 』

というのは、
こどもにとって「ものすごく重要」だと思います。過去を振り返ってみてもそう思いますし、色々経験して「いい大人」になった今、改めてそう思います。

子供時代のわたしは、身の回りに「尊敬できる大人」がいませんでした。まず、家族の中にそう「感じられる人」がいなかったからです。

世間的に立派。経済的に困っていない。むしろこどもに物もサービスも十分に与えている。他人(他の大人たち)からみて「いいおじいちゃん・おばあちゃん」「いいお父さん・お母さん」と思われる人がいる家庭であっても、こどもにとっては「尊敬できると思えない、感じない」という状態は、それほど珍しいものでもないと思います。

わたしの家庭は、わたし(当時のこども)からみて、まさにそうでした。理由は簡単です、「機能不全家族」だったから。外側からはわからなくても、家族であれば、家族の一員だったからこそ「わかること」です。


同じ家庭で育った兄と妹は、そう思っていたかがどう感じていたかは、わかりません。同じ家庭で育ったとしても、「別の人間」であり、与えられたものも、経験してきたものも「違う」ので。いくら血を分けた兄妹でも「同じように感じる」とは限りません。

わたしに限って言えば、中学の頃からひとりアメリカに行ったりして。すでに兄妹とは「違う世界、経験」を与えられていたので、兄や妹と比べて「違う価値観」が色濃く混ざり合っていくのは「当然のこと」だったと思います。

話が逸れてしまいましたが。


「尊敬できる大人」


わたしは「言動が一致している人」のことを、そういう風に感じます。実際に、言っていることとやっていることが合っている人。

これが、本当の意味でできる人は

「自分に詳しい人」
「自分自身と、きちんと向き合えている人」


のことだと、わたしは思うのです。
「伝わるもの」が、ある人のこと。
そういう人を、わたしは「尊敬できる人」として感じていて。

人によっては、
「尊敬できる人」を、テレビの向こう側の人だったり、本の中に登場する人物だったり、漫画に登場する人物だったり、作家さんだったり。
実際には会えないけれど、存在している人物に見出したりします。

誰でもいいと思います。
自分が「この人は尊敬できる」と感じる人。
そういう人がいる人は、いない人と比べて
人生において「希望を見出せるチャンス」の数が全然違ってくると思います。

それが、
理想としていうのであれば
自分の「家族のなか」に存在するのであれば
そんな幸せなことはないと思います。


母親と共依存
という「母とふたりきり」にしかならないような関係性で
生きてきたわたしにとっては、
ずっとそんな存在を見つけることができていませんでしたが、

いい大人になって、見つけた。出会えたのです。
こころから尊敬できる大人の存在。


そのことが
わたしの人生を変えてくれたと思っています。
変える「きっかけ」を与えてくれた。

「尊敬できる大人」
と出会うこと。
関わり合えるしあわせ。


その価値や、必要性。


どういう感じか、十分に経験してきた今

『 尊敬できる大人 』というのは

わたし自身が目指している
「在りたい大人」像となっています。

今後、母子共に「自分らしい幸せ」を諦めず、希望をもって生きていけるための具体的なサポート活動を拡げていきます。そのための活動資金にしますので、ぜひお気持ちいただけたら嬉しいです。応援よろしくお願いします。