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続:一種類の完璧な食事を求めなくてもよい

前回書いたこの記事
実はこの話には続きがあります。

というか、あとからちょっとした顛末が起きた、というお話ですね。

あれ以降も、このようなことを豪語しながら時短にせっせと励んでいました。もちろん、最初はこのツイートでも書いたように、時短と栄養バランスが両立するという前提で、工数を削ってみていたのです。

しかし、もろもろやりたいことやら仕事やらを抱えていたこともあり、いつしか、時短だけを目標にするようになってしまいました。

そうこうしているうち、なんと一過性の体調不良に陥ってしまいました。もちろん、別の原因の可能性もありますが…(よく起こるタイプの回転性めまいは、耳の奥の耳石というもののズレが原因になるそうです)。


それで、時短はまあ良いのかもしれないけれども、バランスや品目はちゃんと毎日ある程度充実させないとな、ということを改めて思ったわけです。

加えて、ここ最近だけでも、食をめぐる色とりどりのラインナップに触れる機会がありました。

7月29日、「第11回 料理の人類学入門」というセミナーでの藤原辰史さんのご講演。

7月31日、「大変身!冷食ごちそうごはん」という番組名での小林愛香さんのご出演。

同じく、7月31日は会社でプチ打上げ(ディスタンシングしながらのデリバリー)があり、中国で自給自足をする生活の配信や、ルーマニアを10日間裸一貫で生き抜く配信などを見ていました。

どんな動画であるかの要約になりそうな、記事のリンクも置いておきますね。


これらを通じて、時間をかけて行う食事、作る人と食べる人があまりに分離しすぎない食事というのを、改めて一しきり考えさせられました。

もともと、身近である食事というテーマ自体はかなり興味があり、『食を料理する』や『食の社会学』などの書籍を好きで読んでいました。
そうするとこれらの本では、ヒトという動物においていかに食を調達する人と食べる人とが分離しているか、という話がやはり書かれているわけですね。

農耕や狩猟を仕事として、あるいは部分的に趣味としてやってらっしゃるかたでなければ、少なくとも原材料を得るプロセスは生活から除かれます。

これに加えて現代文明においては、さらに原材料から食べられる状態に移すプロセスもまた、割愛されつつあるわけです。

藤原さんのご講演では、こういう人の根源的なプロセスにはやっぱり意義があるのではないか、というお話を、色々な角度からお伺いできました。

特に引き付けられた話題は以下の2つです。
かつて、地域ごとに気候や土が異なることを通じて、食事が地域による文化の多様性を生み出していたということ。
対して近現代、食を切り詰めて急いで済ませるという習慣は、戦うために国家や企業に要請されてきた日常の戦場化だということ。

食料の加工が半自動化されてきている中、確かに、文化が損なわれるリスクや、人々が管理される存在にいっそうなってしまうリスクは、無視できないものでしょう。これにはずいぶん考えさせられました。

時短については措くとして、個人的にはそれでもなお、現代文明に希望を見出したいです。そこで、インターネットがむしろ好影響を与えている側面がないかどうか、お伺いしました。

すると、(正直、インターネットの研究については本格的に着手できてないのですが、ということわりのもと、)キッチンの見える化が一つのポイントかもしれません、ということをご教授いただきました(藤原さん、私たちオーディエンスが本を拝読したお話をすると、にこやかに笑ってくださる大変素敵なかたでした)。


これを踏まえると、愛香さんの番組にはいっそうの意味が感じられてきます。これはまさにキッチンの見える化です。
加えて、冷食アレンジというプログラムは、一度冷凍食品とて割愛した加工プロセスを、もう一度復権するものでもあります。作る人と食べる人とを結び付けなおす、新たな食のスタイルといっても過言ではないでしょう。

さらに言えば、私たちのようなファンはこれを視聴してめいめい再現することになるでしょうから、これはある意味では共通の食事をする共食といっていいかもしれません(確か、共食についても、藤原さんが触れてらした記憶があります)。

さて配信の内容はというと、文化を感じられるような側面が複数埋め込まれていました。

わたしのまわりのかたがたの声や、動画に寄せられたコメントを拝見するに、髪型やファッションに関する評価がありました。
料理が、声優さんの配信という形態をとるとき、それは演劇性、ファッション性も含めた、ある種の総合芸術になると言ってもいいかもしれません。
また、特定の役に結び付けて考えないように気を付けつつも一応付け加えると、たこ焼きというチョイスはやはり文脈を持って楽しめるものになっています。料理のストーリー化と目せるかもしれません。

さらに、全てが計画通りだったわけではなさそうながらも、全体としてはうまく進んでいくさまが、生きた料理であることを感じさせます(パンの焼き加減が予定より長かったものの、これはこれで美味しそうとなるなど)。

加えて料理中の話題は冷やし中華やソーメンなど、季節を感じさせるものが豊富に。

総じて、文化的側面がよく感じられる動画だったと思います。


李子柒さんの動画についても、料理に関して有意義な側面が多数あるでしょう。

土地に結び付いた調理方法や具材が動画化されることを通じて、文化の保存にせよ、認知にせよ、重要な役割を果たすでしょう。

もちろん、多種多様な地域の料理のうち、一部の配信や認知に人気が集中するであろうことを思うと、あらゆる地域料理を等しく大事にしていくには(あるいはそうすべきなのかどうかについて)、議論の余地がありますが。


ともあれ、李子柒さんの動画にせよ、Ed Stafford さんの動画にせよ、がんらい人がどのように野菜や食肉を調達してたか、こうした原初的な体験を、それを思い起こさせてくれます。


急な体調不良、および、こうしたラインナップを通じて改めて思うことは、時短と、料理を楽しむこととは互いにトレードオフではあるものの、その境界を探り続ける意義がある、ということです。

もちろんそこには、様々な工夫の余地があります。

冷食を用いて途中までプロセスを省略しつつ、最後の皿化で改めて料理を楽しむのも1つ。

友人の受け売りですが、大きな中華鍋という汎用的な道具を使うことで、伝統的ながらも適度な簡略化をするのも1つ(一部簡略化ができるだけに、他の所、例えば油や調味料の下ごしらえパワーを避けるのもミソだと思います)。

あるいは、こうした文化に触れ、基本的には目だけで楽しみつつ、たまに取り入れるという方法もありましょう。


前の記事では、日と気分によって達成すべき目標(時短か、熟成か)を変えよう、ということを書きました。

今回付け加えたいのは、2つあります。

1つは、ある日の料理の中で、目標同士の綱引きをもっとやってもいいんじゃないか、という点です。

時短サイド、熟成サイドの両方の知識を取り入れ行けば、その綱引きは恐らくもっといい綱引きになる。だから、一方の知識やイデオロギーを吸収することが、もう一方にとって敵になるわけでもないと思われます。

実際、省力化によって付け加えられる文化的プラスアルファ、あるいは文化から見出される伝統的な省力化といった、相乗効果もありましょう。

もう1つは、譲れないものもある、という点です。体調を崩さないようにだけは気を付けないといけません。あるいは、コミュニケーションの基盤にもしなっているならば、これを犠牲にして時間を他にあてがうかどうかは、慎重に決めねばなりません。


手間と楽しみとに心が揺れるとき、この記事がお役に立てたら嬉しい限りです。

それでは、今回もありがとうございました。

引き続き食のあるライフを楽しんでいきましょう。


参考文献

松永澄夫 2003=2020
※ 私が前に買った 2003 年版は絶版のようでしたが、嬉しいことに増補版がでましたね。


エイミー・グプティル, デニス・コプルトン, ベッツィ・ルーカル 著, 伊藤茂 訳, NTT出版 2016


補遺

写真の料理は、これら諸々のことを踏まえて、8月1日に改めて作った料理です。

完成品の冷食ではないですが、冷凍の切ってあるほうれん草を用いて包丁のプロセスを割愛しつつ、トマトと合わせてマジックソルト、オリーブオイルといった洋風の味付けで15分、オーブンにかけてみました。

いつもはトマトをブロッコリーと合わせているのですが、今日はブロッコリーを切らしており、代わりにその日あったものを使うというダイナミックさが期せずして出せました。あえてマヨネーズを掛けなかったのも、あっさりしており功を奏しました。

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