「トランジスタの気持ち」
科学技術に関していえば、産業界では2019年もAIを中心に多くのニュースが社会を賑わせたと思われる。シンギュラリティに関する議論はまだまだ熱を持って語られていて、AIによって無くなる仕事やAI時代に身につけるべきスキルなどは多くの人の注意を引きつける話題であろう。AIというか機械はこれまでにも人の身体活動や知的活動を加速する道具として社会に取り入れられ、ある職業はなくなり、新たな職業を生み出してきた。所謂シンギュラリティに関する議論には興味はないので、ここでは機械が将来的に生物としての特徴を持ちうるのか、について考察したい。
学者の間でも、脳活動は電気信号にすぎないからすべてのニューロンの活動をシミュレートできるようになれば人間の意識を計算機上に再現できるようになるという意見もある。人間の意識が計算機にコピーできたとして、それを仮に計算機型人間と呼ぶことにしよう。計算機型人間は果たして生物としての視点から見た場合、人類に不老不死を提供する身体メディアとしてどのように機能しうるだろうか。また身体メディアをどのようにデザインすると計算機型人間として現実的に生きられるだろうか。
私には、AIと生物とを並列にした議論をなかでどうしても感じる疑問がある。計算機の最小単位ともいえるトランジスタに気持ちはあるのだろうか?気持ちというと語弊があるが、いわゆるタンパク質や生物の基本的な単位が持つ自己複製、自己増殖のメカニズムがハードウェアとして組み込まれているだろうか、ということである。人としての意識はある部分、この細胞のハードウェアとしての意図に突き動かされている要素がある。計算機はハードウェアとして固定化されてしまっているので、たとえロボットとしての身体を計算機型人間に持たせたところでそこには十分なボトムアップの感覚入力は、人間の頭でプログラムとして論理的にシミュレートできる範囲内に限定されることになる。ロドニー・ブルックスのサブサンプション・アーキテクチャによるボトムアップでロボットを設計することにより、ロボットが生物的な挙動を獲得し始めることはよく知られることである。トランジスタと生物の最小単位がハードウェア的に全く異なる物性であることは、サブサンプション・アーキテクチャの最下層をトランジスタではハードウェア的に実現できないことになる。
人の意識を計算機上で再現するときに、コピーした瞬間は問題ないかもしれないが、このことは大きな障害を引き起こすのではないかと考えられる。意識はトップダウンに記述された論理ではなく、身体を構成する各細胞、その集合体の各組織からの入力を積み重ねていった結果、発生しうる側面は抜きにしてかんがえることはできない。つまり計算機型人間は突然、生首として登場することになる。通常、受けるはずの感覚入力がないことから、激しい痛みや、幻覚に襲われることになるのではないだろうか。脳活動のコピーが完了した計算機型人間は、その痛みの激しさにいきなりショック死してしまうかもしれない。たとえ誕生の瞬間を生きながらえたとしても、十分な間隔入力のないロボットの身体では正常な意識を保つことは厳しいことが容易に想像される。人間の身体を忘れ脳活動のみに注目している限りにおいては意識のコピーは上手くいかないだろう。
では、どのような身体メディアとしてどのように計算機型人間を誕生させるのが現実的だろうか。生身の身体の喪失段階から徐々に機械の身体へ移行させていくことが自然な形ではないだろうか。失われてゆく感覚入力を徐々に機械の身体からの信号入力置き換えていって、脳を機械の身体に慣らしていくことが必要であると考える。そして、最後に脳を計算機にコピーすること計算機型人間として誕生する。そうすることで意識はパニックを起こさずに完全に計算機に置き換えられるようになるかもしれない。このプロセスを司る学問は人工知能というよりも人間拡張工学ではないだろうか。機械の身体を自分の身体の一部として自在に操る能力を人間が獲得するメカニズムを研究していくことで、より若い年齢で計算機型人間に移行できるかもしれないし、生身の身体にとらわれない機械ならでわの身体に適用できるようになるかもしれない。ただ、それでもトランジスタに気持ちが存在しないことが、計算機型人間の成長や進化の大きな壁となるだろう。
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