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芸術家集団の世界に生まれる*あなたも私も*閲覧注意

私の知る狭い世界の中で、だけど、
芸術家でもアーティストでも呼び方はなんでもいいのだけど、
そういう、才能が外側に滲みでている人や、
肩書のある人は自分ひとりでだけ立っているように見える。

見えるだけで実際は違うのだろうけど、
自分の確固たる思いが、自分を悪目立ちさせてるようにも見える。

ただし見えるだけなので、本人にとっては何の支障もないことだ。

芸術は自分と自分が対象と定めたものとの、
或いはその過程での自分との闘いなんだろうか。

自分以外の他人は単なる背景かただのフィギュアで、
それが心を持って動いているとか、
何も想像していないのかも知れないと勘繰りたくなる人もいる。

その人の持つ芸術は愛から出来ている訳ではなく、自然とは違う何かで、
画一して整えた自身から生まれているようで怖さがある。

怖さもまた心を揺り動かす芸術というのもなのかな、と思う。

可愛いのに怖い、綺麗なのに怖い、すごいのに怖い。

そして怖いけど可愛い、怖いけど綺麗、怖いけどすごい。

これらの印象の違いは、人間としての何かの感情を、
捨てようとしたかどうかの違いかも知れない。

生きている人間の視線というのは、時々怖いものだと思うことがある。

何かそこに、得体の知れない人間の持つ何かが、
レーザーポインターのように照射されていたらと想像して身震いする。

布や服を選ぶ時、触り心地で心惹かれることがある。

テクスチャーとか言ったりするけれど、化粧品もそうだし、
ケーキのような舌で感じるものもそうだ。

まさに五感というようなもの。

選択のすべてが五感によるもの。

その視線に、怖さを感じるものが六感なら、
その人が、その怖さを身に付けたり、
手に携えたりするのはどんな感覚なのかと分からなくなる。


この頃無沙汰の友人のことを思い出している。

とても心が綺麗で、
リアルにいうなら女性としてほんわりしていて、しなやかな感じ。

出すぎない、場の空気を読む、常識を嫌味なく身にまとっている。

控えめで芯が強く、自分のことは後回しにする。

きっと私と並んだ時に、男性なら100人中99人が、
彼女をパートナーとして選ぶと思う。

ひさしぶりに松井冬子の絵をネットで眺めて、
本人画像も(こんなお顔だった?)とぼんやり眺めている。

松井冬子と谷崎潤一郎の小説は、表面的には似ているように思う。

私はその美しい世界は、ただガラスケースに入って眺めている。

心が浸されないように注意深く。


友人は過去に、知人が書いたという、教科書のようなエッセイと、
お気に入りだというけれど、何冊かの古い怪奇物語の本を送ってくれた。

それでいて、彼女のイラストはとても緻密なだけでなく、
とても柔らかな明るさを感じて、私を惑わす。

私がだらだらと文章をつらねてメールすると
「この人のエッセイに似てるなと思うの」なんて、
密かに私の考察もしている。

どこまで私の胸を切り開きたいのかな、と思ってみたりする。

だけどそれがとても心地いいから、彼女の才能は、
家族や回りを注意深く、芸術的に幸せにすることなんだろうと思う。

だから相手に対する愛を持って知り尽くしたいのだと思う。

松井冬子の隣の席に、腹を据えて、ニコニコ笑って座っている感じ。

肩書ありの芸術家よりずっと、私には芸術家的に見える。

彼女の世界では、ガラスケースから知らずに飛び出してしまう。

それが彼女自身の、「妻」と「母」という芸術家の表現によるものだ。



「女性は子供を産むことで、そこらへんは満たされると思うの」

「うん、そうだろうね」

「何か自分の生きた証を残したいとは思わないの?」

「誰かひとりに思いっきり自分を焼き付ける。
それを自分の生きた証にする」

それだってひとつの芸術だよね。

自分自身が。

ちゃんと分かってるよ。

私だけが。

※閲覧注意です ↓
 繊細な方は開かない方がいいと思います。


花の種じゃなくて、苗を買ってもいいですか?あなたのサポートで世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡