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物語の続き

『森とクジラ』という作品がある。noteで連載していて、第15話以降しばらく休載している小説だ。

 大都市から電車で二時間ほど離れたところにある海辺の小さな町を舞台に、都会を離れて町にやってきた女性と町の住人たちとの交流を描く作品で、この作品は元々2019年の春に書いたものだった。当然パンデミックはまだ起きていなかったし、社会の風潮や意識も今とは違っていた。

 昨年の秋から『森とクジラ』の連載を始め、最初のうちは以前書いていたものをそのまま分割して毎週アップしていたのが、回を追うにつれて原稿に手を入れるようになっていった。それはやはり時代の影響が大きいと思う。

 たった一年半しか経っていないのに、書いている自分自身の内面も、社会も大きく変わってしまった。それくらいあのパンデミックは強い衝撃だったし、我々はまだその渦中にいる。毎日暮らしていて、人類にとって100年に一度の大きな変化の中にいると実感することは少ないとしても、間違いなく我々は歴史的な転換期に居合わせている。一人残らず、我々の全員が。

 Black Lives Matterの運動があり、都市封鎖によって人々の経済格差が一気に可視化され、毎年更新される最高気温や異常気象により気候変動対策が一刻の猶予もなく取り組むべき課題と認識され、何よりこれまで世界をドライブしてきたグローバル資本主義による不公平や不公正が誰の目にも明らかになった。

 そのような変化の渦中にいる人間が、過去の小説を現在進行形の作品として新たに見つめるとき、そのままでというわけにはいかないのは当然のことだった。

 一番大きな変化は、登場人物の、それは翻って言うと私自身の、価値観の転換だった。そうしてガラリと変わってしまった自分の考え方や感じ方を通してかつての作品を見るとき、いくつもの疑問点が浮かぶのだった。

 例えば、作中で町の住人たちは町おこしを企むが、町を活性化させるソリューションとして観光地化という選択は果たして適切なのだろうか。地域の自然を保護することと、自然を商業利用することとは両立するだろうか。さらに、時限的に都市を離れた主人公が「純朴な自然や人々によって回復」し、再び都市での生活に戻っていくという物語は、現代の価値観に照らし合わせて相応しいものだろうか。都市に帰るということは、消費と生産を果てしなく続ける資本主義を支持することと同義だ。何らかの意識の目覚めを体験した人物が、そのような生活に回帰するだろうか。もし回帰するとしたら、その人物は自分の考えと社会システムとの矛盾を背負い、その矛盾に対し何らかのアンサーを返して生きていくという、ある種の覚悟を抱くのではないか。だとしたら、そのアンサーとは何か。

 考えれば考えるほどさまざまな疑問が浮かび、いつしかそれらの疑問について思考を深めることなくしてあの小説を書き進めることができなくなってしまった。

 小説はそれ自体が生命を持つ生き物のようなものだ。作中に登場する人物たちは作者の都合の良いように動くだけの存在ではない。彼らはそれぞれの思想や考え、思いを持って生きている。そうした登場人物の思想や感情、行動は、作者が人生の中で涵養してきた思想や哲学、感じ方や人間性などから生まれる。

 当初思い描いたストーリーどおりに登場人物たちを振る舞わせ、物語を進めるというのは、少なくとも私にとって小説を書くということではない。小説家は助産婦のようなところがあって、生まれてくる作品が無事に産声を上げるように助け、何とか導いていくのが仕事だとすると、変化した自分に相応しい作品が生まれるように努力するのが、小説を書くということなのではないか。そして同時に、作品を書くに十分な知識や思想を自らの内に蓄えることも。

 少しずつ水が湧き出していくように、水位が上がるように、満ちていくものがある。それは生きることそのものと繋がっている。そうしてタイミングが訪れたとき、物語の続きがまた新しく生まれる。

 私たちは生まれては死に、死んではまた生まれる。そのエネルギーの循環の中にいる。


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