見出し画像

後方支援が重要な理由*私のリアル

前日に書き込んだ記事に沿う形で、私の少しの経験と、
記事に同意する部分を少し書き込んでおきたいと思う。

大都会であれ、限界集落であれ、なんらかのコミュニティに
名を連ねていることは大事なことと思う。

「水と希望さえあれば生きられる」というのが、3.11で得た経験だが、
災害発生時の「希望」とはまさに「情報」だと思う。

いっきに社会から取り残されて、今がどういう状態で、
なぜこんなにヘリが飛んでくるのか理解が広がらなくて不安だった。

情報は人から人へ伝わる伝言ゲームのような部分があるが、
先が見えることで我慢も対策も出来上がる。

つながるという事は一番大事だ。

学校や会社や家庭以外の場所に、自分の居場所を作って置くことは重要。

結局は誰かと誰かのつながりが自分を助け、人を助けることになるので、
タイプの違う人、年代の違う人、業種の違う人という、
ただの顔見知りをたくさん作って置くことが一番大事だと思う。

日常の生活で、普段から、誰にでもポジティブだと思う言葉や
笑顔を惜しまないという方法が、私はいいと思っている。

相手に、自分の存在を分かってもらうことが出来るからだ。

いざという時に助け合える状態を作って置く下地と言える。

何か起こった時に人は面識もないひとよりも、面識のある人を優先する。

どんな時も公平にすることなど、ありえないのだ。

仮設住宅の抽選であっても、現実的に優先されるのはコネだ。

ズルを狙えというのではなく、そういう現実を頭に置くべきだと思う。

テレビが見られるようになった時の大きな違和感は、現実との落差だ。

現実はスピードアップを目標に誰もが忙しく働いていた。

しかし画面の中に映し出されるのは、物語ばかりで、
新聞もテレビも中央にいて、眺める人たちのものなんだな、と思った。

早々に自宅を再建した人がテレビに取り上げられる。

本人は「テレビに写りだされるというのに、
自分はまだテレビが見られないんだが」と笑い飛ばす。

災害時特有の高揚感だけでなく、学校、家庭、地域社会でも、
小さい頃から教わってきたので、災害は「来るべきものが来た」と
と誰もが思ったはずで、あとは立ち上がって働き続けるしかなかったはず。

遺伝子に刷り込まれているのかも知れないと思うほど。

SNSで福島に関する意見を読んだ。

「自分ならそんな災害の多いとこには住まないし、
そんなところからは墓ごと持って引っ越す」というものだった。

皮肉ではなく(幸せなひとだな)と思った。

無論、幸せにもいろんな意味があるけども。

父が「もし新しい土地を選ぶ時に迷ったら、旧家の近くを選ぶといい」と
言っていたのを思い出す。

その土地その土地の条件があり、
それを熟知した上で安全性を確保して続いているのが旧家だからだ。

だけども大きな災害は、その旧家ですら安全は100%ではなかった。

被災者は、常に支援者でもあり続けなければならないことを覚悟すべきだ。

単なる留守番というのも働きだし、
赤ん坊や小さい子を育てるというのも働きだし、自分の心を善良に、
元気に保っているというのも被災地では全体への支援になる。

支援は間違えると、子供を甘やかして駄目にするのと同じになる。

やってもらうことが当たり前になる人が出てくる。

これはとても難しい問題だと思う。

どんな組織でもトップに立つ人の色に染められる。

近くでは、空き家を活用して何組か住んで、無事だったお宅の一軒を
集会所のような拠点にした。
しかし、そこでは「被災しないものが何で来る?」と言われるので、
完全に家が流れた人、流れない人の分断ができた。

私が住んでいたところは、物資の分配などの小さな仕事は、
自宅が残っている人達が行い、被災した人たちが、
自分のことに専念できるようにしていた。

一週間経って、沢水を集めて、発電機でお湯を沸かし、
女性と子供だけ順番に一軒の家で、何十人かお風呂に入れてくれた。

行方不明の家族を探す人のために、使えなくなった車や、
しばらく仕事もないだろうと思われる船のガソリンを抜いて、
行けるところまで、送り出した。

地元の建設関係者がフルに動いて、瓦礫をどけたり、
あちこちの道路を最低限で、通したり、作ったりしてくれた。

どうやら助けに来るのは時間がかかるだろうと、誰もが思い、
自分達でやっていくしかない、とみんなが一斉に動いたからだ。

最初、3軒の親戚で同居して、私は食事係だった。

煮炊きはいつも灯油の反射ストーブの上で、最後の最後に、
冷凍食品はいよいよ諦めるしかない、となった時に、
あわびや帆立、牡蠣もサザエもロブスターも、全部入れて鍋にした。

米の備蓄をしているうちは多いし、冷蔵庫や冷凍庫は家庭用とは
別に持っているうちも多いので、食べ物には困らなかった。

洗濯は、沢水を引いている親戚のところまで風呂敷で背負って、
順番を待って、手で洗った。

避難所に移動したのは、一人暮らしや世話になる親戚がいない人、
家族の多い人などで、寄り合い暮らしのようだった。


さまざまな問題は日にちが経つにつれて起きてきたので、
発生時はある意味、それなりの平和が確かにあった。







花の種じゃなくて、苗を買ってもいいですか?あなたのサポートで世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡