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子育てという場に立つ。

子育てをしている人であれば当たり前ではないかと、思われる方も多いと思う。でも、私は子育てという場に立たずに、約12年子育てをしてきた。

2年前、「子育て」という場に、本当に、立つという選択をした。

病気の症状でも、子どもが不登校というわけでも、特別何か大きな問題が起きているわけでもなかった。けれど、天災(雨漏れ)というカタチで私にそれは知らせてくれた。

一生懸命、子育てしてきた。

保育園対応、してきた。

子どもの話を、聞いてきた。

子どもの願いを叶えてきた。

学校役員、保育園役員もやってきた。

でも、それらは、全て子どもに関わることで私がやっていることであったが、「子育て」という場に、私は、いなかった。私は「子育て」という場に、立っていなかった。

どこにいたのかな?と振り返ると、どこにいたのかすらも曖昧でわからない。

一緒にいるし、抱っこもしているし、ご飯も食べさせているし、一緒に遊んでいるし、毎日お話もしている、寝かしつけもしている。でも「子育て、どこからしていたの?」と問いを立ててみると、答えは・・・「あー、私は不安から、子育てしていたよ!」

ピヨーん♪と、今、出てきました〜♪

いい悪いではない、正しい間違っているではないってこと、分かっていた。

子どもたちの生きる力ってすごいな!とか、こんなにも広い内面世界持ってるんだ!とか私より全然シンプルで大人ーとか、びっくりさせられることばかりで、それを、ダメダメな私が壊してしまわないように、そーっとそーっと大切に子育てしていたんだよね。

そう、私がこの子たちの未来をダメにしちゃうんじゃないか?っていう不安から。

HSPの自分のトラウマを癒してあげたら、

HSPな自分の感覚も信じれるようになった。

HSPな自分を、めちゃめちゃ楽しめるようになった。

1週間という時間が経って、子どもたちの未来をダメにしちゃう自分じゃなくなってきた。

そして、昨日、武田友紀さんのご著書、雨でも晴れでも「繊細さん」を、自宅でのんびり読んでいて、自分の内面にここ数年で起きていたことを振り返った。

私はあの時に、職業名にはならないけれど、「子育て」という場に立つという選択をしたのだなぁとほんのりと気づいたのでした。

「子育て」という場にちゃんと立ってみたら、子どもたちが、不登校というアラームを出していることに気づけた。感情として、うまく言葉にできない葛藤を抱えていることが理解できて寄り添うことができるようになった。

そして今がある

そしてそのことを感じられる私である

気づいてあげられる私である

寄り添える私である

そんな豊かさがあることに、本当に本当に涙が出る。

いつもありがとう。いてくれてありがとう。

今日も読んでくださりありがとう。

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