東海道五十三次 1(日本橋)
久しぶりに投稿させて頂きます。
先日妻と共にスーパーに買い物に行き、ふと「永谷園・お茶づけ海苔」をみつけました。同時に、まだ幼かったころの思い出がよみがえりました。
当時、『永谷園・お茶づけ海苔』のおまけに「東海道五十三次のカード」が封入されていました。
調べてみると1665年(昭和40年)から1997年(平成9年)までの約30年間に封入されていたようです。
カード欲しさに食べ続けた過去を思い出します。今ほど味の種類もなく少し単調ではありましたが、鮭を入れてみたり多少のアレンジを加えながら楽しく食していたと思い出します。
ところが、或る日、母に勝手に部屋を掃除をされ、集めていたカードが捨てられていた、悲しい過去を思い出します。母にとってはただの紙のカードでも、自分にとっては大切なコレクションでした。非常に怒り、がっかりした思い出です。
あるきっかけで最近、永谷園のWebサイトを覗いてみると、約20年ぶりに封入が復活。同時に2025年1月31日まで毎月1000名に「東海道五十三次カードフルセット・プレゼントキャンペーン」まで行われています。
以前のようにカード欲しさに食べ続けることはしませんが、再び「東海道五十三次」に興味を持ち始めました。安藤広重作の浮世絵デザイン集なども取得し、今後は随所にデザイン画と撮りためた写真などと共に投稿していきたいと思います。
歌川広重
江戸時代後期にあたる寛政9年(1797年)に江戸の定火消同心の家に生誕。
文化6年(1809年)2月に母を亡くし、同時に父が隠居。数13歳で父の定火消同心の職を継ぎます。
文化8年初代歌川豊国の門をたたきますが、満員で断られ、そこで歌川豊広(1774年-1829年)に出会い。15歳の時に歌川豊広の門下生となります。
翌年(1812年)に師と自分から一文字ずつとって歌川広重の名を与えられ、文政元年(1818年)に一遊斎の号を使用しデビュー。始めは役者絵から出発し、やがて美人画に手をそめたが、文政11年(1828年)師の豊廣没後は風景画を主に制作。
文政4年(1821年)に、同じ火消同心の岡部弥左衛門の娘と結婚。
文政6年(1823年)には、養祖父(安藤家)方の嫡子仲次郎に家督を譲り、自身は鉄蔵と改名しその後見となる。しかし、まだ仲次郎が8歳だったので引き続き火消同心職の代番を勤めた。
天保3年(1832年)35歳の時に仲次郎が17歳で元服したので、同心職を譲り、絵師に専念します。この年、公用で東海道を上り、絵を描いたとされ、翌年から「東海道五十三次」を発表。風景画家としての名声は決定的なものになりました。
以降、種々の「東海道」シリーズを発表。各種の「江戸名所」シリーズも多く手掛けています。
安政5年没。享年62。
死因はコレラと伝えられています。
墓所は足立区伊興町の東岳寺。法名は顕功院徳翁立斎居士。
東海道五十三次
「東海道五十三次」とは、東海道の宿場を中心とした景観や習俗を描いた、浮世絵木版画です。名所絵が主ですが、人物が主体で景観が従となるなど、様々な形式で描かれています。
今後、順次に。東海道五十三次の宿場町と、おおよその累積距離などを調べ投稿させて頂きます。
日本橋 (武蔵国・豊島郡)現在:東京都中央区 起点 0km
現在の日本橋です。
「中央区をしる」というWebサイトを見つけました。
日本橋付近の今昔写真などが掲載されています。
中央区ホームページ/日本橋 (chuo.lg.jp)
今後は、次の宿場町への距離。日本橋起点を元にした累積距離などを調べながら、写真や浮世絵画像などを掲載し、町の紹介などをさせて頂きます。
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