#19 社交的陰キャ

(※記事全体を通してそこそこ誇張して意見を述べています。冗談だと思って読んでいただけると幸いです)



 「社交的陰キャ」。そんな言葉を、今日初めて知った。

 

 社交的だが根暗な人のことを言うらしい。観ていないので分からないが、『おかえりモネ』『コントが始まる』『大豆田とわ子と三人の元夫』など、最近のドラマにはこの「社交的陰キャ」が主人公のドラマが多く、それらが人気であるという記事をふと見かけた。

スター的な人物にあえて虚無的な瞳をさせることで、奥に潜む何かを湖を覗き込むように見つめているような
神秘性がエンタメになる。時には、彼らの目に中浜のように光が当たる瞬間が喜びになる。(記事より抜粋)

 つまり、従来のように瞳を輝かせるだけでは無く、影を与えることによってそのコントラストを表現するということか。なるほど、こういう見せ方もあるのだな、と感心した。

 一方で、「社交的陰キャ」というこの言葉には少し違和感を感じる。とりわけ、 twitterで(こっちが元ネタ?)「共感しかない」「まさに自分のこと」とバズっているその様子を見て、なんだか疑問を感じずにはいられなかった。

 twitterでバズっていたのはこんなツイートである。

【社交的陰キャの特徴】
(1)自分からは誘わない
(2)遊ぶ日が近づくと憂鬱になる
(3)会ってる時は超楽しい
(4)4人以上になると喋らなくなる
(5)でも自分だけ誘われないのは嫌
(6)バイバイしたらホッとする
(7)恋したいけど面倒くさい
(8)結局家でYoutube、読書、映画、ネットサーフィンしてる自由な時間が好き

※鷹の爪リリカ(@ririka_rrk)氏より引用

 パッと見て思った。


いやそれただの陰キャじゃん、と。


 まず、1、2、4、6。ここら辺が恐らくこのツイートにおいて表現したかった「陰キャ」の特徴だろう。陰キャの定義など考えだすとキリがないが、ここは概ね理解できる。


 問題は3と5だ。この2つが普通の陰キャには無い要素、つまり「社交的」にあたる部分なのだろうと推測する。ここに共感するリプライが特に多かった。しかし、自分は以下のように思う。

「(3)会ってる時は超楽しい」。それは別に普通の陰キャでもそうだろう。「会って超楽しい時間」は自分だけでなく相手と共に作られるものだ。どんなに陰気な人だって、一緒に居て楽しい友人の1人や2人はいるはずだ。人と会いたくないのを陰キャの特徴とするのはどうなんだろうか。

「(5)でも自分だけ誘われないのは嫌」。これも果たしてある性格の特徴なのだろうか?陽キャも陰キャも社交的陰キャも、誘われないのが嫌な瞬間はあるだろう。逆も然り、どんな人だって誘われたくない約束事はあるはずだ。


 残りは7と8。「(8)結局家でYoutube、読書、映画、ネットサーフィンしてる自由な時間が好き」。これについては全人類そう。陽キャもyoutube見るし、本読むだろう。特定の性格に当てはまることではない。そもそも自由時間の過ごし方に順位をつけるのは嫌いだ。自由時間に何ができるかなんて人生一回じゃやり切れないほどあるのに、自分の目についたものだけやって、それが1番だと思い込んでしまうのは勿体無いと思う。ネットサーフィンが人生最高の娯楽だと思っている陰キャが、もしかしたら海に行ってサーフィンしたら人生変わるくらい楽しいことに気づくかもしれない。

 「(7)恋したいけど面倒くさい」。…いやダセえな!なんだその言い訳は。俺でも言ったことない。


 …つまり、社交的陰キャはただの陰キャなのだ。ここで「社交的」に分類されているものはいずれも現代を生きるホモ・サピエンスの常なる特性であり、特殊な生き物が持っている特別なものではない。

 ではなぜ「社交的陰キャ」という言葉が生まれ、それに自分を当てはめたがるのか。それは自分が「陰キャ」では無いと思いたいからだろう。「自分は陰キャだから」と自虐しながら、心の底では「陰キャ」というものを見下し、そこからの脱却を図りたいと考えている。自分は社交的であるとアピールすることによって、自分はあの近寄り難く恥ずかしい人種では無いのだ、と言いたいのではないか。そんな風に感じた。


 どうやら陰キャを最も軽蔑しているのは陰キャらしい。


 …そう気づいたただの陰キャであった。



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