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秋の再出発

 修理に出していたMacBook Proがようやく帰ってきた。Apple Storeでは一週間くらい、交換部品の入手状況によっては二週間かかる場合もあると言われていたのだけど、10日かかってぼくの手元に戻ってきた。

 クロネコヤマトの箱に詰められたMecBook Proを取り出すと、うれしさがこみ上げた。よう、元気にしてた? 久しぶりに会った仲間に声をかけるように、ぼくは銀色の薄い筐体を抱え、書斎のデスクに置いた。

 今のMacBook Proは2代目で、先代のその前はMacBookを使っていたので、Appleのノートパソコンは今ので3台目になる。もう15年以上使っているが、macOSのマシンやユーザーインターフェースは肌に合う。使っていて気持ちいいし、机上の書類をめくるみたいにあちこちファイルを行き来することができるのでストレスがない。

 ぼくの使っているMacBook Proにはこれまで書いてきた作品のファイル、撮ってきた写真、それから1万曲近い音楽のデータが保存されている。海外出張時にはいつも持っていったし、これ一台で書くことからDJまでなんでもできる。ぼくにとって本当に大切な、相棒みたいな仕事道具。無事に帰ってきてくれてうれしい。

 このノートパソコンで、たくさんの文章をまた書いていきたい。

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 金曜の夜に髪を切って、そのあと久しぶりに渋谷の街を歩いた。

 金曜の夜だからなのか、駅にも街にも若い男女がいっぱい歩いていて、待ち合わせをしている人たちも、どこかへ歩いていく人たちも、みんな今っぽい格好をしてオシャレだった。ちょっとオーバーサイズだったり、身幅や着丈に共通したトーンがあって、それが2020年の秋の装いなのだろう。

 若い人が若い格好をしているのは、本当によく似合っていて素敵だ。一方で自分が同じ服を着るだろうかと考えると、たぶん似合わないだろうなとも思う。美容院で目の前に置かれるファッション雑誌をめくりながらトレンドを眺めることはあっても、20代の服を着ようとは思わない。素敵だなと思うものはいくつもあるが、それらは彼らのものであって、自分にはまた別のスタイルがある。

 年齢にふさわしい装いというものは、保守的だということを意味しない。さまざまなTPOに応じたドレスコードを理解しているからこそ、それを外すことを楽しめる。若い人たちがドレスコードを理解していないということではない。年齢や社会的な立場を含め、歳を重ねると重ねたなりのファッションの楽しみ方ができるということ。

 街を歩いていると若作りした格好をした人を時々見かけるけど、それが男性であっても女性であっても、あまり似合っていないという印象を受けることが多い。いつまでも若くありたいという思いは男女共通のものだろうけど、若くありたい本人の願望が格好に現れているようで、見ているこっちが気恥ずかしくなる。

 歳を重ねるごとに自分の体も少しずつ変わっていく、それはとても自然なことだ。変わっていく自分を受け入れたくないと思うその気持ちは、もしかしたら体の変化に心が追いついていないのかもしれない。


 キラキラした若い人たちの姿を見ていると、今っぽさを感じるのだけど、たぶん彼らはそれを頭で理解しているのではなくて、自然に、空気のようにまとっている。ぼくも20代の頃は、自分が若いとも、時代に合った格好をしているとも思わなかった。そんなこと意識したこともなかった。

 新しさとはなんだろう。別の言葉で言い換えると、現代的であるとか今っぽい感じということになるのだけど、あのフィーリングがどこからやってくるのか、未だにわからないでいる。

 先日、ナイジェリア出身、LAで育ったVanJess という姉妹デュオのMVを見て、新しさについてふと考えた。

 メロディーも、アレンジも、歌詞さえも、この演奏に出てくる音楽的ボキャブラリーはどれも以前あったものばかりで目新しいものはないのに、サウンドは現代的でまさに今の音楽という感じがする。90年代のアシッドジャズやR&B的な下敷きがあるのは聴いて明らかなのに、懐古的なニュアンスがない。

 一つ想像するなら、たぶん彼女たちの価値観や世界観は間違いなく2020年のものなのだろう。ベージュのドレス姿はエレガントだけど威圧的ではなく、過度に商業的に誇張されていない。普段の生活の延長線上にあるように感じられる。自らの女性性を性的消費対象として差し出すことなどもしない。

 流行りのサウンドを取り入れて楽曲をアレンジすることは、技術的に可能だ。だがそのような楽曲が本当の意味で新しかったり、現代という時代を代弁するようなものには、おそらくならない。アーティストは表現にブレスを吹き込む。そのブレスには価値観や感性が含まれる。そして価値観や感性はテクニックでは生み出すことはできない。

 音楽に限らず、表現にはどれだけ現在の息吹が吹き込まれているか、それが新しいカッコよさの源泉なのだろうと思う。

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 雨が降ったり降らなかったり、急に冷え込んだと思ったら翌日には暖かくなったり、じっくり秋を感じるには慌ただしい気候が続いていたけど、今朝はしんと静かな秋の朝で、窓から差し込む朝日を見ているうちにたまらなくなり、ランニングに出かけた。

 雨上がりの森を歩き、深呼吸をすると、うっすらと冷たく湿った朝の空気が肺のなかに入ってくる。その清冽な新鮮さに思わず感動しながら、樹々のあいだを歩くと、木漏れ日が頭上から差し込んでくる。

 ぼくは自分なりの宇宙観や死生観は持っているが、特定の信仰を持っているわけではない。だがそんな自分でもreligiousな気持ちになるのは、こうして静かな朝に降り注ぐ木漏れ日に洗われるようなときだ。遠くから訪れる陽の光を浴びているうちに、何かに祈りたいような気持ちになる。自分のことや誰かのことを祈るのではなく、ただ純粋な祈るという行為そのものになりたい、そんな気持ち。

 幹に苔むした樹々の美しさに目を奪われながら森のなかを走っていると、一年前の今頃もこうして同じ場所を走っていたことを思い出す。だが今は一年前とまったく違っている。パンデミックによって世界は一変してしまったけれど、それだけではない。

 一年前のぼくは、例えば将来の自分の姿だとか、何かを考えるとき、現在の延長線上で物事を考えていた。現在の物事のありようが与件としてあり、そこからどうするか、という発想だった。

 でも今は違う。今は何かを考えるとき、あるべき姿は何か、という点から発想や思考がスタートする。思考の羅針盤として必要なのはあるべき姿であって、決して現在地点ではない。出発地点から考えるのではなく、ゴールから考える、むしろゴールそのものを考える、そんな思考様式に今のぼくはいる。

 同じ場所を走っていても、人は変わる。見ている景色は同じようで、でもその内部で生まれている大きな転換は、他人からはわからない。表面的な部分に真理は宿らない。その変化は、人の内面の深い部分で生まれ、静かに成長していく。意識の革命が生まれるのはいつもその場所なのだ。


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