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ディズニーランドの花火と、父の記憶

私は、父のことが全然好きではなかった。

好きではないというより、正直なところ、彼に対して興味が持てなかった。

血は繋がっているがただそれだけで、同じ家に住み、時々食事を共にするだけ。

あとは互いに別行動で全然OKだし、たとえ父が私の知らないところでどこに行こうが何をしようが、それは知ったこっちゃない。

彼が私を傷つけない存在であればそれでよいし、彼によって養われていることは、私にとって当然の権利だと思っていた。

父という存在は、私にとって壮大なる脇役だった。

歯科医であった父本人も、日頃から患者さんに向き合うことで精一杯で愛想が良いほうでは全然なく、叙情的なところは何ひとつない淡白な男だった。

だから、私と父には「父娘の微笑ましいエピソード」が何も残っていない。

そして、いつでも現実はそんなものだろうと、今もどこか割り切っている自分がいる。

ただ1つだけ、私はいつも不思議に思っていることがあった。

それは毎晩、自宅から見える東京ディズニーランドの花火が上がるたびに、彼が恐ろしい形相をしながら

「おい! 花火だぞ! 花火!!!」

と、半ば強制的に4人の娘を3階の自室へと呼びつける儀式が行われていたことである。

千葉の幕張周辺に住んでいた私たちにとって、連日遠くのほうでぼんやりとディズニーの花火が見えることは日常であり、驚きは少なかった。

というか、鮮明に火花が見えるならまだしも、遠くのほうで光りの玉が弾けているのが見えたところで、たとえ子供にとっても感動に値するものではない。

それでも、父は懸命に、

「おい! 花火だぞ花火!!! いいのか!!! 花火! 今すぐ来い!!! 今すぐだ!!! 大変だ!!! 花火なんだよ」

と何度でも言い続け、強制的に娘たちを集結させるのだった。

我々姉妹は目配せをしながら、父のご機嫌をとってやり、

「わぁ〜。ほんとだ。すごい」

と棒読みの感動芝居を何度でも繰り返し、この時間が過ぎるのを待った。

その瞬間に父の顔をみると、いつもほんの少しだけ満足げに笑っていた。

いま考えれば、あれが不器用な父なりのコミュニケーションのひとつだったのだと分かる。

しかし、現実はテレビドラマのようにいかない。

「パパのことだいすき!」

「パパも君のことがだいすき!」

そんな絵に書いたような家庭は(世に沢山あれど)築けなかった私たち親子は、唯一あのおぼろげな花火によって繋がっていたのだ。

いや、父は目指していた「理想の父娘関係」を、あの瞬間だけ実感することができていたのかもしれない。

当時の私は、実際にディズニーランドに行ったことすらなかったけれど。

その後、私が小学校5年生のときに、父は脳出血により倒れた。

病院に運ばれて寝たきりになった父を見たとき、私のなかに湧き上がってきた感情は、

「なぜ人は、こんなにも簡単に意思疎通がとれなくなってしまうのだろう」

という、極めてシンプルな問いだった。

哀しいとか絶望とか、寂しいとか泣きたいとか、そんなことを言っている暇は1妙たりともなかった。

そんな自己憐憫にかられている暇があるのならば、新しい生活を営むために建設的に生きたほうがマシだった。

ある時、父の病室に見舞いに行くと、彼は急に泣き出した。

子供のように涙を流し、鼻水を垂らし、ベッドで呻き声をあげる彼の迫力を間近で目撃した私は、自分の情緒が崩壊していくのを感じていた。

父の身体には沢山の管が通り、鼻や喉にも細いチューブが繋がれている。

この男は、なぜ今になって急に感情を表に出すのだろう。

そんなのは、反則だろうが。

そう思った。

なぜ、なぜ急に。

今になってそうやって。

そういうのは、ダメだよ。よくないよ。我が家らしくない。

看護師の手によって父のおむつが代えられている姿を、私は呆然と眺めた。

数日後、父の病室へ診察に来た医者に、私は思い切って尋ねた。

「父が、こないだ急に号泣しました。びっくりしました」

すると、医者は困ったような表情をしながら優しく言う。

「あのね、それ、別に哀しくて泣いているわけじゃないんだ。この病気になると、脳の神経の関係で、急に笑ったり泣き出したりすることもあるんだ。哀しいとか、そういう感情は、もうとっくに薄れていると思うな」

救いでもあるような絶望でもあるような、そんな妙な言葉で解説してくれた。

父の感情的な姿を見ることが出来て少し嬉しかった私は、それが「病気のせいである」と医者から聞き、ズッコケた。

しかし、同時に安心もした。

父が今、哀しい思いを抱えていなくて良かったから。

いつでも世の中は、ほんのちょっぴり自分の思うようなシナリオにはならない。

私が中学3年生になった時、修学旅行に行っているあいだに父は呆気なく死んでしまっていた。

死に顔さえも、見せてはくれなかった。

最後までタイミングが悪く、ちょっとドジで、皆を困らせる親父だった。

大人になって、友達と気軽にディズニーランドに行けるようになった私は、夜のパレードを見ている瞬間、いつも父の顔が脳裏に思い浮かぶ。

そして、夢のような空間でウットリとするのも束の間、ふと、

「おい! 花火だぞ花火!!! いいのか!!! 花火! 今すぐ来い!!大変だぞ!!! 花火なんだよ!!! な!!! 綺麗だろう!!!」

と、あの必死な形相と声が蘇ってきて、少し可笑しさがこみ上げる。

その後、わずかな哀しみが押し寄せるが、そういう哀しみは15年経った今、そっと飲み込むことができる。

そして、それこそが「哀しみは時間が解決してくれる」ということなのだと思う。

私は、父のことが全然好きではなかった。

好きではないというより、正直なところ彼に対して興味が持てなかった。

でも、今なら思う。

私は、父のことを、ほんの少しだけ愛していたのだ。

そして、決して失うことはない存在だと思っていた。

でも、人はいつかいなくなってしまう。

不思議なことに父は、今も私の心の中で生き続けている。

記憶のなかの彼は、今日も愛想が悪く不器用で、娘たちにもノーサービスだ。

一切笑わない。

でも、それでいい。

コロナがこの世の中から去ったら、私はきっとまた父の面影を感じるために、ディズニーランドへ行くのだと思う。












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