差別と表現と 考えていること

先月から、アメリカを始め様々な国と地域で軒並みトップニュースに上がっているBlack Lives Matter運動。新型コロナウィルスの席巻もあり、日本では日々継続的な街頭運動のように目に見えて大きな運動には発展してはいないように思うけど、SNS上で賛同の声をあげる人は少なくなかった。今回はこれを出発点としてつらつらと書いてみようと思う。

この差別というものが、日本人にとってもまるで人ごとではないというのは事実である。黄色人種に対する差別も当然存在するし、アジア人同士でもマウント合戦は行われている。国内でだって部落差別やハンセン病や公害を筆頭に、罹患者差別というものが歴史に刻まれている。ごくごく身近なところでは血液型による差別なんかもある。ありとあらゆるシーンで差別は起こりうる。

人種差別は置いといて、ハンセン病は一昔前の話では?と思う人もいるかもしれないけれど、今般の新型コロナウィルスだって差別を引き起こしてしまっている。あの子のお家の人、病院勤めなんだって。あの人コロナにかかったらしいよ。会社名がコロナなんだって、なんだか縁起が悪いな。そんな言葉を耳にすると、人間の倫理観はそうそうアップデートされないのだなと根の深さを感じてしまう。

差別感情は「恐れ」「嫌悪」あるいは「侮蔑(自分より劣るものとして低く評価する)」によって引き起こされるようである。少なくとも、肌の色や血液型、感染病のようなその人の努力どうこうでどうにもならないものによってレッテルを貼り、評価を下すことは広義にレイシズムと呼ばれる。しかしながら、人間に生存本能というものが存在する以上差別をする可能性は常にある。だから我々には自覚と、歴史を省みる勇気(気力と言い換えてもいい)が必要なのだ。当然こう書いているわたしだって例外でなく己の中のこれと戦う必要がある。

上記のように、黒人に限らず、差別は明らかに「不利益を被る人」「苦しむ人」を生む事象であることは間違いなくて、差別なるものは対象のマイナス感情を引き起こすものである。そして黒人にとってのそれが膨れ上がっていたところ、破裂のきっかけとしてあるのが件の映像である。犯罪の現行犯の可能性があったとはいえ、無抵抗の人間の命をむざむざ奪うというショッキングな事態があるということが映像によって明るみに出た。「こういう理不尽があるんだ」と。

亡くなったジョージ・フロイド氏は、偽造貨幣使用の疑いで拘束された。真実であった場合、その大小を問わず罪は罪であるから許されはしないんだけど、裁くのは法である。警官が無抵抗の相手を窒息死させるのは絶対に間違いだ。

元々、黒人が犯罪を犯した場合、拘束時の死亡率は他の人種の4倍に上っているとのデータがある。それは単純に対峙した時に好戦的であったり、混乱・錯乱状態であった、つまり警官の身の危険があったケースが多かったということも勿論あるため、無抵抗の相手を意味なく射殺しているということではない(こういう議論のため、アメリカでは後に対応が適当であったかを判断し、警官自身のことも守るためにカメラを身につけて対応している)。

ただ、これは私の想像でしかないけれど、被差別者であるという感覚を持ちそもそも平時にすら国家権力組織は味方ではないと思っている者が、犯罪を犯したことで明確に追われる者の立場であるとき、殺される可能性が高いことを知っていたら、力づくで抵抗せねばという思考に傾くことがあっても不思議ではないだろうなと思う。

人間は環境によって作られる。犯罪についても、勿論犯してしまえば罪は罪で、許されはしない。許されはしないんだけど、行った理由がどこにあるのかは対岸から正確に推し量ることは難しい。思い至らないところに根がある場合が多々あるので我々の常識で語ることにあまり意味はないのだろうと思う。食べるものがない子どもが盗みをはたらいたとして、そんなことするなら周りの大人や公的機関に頼ればいいのではと考えられるのは、周りを信じられる安全な環境で育ったからに他ならないのだろう。こっちの根はこっちの根で対処していかなければならない。

(テレビ東京系「ハイパーハードボイルドグルメリポート #2」でロサンゼルス・サウスセントラル地区で活動するギャングたちの様子を特集していたのを見た時、何かとてつもないカルチャーショックを受けました。カメラで切り取った一部でしかないわけですが、おすすめします)



BLM運動によってエキサイトした世論は企業をも動かしている。例えばジョンソン・エンド・ジョンソン社では、絆創膏のラインナップを肌の色別に取り揃えるとした。また、白い肌を良しとする意図にとられることを危惧して、アジア向け美白製品の製造を停止するという声明も出た。

これってどうなんだろう?そもそも透き通るような白さの、まゆ玉の肌が美しいというのは開国以前からある古来の美意識なので、別に白人を想定していないんじゃないか?と、当事者としては思う。日本人は清廉なイメージを持つ白という色が好きだと言われているが、それは白人と何ら関係のない価値観だ。

さらに、ここ最近SNSで流行った「アニメ・セーラームーンの一場面を自分の絵柄で描く」というハッシュタグでも同様のことが起きていた。マレーシアのユーザーの投稿で、主人公の女の子を“東洋人らしい”顔立ちにして描いたものがある。それに対し称賛を送るツイートが多くある。日本のアニメなのに、原作は白人の顔立ちをしているという意見が散見された。

「美白製品を売らない」「日本のアニメのキャラクターなのだから、日本人らしい方が正しい、その方が美しい」という、この過剰とも思われる対応によって、我々もまた被差別者なんだなということを実感する。国内では日本人であることがそのままマジョリティなため、日常においては「人種」というカテゴリそのものを忘れがちかもしれない。アニメのキャラクターの人種についても特に気にしていない場合がある。魔法が使える世界の登場人物は「その世界に生きる人間」というだけであって、キャラクターが日本人かどうかは特に気にしないのではないだろうか。(勿論その感覚は日本人だけのものではなくて、各々が好きに感じたらいいだろと言っている海外のファンもいる)。投影・置換可能な存在であるという認識と、イコール彼彼女らは日本人である、という認識は符号しないのである。

そして国内の日本人による外国人への差別(例えば、飲食店で日本人の接客のみを求めるような)を目の当たりにした時も、本当に他人事ではないと感じる。今が過渡期なんだなと思う。あと100年くらいでフラットに……なるように、変えていくのが今なんだろうなと思う。


もう一つ、演劇の世界でもこの運動によって提言されたことがある。黒人役には黒人しか起用しない、というものである。


最初に言うと、わたしはこれには、言いたいことはわかるが賛同できないな、という立場である。舞台とは想像力で見るものだと思っているからだ。

この決定をしたのは『ヘアスプレー』の製作陣。1960年代のアメリカを舞台に、主人公の女の子が差別の現場にぶち当たりつつ、どうにか白人至上主義の状況を打破していくブロードウェイ・ミュージカルである。

黒人差別を取り扱う作品のクリエイターだけあって、今回の運動に対しても強い意志を持って肯定的に発言している。その中での決定だ。1960年代の、今よりもっと強い人種差別の真っ只中を生きる黒人を演じるには、そのバックボーンをより解するルーツを黒人に持つ者が適切である、つまり黒い肌が必要である、という。

しかし昨年、日本でこの『ヘアスプレー』が日本版キャストにて上演されることが決まった際、製作陣はこう述べている。

「肌の色を理由として、俳優がある役を演じる機会を否定することは、たとえそれが “ポリティカリーコレクト(政治的に公平・公正)”であるとしても、それ自体が人種差別になることにも気づきました。」

これを自ら覆す決定ではあるんだけれども、それでも本作においては黒人役は黒人俳優に、ということである。なぜならこの物語においては「人種」が非常に重要であるから。

わかるけど、わかるけども、これが正解なのかなというもやもやが残る。このもやもやはそっくりそのまま、肌の色を理由に何かを決める行為の正しくなさに起因する。そして第二に、「演じる」ということの輝きが沈んだように思えることによる。

例えば、劇団四季公演の『ライオンキング』で、筋骨隆々な人間が頭に芝生を乗せてじりじりと動いているのを見て、あれは百獣の王が治めるサバンナの、生命力あふれる力強い草だ……と思うような。舞台に配された、弛んだ一枚の布を海に見立てるみたいな。演劇は、演出と演技力で舞台上にないものすら見せるものだと思うから、黒人役は黒人しかつとめてはならないとの決まりは演劇の可能性を失わせる決定ではないのか、表現を狭めるのではないか、と思う。

同時に、そういう決定をせねばならないところまで深刻であった結果なんだよなとも思う。鉄板の凹んだところをフラットにしようとするとき、片側から強い勢いで思いっきり叩いたために、向こう側に凸った、みたいな。凹みを均すためにまずパテを多めに盛って、それから削って均等にするような。今回の運動によって起こっている事象は全て、その最初のフェーズなんだろうなと。


島国で暮らしながらもやもやする気持ちを持つにつけ、本当に思うことがある。日本語話者って少ないな、「コミュニケーションのための言語」として本当に弱いな、ということである。母国語を愛してはいるが、言いたいことがあっても、投げかけたい論があっても、日本語だけでは伝わる範囲が狭い。例に漏れず義務教育で英語はやってきたけれど、正確に、頭の中と齟齬がないように語るには語彙が全然足りない。日本語ですら足りないなと思うのだから当然かもしれないけれど。

だからこれを読んだ人に伝えたいのは、差別に対する自覚と、歴史を省みる勇気(気力)と、それにプラスしてなるべく世界で多く使われている言語を習得しよう、ということ。多分生きる上で、どこに行くにしても、強い味方になる三つ。

そしてその上で、よく考え、よく相手の意見を聞き、咀嚼してキャッチボールをすること。簡単なようでいてこれが本当に難しい。差別は身近なものだ。きっと自分もどこかで何かに対して差別をしている。自分は先入観や侮蔑の感情を持っている。その可能性を常に忘れてはいけない。

人間が考える葦であるがゆえの攻撃性、防御のための攻撃性が、対話の邪魔になることは古今東西よくある。考える岩石であったならここまでではなかっただろう。自分が尊重されていないと感じるとき、人の攻撃性はするどい刃物のかたちに浮かび上がる。人と人との最小のコミュニケーションに立ち返れば、大切なのは相手を尊重をし、相手に尊重してもらうための対話をすることなんだろうと思う。



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