「自己責任」って楽しい

 足先が冷えている。原因は、今まで履いていたものを履かなくなったから。足をありとあらゆる外部の攻撃からカードし優しく包み込む、アレ。そう、靴下。私は靴下を履くのをやめた。おかげでこの有様。
 でも私はこの足先の冷えを「心地良い」と思っている。それに、この生活に慣れた頃にはきっと足先の冷えもなくなる、なんの根拠もなくそう思う。だって、裸の足先は活き活きと指を開いたり閉じたりして、見るからに楽しそう。

 私は家で靴下を履くのをやめた。なぜ履かなくなったかというと、まぁ理由は様々あるのだがざっくり言えば「このままだと足の裏の感覚が鈍って、いつか困ったことになるかもしれないとなんとなく思ったから」だ。
 例えば、床。
 床だって、人間と同じで生きている。一見変化がないように思えるが、その質感温もり滑り具合などは、微細ながら日々変化している。その微細な変化を、本来足が享受していたはずのその感触を、靴下を履いてしまったことで、充分に感じられていないとはたと思ったのだ。気取り屋風に言えば、本来足が持っていなければならない能力を解放したいのサッ、ということになる。
 とは言っても、靴下を履かないことで足が持っている能力が解放される、という科学的根拠があるのか私は知らないし、そもそも足にまだ解放されていない能力があるのかどうかも私は知らない。ネット検索すれば、もしかしたらそれに似た記事はあるかもしれない。でもそんなのはあってもなくても、どちらでもいい。
 最近強く思うのだが、科学的根拠とか、どこどこ大学のだれだれ教授が言っているとか、そんなのは気にしない方がいい。それより自分の中にある「なんとなく」に耳を傾けた方がいい気がしている。
 自分の中にある感覚に従順に生活する方が、色々発見があるし、この世界に一人しかいない「私」という存在を楽しめるような気がする。
 要は、あれこれ気にするよりも、「私」に目を向けようぜ、って話。靴下を履かない、もその一環。現状、指先の冷えが気になって自宅での作業が捗らないけれども、それもそれで、まぁ、あり、心地良い。そう思える。科学的根拠とか、どこどこ大学のだれだれ教授の発言を盲信するより、よっぽど健康的。

 自分の行動を「私」の中の「なんとなく」に身を任せる。それを実践するだけで、自分の生活にいい意味で「責任感」が持てた。これまで責任感って持つだけ損だなぁ、と思ってた過去の自分がちょっとだけ恥ずかしい。でも、まぁそんな時を経て今の「私」になれた。そう思えれば、なんだって楽しめそう。

 つまり何が言いたいのかというと、あれもこれも人のせいにして責任回避する生き方も否定しないし悪くはないのかもしれないけど、それより、他人の言動に惑わされず自分の「なんとなく」に従っていた方が「私」をより豊かにできるんじゃないか、昨今では悪い意味で使われている「自己責任」って実はもの凄く楽しいことなのではないか、ということ。

 自分が変われば世界が変わる——。使い古された言葉だけど、私は靴下の手放し、そのことを体感できた。もう少し、気温が高くなったら、アスファルトの上を裸足で歩いてみようと思う。

イジョウデス。

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