今さらながら、Netflix Original Series。「火花」
小説「火花」を読んだのは、同書が芥川賞を受賞してから数か月後のことだった。その頃私はスイスにいて、午前中の時差ぼけになかばウトウトしながら、それでも半日かけて一冊を読み切った。作者の又吉さんが無類の読書家であることが随所に垣間見える構成と文脈だったけれど、私の中に大きなインパクトを残す小説ではなかった記憶がある。賞を取る作品ってすごいんだな、と漫然と思い、すっかり忘れていた。つい最近まで。
ドラマ「火花」を知るきっかけとなったのは、春のドラマ、「おっさんずラブ」の存在が大きい。牧くんを演じた林遣都さんのお芝居に魅入られた私は、彼の過去の出演作を探すうちに「火花」にたどり着いた(気に入った演者の作品を漁りたくなる癖があるのです)。Netflixオリジナルシリーズは日本の作品でも海外で視聴できるものが複数あり、幸いなことに「火花」もその一部だった。小説を読んだ頃の無機質な感想が頭をかすめはしたものの、ついているレビューに後押しされるように再生ボタンを押す。
そしてそこから10話10時間。十号玉が私の脳内で爆ぜて飛び散った。なんだこのドラマは。ビビッドなのに情緒的、静謐なのに暴力的、奥底に隠された欲望をまとう焦燥感をリアルに描く世界観。圧倒された。
小難しい、分かりにくい、と評されるネタを書く徳永と、とにかく「売れたい」相方の山下(旧幼馴染)。『スパークス』は幾千もの若手芸人の毎日の現実だ。公園でのネタ合わせ、深夜のコンビニバイト、ぎこちないネタ披露の舞台、忖度ない評価、ネタの加筆修正。そして再びネタ合わせ。カツカツの生活と膨大な空き時間。客受けに拠らず媚びない先輩芸人、神谷との出会いは、徳永を嫉妬させ、啓示を与え、引っかきまわす。
破天荒な神谷は信念を持つ芸人だが、その生き様はコンビ名『あほんだら』そのものである。徳永が神谷に対して持つ憧憬は、時に熾烈で時に優しく、でもいつだって公正だ。神谷が面白くないときは忌憚なく意見するし、ボケ倒すときはちゃんと拾う。弟子入りの条件「神谷の伝記を書く」だって、徳永は律儀に守り続ける。涙ぐましい慕いようだ。こんな風に心酔されて、神谷先輩、嬉しくない訳がない。
徳永は笑いに真摯なキャラクターではあるが、達観したんだか思いつめているんだか、感情がよく読めない顔をしていることが多い。ネタ帳を埋めることと「神谷伝記」の加筆にすべてをかけたような生き方をしている。ステージで客を笑わせている時だって、彼は時に無表情だ。少しずつ『スパークス』が売れ始めても、まるで現実と乖離したような徳永の言動は時に不可解で、不思議な余韻を残す。だけど、何も感じてない訳じゃない。瞳だけで語られる感情は言葉よりも絶対的に雄弁で、ドラマを通して流れる暗く静かな空間と打ち上げ花火のような余韻を残す瞬きにピタっと寄りそっている。
なんて繊細なお芝居をする人なのだろう。スクリーンの向こう側だけでなく、実際に徳永が生きている錯覚をおぼえるほどに。
ドラマの後半、『あほんだら神谷』の彼自身への冒涜に、徳永は失望し、怒り、涙を流す。残酷なまでに神聖化したのは徳永自身なのに、自分が天才だと崇め、ついてきたこの人は一体どこでブレてしまったのか、と。それでも神谷は徳永の師匠で、彼にとっては圧倒的な魅力を放つ存在なのだ。そして、神谷がほんまもんの「あほんだら」でも、徳永は彼から目を逸らせないし、自身が芸人を退いてもなお、伝記を書く作業だって中断できない。
自分がなりたくてもなれない「何者」に軽々と到達できる人がすぐそばにいたら、絶対好きになる。憧れる。そこに理由はない。ただ、目を離せない、そして近づきたい、それだけなんだと思う。神谷は最初から最後まで、徳永にとって、なりたかった人「そのもの」だった。
そして、このドラマが深くえぐるように私に残したのは、(やや芥川賞的に)淡々とした感情を突き破るかのような、豊かな美しさだった。背景や色の対比、生々しい息遣い、静けさ、ざわめき、猥雑さ。これらが演者たちの熱量と一致する奇跡みたいな映像がリアリティを伴ってありありと迫ってくる感覚を、私は小説を読んでいるときに体感できなかった。ごく個人的な想像力の欠如の問題かもしれないけど。
映像化したらダメになったと言われる作品は数あれど、世界観を一つも壊さずに原作を凌駕する映像を観ることは、結構レアで幸せな体験だ。そうたくさんあることじゃない。
とても素敵な作品だ。心の底そうから思った。小説も再読してみたくなった。図書館に行ってこなければ。
ここからは余談。
Netflixの複数のプラットフォームで視聴されている「火花」ではあるが、ことこの作品にかけては、外国語で観るのがもったいないと感じる。日本語が分かる外国人だって、本編の半分以上を占める関西弁をどれだけ理解できるか未知数だけど、それでもこの作品は、日本語の緻密な複雑さ(例:反語)をそのまま感じてもらわないと、深み面白みは半減するのではないか、と。
コンビやトリオという単位で漫才という名の「掛け合い」を見せる日本独特のお笑いを外国人に理解してもらうには、「ボケ」「ツッコミ」の立ち位置から説明しなければならない。アメリカやイギリスではスタンダップ・コメディが主流だし、ストーリーテリングからツッコミまでひしゃべり倒すスタイルに「ボケ」のようなタメ(間)ってほとんど出てこない、というか不要だ。そしてこの部分の説明はなかなかハードだ。だからだろうか、歴史や文化的な背景を知っていても肌感が100%理解できない私には、例えばアメリカのコメディを100%手放しで楽しめた記憶が少ない。
なんでこんな話に飛んだかというと、アメリカのNetflixでドラマ「火花」の評価は2018年7月現在、星3つだから。その理由は、ロスト・イン・トランスレーションだと私は考えている。「訳」という作業は本当に本当に難しく、直訳でも意訳でも、なにをどうしたって本来の意味を喪失してしまう案件はそれなりにあるのだ。言葉で説明できないものは特にその傾向が強い。最後2話ほどは号泣案件が立て続き、刺さりまくりで脳内で十号玉飛ばしていた私はもちろん、星5つをつけたけれど、これ、英語で観たって分からんことばっかだろうな、とは容易に想像がつく。情緒的な感情の動きを丁寧に描くことが日本映画の得意とするところだというのに、素敵な演者さんや監督さんがたくさんいらっしゃるのに、なんだか勿体ない。
日本の良作を世界に知ってもらいたい。その気持ちはあれども、あれども。壁は厚く、世界は広い。言語は世界に無数にある。だけどこの作品を分かち合えたら良いのに。無性にそう思う。
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