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パースペクティブ (5)

 毎年二月になると菓子屋の陰謀によってそんなに好きでもないチョコレートを買い、男性にプレゼントしなければならない本邦の風習にかねてから批判的だった彼女は、ある日西洋ではバレンタインデーにカップルが愛を祝うのだという事実を聞き及ぶに至って、チョコレートの贈呈なる悪習を廃し、もってこれを互いへの愛を祝う崇高なイベントに昇華せんと高らかに宣言した。

 彼女の趣旨に大いに賛同したぼくは、互いの愛を祝うに相応しい贈答品は何かと考えた結果、過剰な宣伝広告によって消費者の購買意欲を無理やり高め、さして必要でもないものを大量に生産し、売れ残りを大量に廃棄するという現代社会へのアンチテーゼの意を込めて、形としては残らないが心に残るもの、をコンセプトに花束をプレゼントすることにしたのだが、女性に花束を贈ったことのないぼくは、恥ずかしい話だが、花束をどのように入手すればよいか知らなかった。そうして悩みながら街を散策していたある日、ぼくはこの花屋の前を通りがかり、思わず誘われるように店内に吸い込まれると、慈愛溢れる眼差しをした店員と目が合い、は、花束をください、と喉から声を絞り出してみたものの、そんな抽象的なオーダーでいいのだろうか、注文された方が困惑するのではないかと我が言を顧みたのだが、宙に放たれた言葉は鳥のように舞い、泡のように消えた後には、ただ沈黙の帳がぼくと店員との間に下りるのみであった。

 そう、あれはまさに、今目の前で花束を作っている店員その人ではなかったか。ぼくが生涯で初めて買い求めた花束をこしらえてくれた人、お色味は、とか、どのような花がお好きですか、などと初対面の客なのに親しみを込めた問いを投げかけてくれ、初めて花屋で花束を買うこちらの心理的緊張を取り除いてくれた心遣い、あれ以上のホスピタリティーを今まで経験したことはなかった、あの店員が、目の前で他の誰かのために花束を作り上げようとしている。花を贈るという尊い行為、その一助たらんとする彼女の眼差しに、自らの手柄を誇る僭越な自惚れはない。ただ無心に花を一本ずつ束ねていく、その純粋さにぼくは心打たれ、作業中に申し訳ないと思いながらもカウンター越しに声をかけた。

「あの、すいません、植木鉢を探しているのですが」

 無粋との誹りは免れまい、そう覚悟して発した言葉だったが、店員は手を止めて顔を上げると、少々お待ちください、と朗らかに言って手にした花の束をやや遠ざけて眺め、うん、よし、と静かに決意した声でつぶやいてから、カウンターの上に用意してあったビニールでくるくると包み、あっという間に花束を作り上げてしまった。番号札二番でお待ちのお客様、わずかに背伸びしながら彼女が可憐なソプラノで呼びかけると、森の奥から樹々をかき分けて一人の女性が忽然と姿を現し、ツルツルとした札を懐中からさっと取り出すと、そのままカウンターに置いた。会計は既に済ませてあるのだろう、店員はあざやかな手つきで花束を紙袋に差し入れると、ぐるりと回ってカウンターを出てきて、ありがとうございましたと紙袋を女性客に手渡し、彼女が森の中へと去っていくのを静かに見送った。大怪獣が日本に上陸し、ひとしきり暴れた後で去っていくのはいつも海と相場が決まっているが、花束の入った紙袋を手に去っていく女性客の後ろ姿には、さようなら、さようならと手を振る少年少女の声を背に、海の中へと消えていく大怪獣の郷愁が感じられた。ぼくもあのようにこの店を去るのだろうか、この店員に見送られながら、長い旅の後、家路につくのだろうか、そんなことを考えていると店員がクルリとこちらを振り返り、お待たせしました、と微笑んだ。

「あ、植木鉢を探しているんですが、どちらに置いてますか?」
「植木鉢ですか?」
「はい」
「申し訳ありません、当店では植木鉢は取り扱っていないんです」

 昭和の女優のように、わずかに眉根を寄せて微笑みながら頭を下げる店員を見たまま、ぼくは困惑した。

「そうですか、でも、以前こちらで植木鉢を買ったことがあるものですから、すいません。もうお取り扱いをやめたんですね」
「いいえ、あのう、こちらでは植木鉢を取り扱ったことは今までありません」

 ぼくは脳天に衝撃を受けたかのように呆然とした。実際に頭部に衝撃を受けたなら呆然となどできないと思うが、激しい心理的衝撃を受けたのは事実だ。あの老婆は、占い師の老婆は間違っていなかった、こんなところに植木鉢なんてあるものか、以前売っていたからといって今も売ってるとはかぎりゃしない、先刻の占い師の言葉が脳裏によみがえり、何度もリフレインする。彼女は真実を語っていた、ただその真実の言葉をぼくが正しく受け取れなかったばかりに、今こうしてここにいるのだ。しかも、この誠実さを絵に描いたような顔をした店員が言うには、店で植木鉢を取り扱ったことは今までないという。だとすると、我が家の狭いベランダにある植木鉢、あれらは全てこの店で買ったものだと思っていたが、ぼくの思い違いだったのだろうか。

「あの、お客様」

 頭の中が混乱し、ぼうっと立っているぼくに、店員がそっと話しかけた。

「お探しの植木鉢というのは、どのようなサイズでしょうか?」

 問いかけの真意が分からず、ぼくは彼女の顔をまじまじと見つめた。黒い髪を引っ詰めて露わにしたおでこは血色よくピカピカと輝いており、心持ち太く引かれた眉は、地平線のように緩やかな弧を描いている。その太眉の下では、クリクリと動く二つの眼がこちらを見ていて、このように真っ直ぐな眼差しで誰かに見つめられたのはいつ以来だろう、バミューダ海域ハワイはワイキキ、と幼少時に耳にした歌のフレーズが一瞬頭をよぎり、このように純粋な印象のする女性はベッドに上がり込んでくる猫など飼っておらぬだろう、彼女とだって、猫さえ飼っていなければハワイにもワイキキにも行けたはずなのに、とぼくは深く物思いに沈んだのだが、頭の中で考えていることがうっかり口をついて出たのは、普段近所の公園の周囲をジョギングする際、話し相手がいない暮らしを長く続けているせいか、独り言をつぶやきながら走るのが習慣になっていたせいだろう。

「猫、ですか」

 店員は怪訝な声を出し、まるでぼくが猫とつぶやいたかのようなリアクションをしたのだが、孤独なステイホーム生活が一年超に及ぶとしても、花屋で店員相手に意図せぬ独白をするほど錯乱はしておらぬつもり、本当に独り言をつぶやいたとしたら、これはもう自身の精神状態を疑う一大事、とぼくは一気に態度を硬化させたのだが、不意に店員は何かの合点がいったように、猫は狭いところに隠れるのが好きですから、と微笑みを返したのだった。

「いえ、猫用ではないのです。むしろ猫の顔なぞ見たくもないくらいです、ぼくの探しているのは、大きめの、こう、ひと抱えほどの大きさの植木鉢だったのです」

 ぼくは自分の腹の前で腕をまるめ、直径五十センチメートルほどの円をつくってみせた。するとどうだろう、店員はでっぷりと太った男の腹のようなぼくの腕の輪をのぞき込み、これくらいですか、と自分でも腕をまるめて輪っかをつくってみせたので、その愛らしい仕草に、ぼくは、ぼくは思わずときめいてしまった。

(つづく)


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