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森とクジラ (1)
南へゆっくり下る長い道の先に海が見えた。
薄水色をした水面がうねりながら盛り上がると、あちこちで小さな波が生まれては浜に寄せ、やがてまた別のどこかで海が盛り上がった。
さっきまで集落を照らしていた太陽は山の陰に隠れ、あたりは涼しかった。来た道を振り返ると、新居は緑に覆われた小山のふもとに見えなくなっていた。今日からこの土地で暮らすんだ、そう思うとミトはなんだかくすぐったいような、ちょっと心細いような気がした。
海へと続く道の途中にある踏切で警報機が鳴り、ゆっくりと遮断機が下りてきて道の真ん中に黄色と黒の線を置くと、濃緑色をした三両編成の電車がスピードを落としながら通り過ぎていった。ミトはスマートフォンを取り出し、ユミに教えてもらった店の場所を確かめた。
一定のリズムで鳴る鐘の音が止み、遮断機はふたたび宙へ上がった。道を下って海岸に出ると、ゆるやかにカーブした湾に沿って道路が続き、その先に小さな明かりが見えた。波打ち際で砕けて消える波が絶えることなく音を立てていた。
ミトは歩道に立ったまま、水平線をしばらく眺めた。空は広く、手を伸ばせば宇宙まで届きそうだった。深呼吸をするとあたりの空気がからだのなかに入ってきて、穏やかに吹いてくる海風に頬を洗われているうちに、心が静かに沸き立つように感じられた。
ミトは遠くに見える店の明かりを目指して歩道を歩きはじめた。海鳥が一羽、浜辺の上を飛んでいくと、湾の向かい岸にぽつぽつと明かりが灯りだし、ミトが家を出た頃よりも空が濃くなった気がした。
「最近迷ってるんだよね」
「何に?」
あれはパンデミックが始まる前のことだった。撮影旅行に出かけていたユミから帰ってきた連絡があり、会おうという話になった。
アメリカの東海岸から南部を経由してニューメキシコ、アリゾナ、そしてカリフォルニアへと移り変わる各地の写真を見せてもらいながらユミとお酒を飲んでいるうちに、ミトは普段なんとなく思っていたことを口にした。
「毎日に不満があるわけじゃないんだけど、このままでいいのかなって。仕事も今のを続けるべきなのか、わからなくなるときがあるんだよね」
「環境を変えてみたら?」
「え?」
「だって、毎日暮らしてて面白くないんでしょ」
カランと音を立ててグラスのなかの氷が崩れ、液体に沈むと、小さな透明の泡が浮かび上がった。
「でも仕事があるし」
「仕事なんてどこでもできるでしょ」
海外から輸入するアパレルの発注やデリバリーのフォロー、現地企業との電話会議や売上のレポートといった仕事を思い出しながら、ミトはハイボールを一口飲んだ。カウンター席だけの小さな居酒屋の店内に客の声が混ざり合って響いていて、ミトは聞いたことのない言葉に包まれているような気分になった。
「そうだ」
ユミは写真のアプリを閉じてブラウザを開いた。
「知り合いから相談を受けたんだけど、海沿いの町に古い民家があって、住む人を探しているらしいんだよね」
「一軒家?」
「うん。こんな感じ」
ユミはタブレットの画面に指を滑らせて写真を見せてくれた。
それは緑に囲まれた平屋の家だった。それほど広くはなさそうだが、板張りの廊下や畳が敷かれた居間の写真を見ると、丁寧に住まわれてきた家だと思われた。
「敷金はいらないって。契約も六ヶ月単位でいいんだって。よかったらどう?」
「え、わたし?」
「そう。都心までは電車で二時間以上かかるから、会社まで通うのは無理だと思うけど」
「そうねえ」
築五十年は経っていそうだが、建物からは清潔な感じがして、そこがミトの気に入った。家賃をたずねると、いま住んでいるマンションの家賃より安かった。
「環境を変えるのなら、どうかなって思って」
「ありがとう。家で仕事ができるなら、いいんだけどね」
そうつぶやきながら、ミトはタブレットの画面を見つめた。
次の日、ミトは出社するとチームリーダーのハタノさんにリモートワークが可能か相談してみた。
「できるよ」
早朝の電話会議が終わった会議室で、朝食代わりのドーナツを食べながらハタノさんは言った。
「本当ですか?」
「うん」
ハタノさんは指先を紙ナプキンで拭いてからうなずいた。
「今度社内でリモートワークの試験的運用をやることになってね。家で仕事ができるようになれば、社員全員が会社に来なくてもよくなるだろう? そうしたら、オフィス面積も減らせる」
「その試験的運用って、何をするんですか?」
「社内で十人ほどモニターを選んで、半年間の実験をするんだ。ノートパソコンとスマートフォンを支給するので、メールと電話が時差なく繋がるところだったらどこにいてもいい。あとは月に一回、運用状況のヒアリングのために出社してもらう」
「それって、わたしも応募できますか?」
「え? もちろん」
ハタノさんは意外そうな顔をしてうなずいた。
「やってみたい?」
「はい」
ハタノさんにじっと見つめられて迷ったが、ミトは思いきってうなずき返した。
「じゃあ、僕から推薦しておくよ」
「本当ですか? よろしくお願いします」
「オーケー」
アスファルトの地面はまだ昼間の熱を帯びていた。
店の前の駐車場には自動車やバイクが停まっていて、隅っこの方で黄色いTシャツに半ズボン姿の子どもがしゃがみこんで何かをしていた。駐車場を横切って店に入ると、ドアにつけられたベルがカランと鳴った。
「いらっしゃいませ」
カウンターのなかで長髪の男がこちらを振り向いた。店内にはカウンター席の他にソファ席やテーブル席があって、何人かの客がスマートフォンをいじったり談笑したりしていた。どこに座ろうか迷っていると、男がカウンター席にメニューを置いた。スツールに腰掛けて厚紙に印刷されたメニューを見ているうちに、ミトのおなかが小さく鳴った。
「えーっと、たらこパスタのコーヒーセットで」
「コーヒーは食後にしますか?」
「はい」
男はミトからメニューを受け取ると、背中を向けて料理をはじめた。
さて、とミトは思った。新しい家にはまだダンボール箱が積まれている。帰ったら荷解きの続きをしなくては。部屋の掃除もしたいし、生活用品も買わないと。
やがてミトの前にパスタの皿が置かれた。バターのいい香りがして、パスタを口に含むと塩味がほんのりと舌に残った。ミトがあっという間にパスタを平らげたので、男はおどろいたようだった。
「いまコーヒーをお持ちしますね」
男は皿を下げ、ポットに入れてあったコーヒーをカップに注いだ。「ご旅行ですか?」コーヒーカップをミトの前に置いて男がたずねた。
「いえ、今日引っ越してきたばかりなんです」
男はクッキーが二枚のった小さな皿をカップの横に置いた。
「サービスです」
「ありがとうございます」
「この町に新しい人が越してきて、うれしいですね」
「そうですか?」
「ええ、うれしいですよ」
テーブル席に座っていた客が立ち上がり伝票を持ってきたので、男はタブレットを取り出し、画面を客に示した。会計をすませた客は、またなと言い残して出ていった。
「いい土地なんですが、人が少なくてね。行政上は町ですが、村みたいなものですから」
店の外の駐車場から車が低いエンジン音を立てて出ていくのが聞こえた。
「車がないと日常生活が大変ですから、運転できなくなった老人たちは隣町に引っ越していきます。大きな病院があって、駅前にはスーパーや店が一通りそろっているから、暮らしやすいんです」
「あの、ずっとこちらにお住まいなんですか?」
「いえ、ぼくもあなたと同じようにこの町に引っ越してきたんです。もう十年になります」
男はカウンターの隅に置かれていた名刺大のカードを一枚取り出し、ミトに手渡した。バンブーという店の名前とともに、オオノヨージと名前が書かれてあった。
「オオノさん、あの、カネコユミのこと、知ってますか?」
「カネコさん?」
「わたしの友達なんです。写真家の」
「写真家? ……ああ、ユミちゃんね。知ってますよ」
「彼女にこのお店を教えてもらったんです」
「そうだったんですか」
オオノは微笑んでうなずいた。
「ユミがこの町にある物件を紹介してくれたんです。それで今日引っ越してきたんです」
「もしかしてその物件って、小さな山の麓にある一軒家?」
「ご存知ですか?」
「ええ。キタムラさんに相談されてね。あそこはキタムラさんのお姉さんが一人で住んでたんだけど、介護施設に入って空き家になったんです。古くからある家だから残したいんだけど、家って人が住まないとすぐ荒れるでしょ? 誰か住む人はいないかって相談を受けていたんですよ。それでSNSに投稿したんだけど、そうか、あなただったんですね」
「ハギワラといいます」
ミトが軽く頭を下げると、オオノもお辞儀を返した。
「何か困ったことがあったら言ってください。うちは町の人の溜まり場になってるから、いろんな情報が集まってくるんです」
オオノが指さした先を振り返ると、行政からの連絡や町会主催の行事の案内、店のカード、イベントの告知などが木製の壁にピンで留められていた。
そのとき、ウェットスーツを着た男がドアを開けて店内に入ってきた。男の髪先からポタリ、ポタリと水滴が落ち、床に小さな黒い染みをつくったが、男はそのまま裸足でカウンターにやってきた。
「マスター、湾に何かいる。ちょっと来てみてよ」
(つづく)
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