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パースペクティブ (11)

 ドアを開けると、そこには数ヶ月ぶりに見る彼女の姿があった。キャップをかぶってマスクをつけ、黒の革ジャンを羽織った彼女を見ると懐かしさが込み上げ、元気にしていたか、少し痩せたようにも見えるが、ちゃんと食べているか、などと彼女を案じる気持ちが湧いてくるが、そうしたこちらの感傷などお構いなしに、どうしたの、すっごく腹出てるじゃん、と彼女は言った。

「来てくれてありがとう。助かったよ」
「立派なお腹だね」
「話すと長くなる、とりあえず入って」

 ぼくの後に続いて彼女は部屋に入ると、スニーカーを脱ぎ、ドアに向けて揃えて置いた。ああ、彼女のこういうきちんとしたところが好きだったなあと思いながらも、立ち上がって歩いたせいか再び腹の中の何かは活発に動くようになり、一刻も早くベッドに戻らんとぼくはよろよろ歩いた。

 すまないが、この格好で失礼させてもらうよ、そう言ってベッドに仰向けになったぼくを、洗面台で手を洗ってからやってきた彼女はしばらく見下ろしていたが、病院に行ったほうがいいんじゃないの、と至極まともな提案をした。

「やはり、そうかね」
「どう見てもおかしいよ、これ」
「おかしいか」
「熱は?」
「まだ測ってない。でも頭痛はない」
「食欲は?」
「夕方に中華料理屋で一杯やってね。あんまり久しぶりだったものだから、天津飯とレバニラ、それに玉子スープもつけたんだ。美味かったよ。久しぶりだという感傷補正も入ってるんだろうが、町中華ってのは、あれは庶民の味のふるさとだね」
「わかった。下痢とかは?」
「帰宅以降、便意は一切催しておりません」
「咳や胸の痛みは?」
「ございません」

 彼女はふうむと腕を組んで暫し考え込んでいたが、とりあえず熱を測ろう、体温計はどこだったかな、とキッチンのあたりを物色し始めた。こういう時に、以前お付き合いした方というのは実に心強い。部屋のどこに何があるか、細部まで把握している訳で、こちらはもう大安心でベッドに寝ていればいいのである。すまないね、手間をかけて、と猫撫で声で詫びを入れている間も、腹の中は動いており、これはいよいよ油断ならんと警戒していると、彼女が体温計を見つけて戻ってきた。どれ、とぼくの腋に白い棒を差し込む刹那、彼女から馴染みのある香水の香りが漂ってきたのだが、匂いというものはどうしてこれほど人の記憶に訴えかけるのだろう、その香りを嗅いだ途端、ぼくの脳裏には彼女とお付き合いしていた頃の美しい思い出が次々とよみがえり、だがもう二度と戻らない過去の時間を再び味わう苦しさに、ああ、なんと残酷な仕打ちだと心中涙したのだが、彼女は素早く体を引っ込めると、スマホで何事かを調べ始めたのだった。

 ピピピと脇から音が鳴り、体温計を取り出してみると三十六度一分、至って平熱であった。

「熱もなし、咳等の症状なし、ただ腹部が膨張し内部に違和感あり、と。これはもう病院に行くしかないね」
「やはりそうか」
「私だって医者じゃないし、これ以上どうしようもないよ」
「ちょっと触ってもらえないかな」
「え、何言ってんの」
「お腹の中に何かいるようなんだよね」
「やだよ、絶対やだ、気持ち悪い」
「宇宙生物の幼生だったらどうしよう」
「知るもんか」

 彼女は眉をしかめたまま後退りし、気味の悪いものでも見るようにぼくを遠くから見下ろした。

「だいたいさ、お腹の中にいるのが宇宙生物の幼生だったら、もう手遅れじゃん」
「そんなこと言わないでよ」
「こういうのはさ、寄生された人を助けようと近づいた人が、第二の犠牲者になるって相場が決まってるんだよ」
「だが自分可愛さに犠牲者を見捨てて逃げ出す卑怯者も、やがて毒牙にかかる運命にある。注意しろよ」

 こうしてフラグを立てておけば、彼女とて容易にこの場を離れられまい。ぼくと彼女が睨み合ったまま、ゆっくりと時間が過ぎていった。事態は膠着状態に陥ったが、成果もあった。それは、この大きくなったぼくのお腹が幻想ではなかったと判明したことだ。これで精神科に行くべきか内科に行くべきかはっきりした、それだけでも大進歩だ。

 その時、腹中にいるものが元気よく内側からぼくの腹を蹴る感触が伝わってきた。

「蹴った、蹴ったよ」
「何よ」
「こいつには足がある!」
「そりゃあ足くらいあるでしょう」

 ぼくはゆっくりと腹部を撫でた。円環を描くようにぐるぐるさすると、ぼくの思念が通じたのか、内部のものもそれに応えるように動きを返してきた。こいつの正体はわからないが、ぼくたちの間には非言語コミュニケーションが成立したのだ、そう思うとなんだかこいつが愛しい存在のようにも思えてきた。

「騙されちゃダメ。そういう生物はね、宿主が自分に対して母性を感じるように作用するんだから」
「なんてことを言うんだ、同じ生命同士、敵味方も貴賎もない。愛し、育む。ぼくたちにできるのはそれだけじゃないか」

 そこまで言ってぼくは雷に打たれたような衝撃を覚えた。あの占い師が言ったことが急に思い出されたのだ、そう、ぼくは子どもを授かるのだというあの予言を。あれは単なる与太話だと思っていたが、そうではなかった。まさに今、内側から腹を蹴っ飛ばすこいつこそ、ぼくが授かった子どもなのではないか。そう、ぼくが行くべきは内科ではなく、産婦人科なのだ。

「きみはさしずめ東方の三賢者といったところだ」
「何よそれ」
「どうやらこれはぼくの子どものようだ。今日占いで言われたんだ、あなたは子どもを授かりますよと」
「へえ」
「ことによると、これはきみとぼくの子どもかもしれん」
「それはないわ」

 彼女はキッパリと答えると、クルリと踵を返してドアへと歩き始めた。

「ちょっと待って」
「せっかく来たのに、こんな馬鹿馬鹿しいこと、付き合ってられません。帰ります」

 革ジャンの背中が去っていくのを、ベッドからただ見守ることしかできないのか、別れ話を切り出された時の悲哀が一気によみがえり、ぼくの胸中にのしかかってきた。あの時のように、自らの無力さを嫌というほど感じさせられる、だが、ぼくは諦めるわけにはいかない。あの時とは違うのだ、ぼくの体内には新たな命が宿っている。

「待ってほしい、一つだけ頼みがある。最後の頼みだ」

 あらん限りの力を振り絞って出来るだけ誠実そうな声を出すと、彼女は立ち止まり、玄関の手前でこちらを振り向いた。

「何よ」
「キッチンにビニール袋に入った植木鉢が転がっているだろう、ベランダの植木鉢からそいつに、若葉を移し替えてほしいんだ。きみからもらった種が一年の時を経て、最近芽を出したんだ。これが何を象徴するか、ぼくの口からは言うまい、だが新芽は植木鉢の端から顔を出したもんだから、実に窮屈そうなのだ。助けてやってほしい、頼む」

 彼女はこちらを振り向いたまま腕を組み、じっと思案しているようだった。ぼくはベッドの上から必死に彼女を見つめた。ここで彼女の助力が得られなければ、半日かけて街へ繰り出し、植木鉢を調達してきた努力の全てが無駄になる。ぼくの労苦が水泡に帰すのは構いやしない、しかしこれからの未来ある小さな植物には、快適な環境を整えてやりたい。

 彼女はしばらく立ち止まっていたが、やがてキッチンへ戻ってきて、床に放置されている植木鉢を拾い上げた。

「あの種が、今頃芽を出したの?」
「嘘だと思うならベランダを見てほしい。一年もの間野ざらしになっていて、てっきり死んだものと思っていたのが、どっこい生きていたのだよ」
「へえ、植物の生命力ってすごいんだね」
「ぼくのことはいい、だがあの新芽だけは救ってやってくれまいか」

 植木鉢を抱えたまま固まっていた彼女がやがて渋々うなずくのを見て、ぼくはほっと胸を撫で下ろした。彼女は愛猫家である。猫を愛する人は、心清き人。その愛情は猫のみならず、全ての生命に注がれるものだ。果たして彼女は、これだけやったら帰りますからね、と言い捨てると、植木鉢を持ってぼくの居室を通り過ぎ、カラカラと窓を開けてベランダへ躍り出たのだった。

「あっ」

 ベランダから素っ頓狂な声が聞こえるので、どうしたんだいと尋ねると、大変だ大変だと彼女の狼狽した声が聞こえる。こちらはベッドの上から動けないのだから、助けに行くこともままならない。どうしたんだいともう一度声をかけると、ちょっと見てよ、と返事がするので、なんとか首を捻って窓の外を見ると、そこには二抱えもあるような大きな植物の幹がにょっきりとベランダを占拠しているので我が目を疑った。まさかあの小さな新芽が半日でここまで成長したのだろうか。

「ずいぶん成長したねえ」

 ベランダから上空を見上げて彼女が感嘆する。

「どこまで伸びてる?」
「わかんない。先端部分は雲に隠れていて見えないよ」

 雲上の彼方まで成長したとは驚きである。

「そんなに高いと、飛行機やヘリが衝突するんじゃないかしらん」

 いかなる規制緩和によるものか、昨今の東京上空は旅客機やヘリコプターが我が物顔で低空飛行を繰り広げ、その蛮行は目に余るほどである。都市は市民のものであるからして、その上空の空間も当然ながら市民のものである。それを我々に断りなしで勝手に飛行するとは言語道断、そのような現状に一石を投じるべく植物は天高く伸びたというのだろうか、だとすると航空機衝突事故が発生するのも時間の問題かも知れない。事故による損害発生の折には、当然ながら東京地方裁判所で係争されることとなろうが、仮に当方の責となった場合、我が部屋入居時に支払った敷金でカバーできる範囲で済めばいいが。そうして将来を案じているうちに、よいしょと威勢のいい声がするので見てみると、彼女が幹にしがみついて登り始めているのだった。

「上がどうなってるか、ちょっと見てくる」
「おい、よせ。登っちゃいかん」
「こう見えても木登りは得意なんだ」

 彼女が木登りの名手とは知らなかった。見ればいつの間にか靴下を脱ぎ捨て、見よ我が元恋人の勇姿を、両手両足を器用に動かして幹を登っていく彼女の様子はまさに野生の猿である。そうやって感嘆しているうちに、彼女はぼくの視界から消え、あとはベランダに屹立する巨大な幹が夜風に吹かれて佇むのみであった。

 彼女は去っていった。大方、雲上の世界には金銀財宝がうなるほど積み上げられていると踏んで、その一部を失敬しようという怪盗的野心が首をもたげたか。いやいや彼女はそのような人ではない、そう首を振りたい気持ちであったが、こうなっては是非もなし、彼女が天空の宝物庫から颯爽とお宝を持ち帰るのを待つしかない、そう思いつつも、宝物庫には番人が詰めているものだから、彼女が追われて空から帰ってくることは想像に難くない。そうなると追手を阻止するため、天まで届くこの幹を切り倒さなければならないが、果たして我が家に斧はあったっけ、ぼくの記憶が確かならば、そのような得物はない。

 だが記憶などどうしたというのだ、そもそも、確かな記憶などというものはない。今日一日の記憶だって曖昧なのに、我が家に斧があるとかないとか、そんな記憶はあてにならないものなのだ。開け放たれた窓から夜風が吹き込んできて、存外寒い。ぼくは足元にくちゃくちゃになっている毛布に手を伸ばし、よいしょと胸元に引っ張り上げる。体を冷やすとお腹の中の子に良くない。どういう姿をしているのか判然としないが、容姿外見はどうでもよい、ただ元気に生まれてきてさえくれれば。明日の朝になったら産婦人科へ行こう、そしたら母子手帳がもらえるだろう、少し恥ずかしい気もしながら、だが誇らしげに、ぼくは先生から手帳を受け取る、はい、母子手帳、あなたはもう母親なんですから、ご自分とお腹の中の子どもを労ってね、人生の先輩からそんな優しいエールを受け取ると、思わず涙ぐんでしまうかもしれない、でもしっかりしなきゃと思って、はい、健康に気をつけますとだけなんとか言って、診察室で深く頭を下げる。男だって母親になれる時代、ずいぶんと風通しがよくなったものだ、人類のフロントランナーだなんて思ったこともないけれど、こうして人の革新は始まっていくんだと、その一助になれれば、こんな嬉しいことはない。新人類を感知するのはいつだって新人類、とにかく産んで産んで産みまくって、新しい血でこの星を染めてやる、そんな恐ろしい思いがひょっと顔をのぞかせるが、ダメダメ、もうそんな時代じゃない、全ての専制君主は打ち倒され、真善美はシェアされる時代、エゴの価値はヘリウムより軽くなり、ツェッペリン飛行船は爆発する。男なのに母子手帳だなんて、何か変ね、電信柱の陰でそんなことをひそひそと囁き合う旧石器時代のサピエンスよ、どうかお達者で。同じ星に生きる者同士、見捨てたりはいたしません、全てがつながっているのですからね、と母になった者は強いよ。ベッドの上で微笑みながら、ぼくはそっと目を閉じた。(了)



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