稲佐の浜の黒い砂*神様のおとりはからい
ご近所さんから、お菓子の他に、
稲佐の浜の砂をお土産にいただいた。
「お宅もいろいろと続いたから」
世の中が神無月となる10月、
出雲では八百万の神々が集まって、神在月となる。
その神々をお迎えする浜のことで、
出雲大社でご祈祷していただいたあとのこの砂を
庭先にまけば、厄除けになるという。
ご近所のおじさんの娘さんは、
能力を生かした個性的な仕事をしていて、
ともかく出雲大社へいくようにと告げたとのこと。
ひとまず有難くも、我が家の神棚にあげる。
鉛筆の芯をけずったみたいな黒い砂だった。
2011年の夏に東京に出かけた時のことを思い出した。
1日ぽっかりあいた時間に
上野公園で人を眺めたり、
ちょうど開催していた大英博物館の展示を眺めたり、
それでついでに浅草寺まで出かけたんだった。
相変わらずのひといきれ。
でもなんだかそれが心地いい。
ちょうど時間のタイミングが良かったので、
ご祈祷を申し込んだ。
「家内安全」「身体健全」に○を付ける。
書き込んだ仮設住宅の住所を見て、
受付の人に何か、お見舞いの言葉をかけられた。
本堂に入ると暗くて、空気がしっとりと重みを増していた。
慣れない初めての場所に「おトイレはどこですか?」と
気分を変えた。
誰とも会わない。
時間になるのに、ご祈祷に集まった人達はほんのわずかだ。
ちょうど外のお賽銭箱が背になる位置、本堂の一番後ろに陣取って、
お経を読む声を遠くに聞いた。
じゃらじゃらと賽銭箱に投げ入れる音を背中に受ける。
鈴を鳴らす音がひっきりなし。
そんな外の世界の音が近いのに、
随分遠い世界のことのように思えてならなかった。
お経を唱える声も、くぐもって遠く遠くに思える。
私は何処にいるのだろうかと思った。
私の座っているこの場所は、
現実なのか、現実の外なのか、それとも神様の足元なのか。
ボーッと考えてる間に時間が過ぎてしまった。
終わると、お坊さんが、珍しいものでも見るように、
私の方に確かに視線を投げかけた。
あの時私は何かに救いを求めていたのかなぁと、
訳が分からなくなった。
じゃらじゃらと際限なく賽銭箱に投げ入れる音だけが、
あの遠い夏の日の思い出だ。
あの音に、現世の欲と言うものを考えさせられたのだ。
季節を重ねていく度に、誰かに怒られることも、
誰かに褒められることも珍しくなってしまった。
最後の孤独に陥らないために、
神様や仏様という存在を作り出したのかな、と思う。
花の種じゃなくて、苗を買ってもいいですか?あなたのサポートで世界を美しくすることに頑張ります♡どうぞお楽しみに♡