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アッコの聞き耳ずきん 1

染織作家 坂口智美さんの話を聞く 

美しいものを生み出す人の手は、その人の来し方を知らぬうちに描き出しています。芭蕉、苧麻、生絹、キビソ、タッサーシルクなど、美しい糸を選び、扱い、織り上げる、染織作家・坂口智美さんの淡く静かな薄衣には、いくつもの出会いが層を成して、他のだれもが生み出し得ない世界観を見せてくれるのです。

●中学時代に首里織と出合う

── 織りとの最初の出合いを教えてくださいますか。

もともと私はつくることが大好きだったんです。特にファブリックに興味があって。父親が転勤族で、中学、高校時代は熊本だったんですが、時間があれば生地屋さんに行って、オートクチュールの生地をあれこれ見て、触って。高級生地売り場に入り浸っていました。

布との出会いは中学一年生の時でした。父が、石垣島に単身赴任することになったんです。夏休みだったと思うのですが、私は1カ月くらい沖縄に滞在しました。石垣島だけではなくて、沖縄本島にも行きました。初めてでしたし、観光タクシーのお任せコースで島内巡りをしました。その時に連れて行かれた場所のひとつが、今はもうないんですけど、首里織会館。1階は販売スペース、2階が機織り、実演コーナー。ここで機織りを初めて見て、ああ私、これをやりたいって思ったんです。

── 早い出合いでしたね。

でもまだ中学一年生ですし、漠然とでしたけれど将来の夢が他にもあったので、強いインパクトを受けてはいても、即行動するような感じではありませんでした。でも、残像がずっとありました。

それで、高校の時に思い切って両親に言ってみたんです。「私は沖縄に行って織りをやりたい」って。両親は驚きましたね。「なにバカなことを言っているの。そういうことは趣味でやりなさい」って突っぱねられました。

まだその時は、親の反対を押し切って、というほどの強い意思ではなくて、進学からの逃げみたいな気持ちだったのかもしれません。それで、そのままアルバイト生活に入ったんです。輸入雑貨系で、そこで出会った人も人生に影響を与えてくれたので、ムダではなかったと思います。

── でもそのままでは終わらなかったわけですね。

ええ、24歳になって同級生たちが大学を卒業して、それぞれ社会人になって自分の仕事を持っていくのを見て、私、このままじゃダメだって思ったんです。

しっかりやりたいことを見つめ直して、本気で取り組まないといけない。この年齢が、人生を決める最後のチャンスだって。

── 一大決心でしたね。

遅いですけれども、そこから色々調べ始めました。ポリテクカレッジ京都短期大学校染織技術科というのを見つけました。授業料が高くはなくて、奨学金制度もある。これならばバイトとでなんとかできそうと思って受験したんです。その時の同級生が、紅型作家の渡名喜はるみさん。

── ご縁ですね。でも、ちょっと年齢が離れていますよね。

訓練校には様々な年齢や経歴の人が集まります。渡名喜さんは40歳、私は25歳でした。遅くはありましたけれど、学びたくて入った学校です。2年間、学校の実験設備をフルに使って勉強しました。その熱心さを知った両親は、やっと認めてくれました。

●一から手がけられる芭蕉布に魅せられて

── 沖縄では、まず芭蕉布を学ばれがそうですが、きっかけは?

卒業制作のテーマ決めがきっかけでした。テーマは沖縄以外考えられませんでした。私は大城志津子先生の作品が好きだったので、同級生で沖縄出身の渡名喜さんに、「私、大城志津子先生に会いに行きたい」って言ったんです。でも、すでに先生がお亡くなりになっていることを知りました。それでも沖縄には行きたいと思ったんです。中一の時の首里織会館のインパクトもありましたし、そういえば、高校卒業後にアルバイトをしていた時も、沖縄に頻繁に行っていたんです。八重山諸島の離島を一人で全て巡っていたんですよ。

── 芭蕉布のどこに惹かれたのですか?

とにかく行こう、と渡名喜さんと沖縄に行って、その時に連れていってもらったのが、沖縄本島北部にある喜如嘉の芭蕉布会館だったんです。糸芭蕉の畑でそよぐ青々とした葉っぱが美しくて、見とれました。そして、なによりも魅力的だったのが、畑で一から育てた植物の繊維を自分で糸にして織れる、ということでした。全部を自分でできるなんて。これがやりたい! と頭の中で、はっきりと目指すべき世界の像が結んだ感じでした。

── ほかの産地や工房も巡られたんでしょうか。

そのあと、西表島の石垣昭子さんのところもお訪ねしました。素晴らしい仕事でしたけれど、私の心はもう芭蕉をやりたい、と決まってました。

そうそう、石垣さんのところをお訪ねする前に城間紅型工房にも伺いました。城間さんの奥さまに石垣島や西表島に行くことを話したら、「八重山諸島に行くんだったら竹富島のこの人を訪ねてみて。なにかお話聞けるかも」と。そこで石垣昭子さんの工房に行く前に、教えていただいた竹富島のおばあさんをお訪ねしました。芭蕉布を織りたいと話したら、「芭蕉だったらこの辺にあったさ」って押入れをごそごそ探り始めて。竹富芭蕉布です。独特の絣文様で、洋服に裁断されたものでしたから、昭和の戦後のものですね。それをいただいてしまいました。これはもう、芭蕉布をやるしかないって、そんな気持ちでした。

── 芭蕉布の研修生になった経緯を教えてくださいますか。

京都に戻ってすぐ、芭蕉布会館の平良美恵子さんにお手紙を書きました。そうしたら、お返事をいただけたんです。卒業後に来てくださいって。そこから私の染織人生が始まりました。伝承生としてまず2年学びました。

●上原美智子さんから学んだ美学

── その後に、上原美智子さんの工房に行かれたのですね。

2年がまず最初の区切りなんです。その少し前に、これもまた渡名喜さんから、「上原美智子さんのところで知り合いが織っているから見学に行きませんか」と誘われて、工房をお訪ねしてしたんです。美しかったですね。芭蕉布とはまた異なる、透明感ある絹の表情にうっとりしました。そして、その少し後に、伝承生の2年の更新を決める区切りの時期になり、タイミングよく上原先生から「人を探しているので、よかったらうちに来ませんか」ってお誘いいただいたんです。

上原先生のところに行くことを、平良敏子先生に申し上げたらとても喜んでくださったんです。先生は、「内地から来てね、芭蕉を学んでもね、戻ってもできないし、こっちで結婚できればいいけれど、それもわからないし、なんか心配したけれど、絹も扱えるようになったら、内地に戻っても仕事ができるわね」って。とても励みになりました。

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── 上原さんのところではどんな日々だったんでしょうか。

上原先生は、私が憧れていた大城先生のお弟子さんです。不思議ですね、繋がっているんです。上原先生のところでの修業は、最初から2年と決まっていました。ちょうど先生は、ニューヨークのMOMAで作品を発表するなど、とてもお忙しいころでした。色々教わりました。不思議なんですけれど、上原先生が触るだけで糸が透明になるんです。

上原先生に誘っていただけなかったら、きっと進む道も変わっていたと思います。上原先生は、仕事だけでなく、生活の全てがセンスいいんです。「作品も、暮らしも、一つ一つがセンスよ」っておっしゃってましたね。雑談の中で、深みのあるアドバイスをたくさんいただきました。毎日、12時からお昼ご飯なんですが、色々お話ししましたね。当時は私を含めて3名が工房のスタッフでした。上原先生の工房にいた時、一年目は帯をまだ本格的には手がけていらっしゃらなかったので、主にショールを織る準備をやっていましたが、一年目の終わりくらいに帯が始まりました。家に機を置いて、出機でも織っていて。工房で織って、家でも織って、休みの日は畑に行って(後ほど触れます)。そんな20代後半でした。楽しみは猫とビールくらいでしたね。夕方、猫を膝に乗せてビール(笑)。


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●白生地への思いの原点は糸の力

── 2年が過ぎ、独立されたわけですね。どんなものを織りたいと考えられたのでしょうか。

私の中には白生地を織りたいという思いがありました。周りの方々には、白生地は作品にならないし、お金にもならないって反対されました。でも、渡名喜さんが助け舟を出してくださいました。「やりたいんでしょ? なら、やったら? 私が染めてみるから」って。嬉しかったです。

── 渡名喜さんの紅型に合う白生地ですね。どんなものを織られたのですか。

いろんな糸や生地に挑戦しました。キビソ(繭の外側の繊維)だけでゴツゴツとした布を織ってみたり。早い時期に、渡名喜さんと二人でコラボしましょうということにもなりました。いろんな種類の白生地を織りました。渡名喜さんは、私が織った生地にぴったりの柄を染めてくださるんです。最初のコラボ展は、熊本の伝統工芸館でしたが、二人で飾り付けをした時に、これは違うぞってゾクゾクしました。渡名喜さんの個展にはなんども行って作品も拝見していましたけれど、今回は、二人の力が一枚の作品になっているんです。手織りの白生地に染める意味は絶対ある、と確信しました。私が苦心して表情を出した白生地に、渡名喜さんはぴったりはまる柄を考えて下さるんです。生地をしっかり見て、これにはこの柄がいい、と。

熊本と福岡と、コラボ展を続けて、その後、2003年に渋谷の東急本店で渡名喜さんの作品展があったのですが、私はその前に福岡の人と結婚していて、出産もしていました。子育てが始まってしまい、それ以降は年に一度公募展に出品して、渡名喜さんから頼まれると白生地を織ったり、絹や芭蕉の糸を使って帯を織ったり。そんなペースでした。

まったく離れていたわけではないんですが、ゆっくりゆっくり、でした。

── そういえば、沖縄時代には芭蕉の畑をしていたそうですね。

研修生4人で糸芭蕉を育てていました。芭蕉布の研修2年目からで、そのあと上原先生の工房にいた間も続けていました。合わせて3年間、休日には車で喜如嘉まで通って畑仕事をしていました。今も芭蕉布会館で働いている仲間の2人は畑を続けているんです。「今度来る時は、野良着持っておいで」って言われました。私も「やりたーい」って。「うちに泊まればいいさ、野良着持っておいで」。「うん、行く行く」って気心知れた関係です。色々ありましたけど、振り返ると楽しかった。当時はいっぱいいっぱいでしたけど、畑はあるし、糸績みあるし、染めはあるし、織りはあるし。最高ですよね。

── 公募展にはどんな作品を出されてきたのですか。

絹と芭蕉を混織した帯です。でも、シンプルすぎて他の作品に負けてしまいます。公募展には工芸の技が込められたものが出展されますので。それでも、出すって決めていればつくるじゃないですか。子育てしながらの10年間、ずっとそうしていました。手は休めずに。芭蕉の作品は必ず自分で糸績みします。最初の自分の夢が全て自分でつくる、だったので。手元に芭蕉の糸はたっぷりあります。たくさんは織れないので、一夏に二本くらい織っています。

── 今は織り模様のある生地も多く手がけられていますが、やはり白生地がお好きですか。

白生地だけ織って生活できるなら、それだけ織っていたいくらい(笑)。白、大好きです。白を極めれば、色を使っても力強いもの、確固たるものができるんじゃないでしょうか。最近は色も楽しくなって、世界が広がっています。

── 坂口さんの作品は、白を介して色を表現しているような繊細な色使いに思えます。色や糸を生かすため、あまり複雑な織りはなさらないのでしょうか?

ええ、私は糸の強弱とか、糸の表情をメインに見せていきたいというか表現したいので、複雑な組織織りは必要ないと思っています。でも、この先はわからないです。すごく複雑な組織に目覚めたりして(笑)。でも今は、糸づかい。同じ染料で染めるのでも糸の太さ細さで変わりますし、絹糸は精練の度合いで表情が変わりますし。

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── 植物染料の色素は使い切るそうですね。上原さんもそのようになさっていました。

はい、上原先生の工房で学んだように、染めた後の残液まで使い切ります。薄物用の糸を染めて残った残液を次に糸の下染に使ったり。その色がそのまま使えるいい色に染めあがることもあります。

── そして、上原さんも糸にとてもこだわる方で。

はい、とても勉強になりました。どういう糸を使うかがいちばん大切だと身にしみました。そこで妥協してしまうと、感覚的に物足りないように見えてしまう。素材にまずこだわって、それをどう生かすかですよね。大変なことなんですけれど、こだわりたい。本当は繭で座繰りしたいくらいです。

── 本当に素材がお好きなのですね。魅力的な作品をつくられる方はみなさん素材にこだわられていると思います。喜如嘉の芭蕉布も、上原美智子さんの絹も、本当に素材への思いが深く熱く、この二つの場所で経験なさったことが、坂口さんの生まれ持った才能に磨きをかけて、美しい作品を生み出していることは、奇跡的な事件のように思えます。子育てが一段落して、これからが作家人生の本番ですね。今日はどうもありがとうございました。

2020.3 きもの おがわ屋にて

染織作家 坂口智美 sakaguchi satomi

沖縄喜如嘉 芭蕉布の伝承生として二年。
その後、あけずば織の上原美智子氏に師事。
独立後、熊本にて「夏織工房」を設立する。現在は福岡県にて制作。



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