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書評・3月のライオン

 文芸評論家の谷沢永一氏が語った有名な言葉があります。

才能も、知恵も、業績も、身持ちも、忠誠も、全て引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には叶わない。

 深く頷く方もいるでしょう。
 可愛いとは見た目に限った話ではありません。挙動や言動から思考や価値観に至るまで、その人の持つもののどこかに言い知れぬ引力がある時、人は可愛げを感じるものです。
 多くの場合「可愛げのない奴だ」と否定的な文脈で使われることの多い言葉ですが、それもそうでしょう。可愛げのある人には勝てないのなら、可愛げを認めることは敗北宣言に等しいのです。いちいち「お前にゃ負けたよ」と告げるほど人間のできた人はそういないでしょう。

 将棋漫画と呼ぶに相応しい盤面のリアリティと、そう一筋縄では括らせまいという人間ドラマの厚み。両輪をしかと繋ぐのは、一見過剰なほどでありながら、読んでみるとスラスラ入ってくる画面の情報量。
 絵に、キャラに、物語に、勝負に、可視不可視の可愛げを散りばめた快作でありましょう。

 桐山零はプロ棋士である。中学生にしてその資格を取り、未来の名人と嘱望される彼であるが、大きな罪を背負っていた。
「将棋が好きか?」という問いかけに「はい」と嘘をついたことだ。
 重い氷のようなその罪と共に、白星と黒星に左右されるプロの世界を生きる零。だがそんな氷を知ってか知らずか、少し、また少し溶かしてしまう存在と出会う。
 橋の向こうに住む和菓子屋の三姉妹。将棋と何ら関わりない世界の繋がりが氷を水に変え、盤面にまで波紋を描いてゆく……。

 とにかく将棋漫画と敬遠してる人も、女流漫画の線に不慣れな方も、一度手に取るべきでしょう。
 バトル漫画のような熱い盤面の駆け引きは、将棋に浅い人でもわかるよう、その見所を列車や馬防柵で視覚化してくれていますし、先述の通り一見ごちゃっとした吹き出し外のセリフや擬音さえ、読んでみると不思議なほどスルスル頭に入ってきます。これを計算してやっていたとしたら、恐ろしい。
 こと最新数巻は、主人公の恋模様まで……と、未読の方の楽しみは奪いますまい。とにかく男子校出身で青春時代にその手の思い出が欠片もない小生なんぞ、そういった情緒に免疫がないものですから、読みながら布団の上で一人柔道を演じてしまうほど悶絶しておる次第であります。

 棋士としての強さは途上でありながら既に高く、しかし人として未成熟な零の人間的成長が、棋士としての成長にも関わってくる。
 未熟ささえ愛おしかった零の成長に触れ、その罪が溶けてゆく様を共にご覧になれば、いつの間にか作者の掌で悶絶していることでしょう。
 将棋は常に敗北を宣言して終わるもの。羽海野先生、あんたにゃ負けたよ。なんなら1巻の時点で私の負けは見えてました。負けた相手には零を……もとい、礼を尽くすもの。あなたが打ち尽くすまで付き合いましょう。
 次の一手が待ち遠しい。

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