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感情を感じるだけじゃない、感じるということ。

夏休み、長女が帰ってきた。高校生になり、一人で暮らすことにより、自分でできることが増えている。いつもなんでも付き添わなくてはならない心配をしていた私は、あまりの手の離れように、ちょっと唖然としている。末っ子も長女が帰ってきたことにより、一緒に遊んだり、踊ったり、元気である。末っ子は外には出さないけれど、うちに秘めた想いがあったのだと、より深く気づく。

末っ子HSCにあった学校での出来事はこちらのコラムに書いています。よかったらお読みください。↓

https://kanseikids.com/220715/

長女が出発するときに泣いたのは、第二子だった。ずっと寂しい寂しいといい、当日も涙した。末っ子は全くそれらの感情を外に出すことはなかった。

感情を出せなかったのだと、その後の学校での出来事を振り返り、感じた。今まで家にいたHSCの姉がなんでも汲み取ってくれた。一番身近で学校のこと、習い事のこと、いえのこと、理解してくれていた。汲み取りすぎて姉の方が苦しくなると、私も一緒に苦しくなっていた。末っ子からすると、友達関係といえば、姉のように汲み取ってくれるのが普通だと思っているのだと思う。

末っ子のHSCのお友達を作ってあげたいと、HSCコミュニティーに働きかけると、何人か、手をあげてくれた。夏休み中も週1〜2回、オンラインでつないで共に時間を過ごしている。末っ子はあまり喋らず、私がお話している。でも、末っ子は、とっても楽しみにしていて、絵を描いている。

第一子は、自分でHSCの友達に出会う力がある。いつも数人の中にいながらも一人のHSCのお友達ができ、これまで共に歩んできている。高校でも、新しい環境になれることに大変ではあるようだが、ここでもお友達ができたようだ。

第一子、第二子と、第三子が、ちょっと違うのは、HSS×HSCでないこと。純粋なHSCっ子がどう社会に適合していくのか、私も少しはHSS気質があるので、どう後押ししていけばいいのか、悩みどころである。

本人の中の納得感、安心感、社会の中での人間関係の作り方、そのやり方がわかれば、どんどん進んでいくのだろうと思うが、顔が痒い、足が痛いといった症状と共に、一歩一歩彼女のペースで体験を重ねていくこと。感情を受け止めてもらい、出せる場を経験しながら、生きる力を育んでいく。やっていくことは、このことなのかなと思う。

そんな中で、感情と感じることはちょっと違うのかもしれないと、思う。
感情はどんな感情もあっていい。ネガティブなものもあっていい。そこにあるのだから。感情を感じることはできる。そして、そのほかの「感じる。」はどういうことだろう?自分に問いを投げる。感情を感じるということに、今までフォーカスしすぎていたのは、私のHSPの共感性の部分が他人の感情を感じることに、主にフォーカスしていたからなのだろうと思う。自動的に他人の感情に従って生きてきた40数年をそろそろ抜けて、もっともっと感じることの幅を広げたいし、楽しみたいなと思っている。もっと感じることってできるんだと、感じるのことの広げてくれる世界を見たいと思っている。


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