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善と無力(キリスト教によせて)

  • アウグスティヌスの時間論

  • ニーチェ『善悪の彼岸』

  • バタイユ『宗教の理論』


言うまでもなく、善くあるためには無力である必要がある。そして、この無力さには一抹の愚かさが含まれている。
そしてその「愚かさ」とは、合理的な判断ができない文字通りの愚かさというより、愚かでいようという合理的な判断なのだ。

例えば、善の神は無力だ。それは無力を貫き通して十字架上で死ぬような神なのである。苛烈さや恐ろしさのゆえに神であるような、多神教の神々とはわけが違う。
そして、この「無力さ」も文字通りの無力というより、「人類の救済」という目的のためにそうなることを神自身が選んだ無力なのだ。だって、本当に磔刑が嫌なら逃げることだってできたはずなのだから。
善の神の無力さは、人間を救済するための無力さ──愛としての無力さである。

しかし、善の神は自らの愛を受け取らない人間に復讐心を抱いてもいる──信じるものは救われるが、信じないものは救われないのだから。
「神の愛」を受け取るかどうかが救済/破滅の分かれ道になっているのである。そして、愛を受け取らないものは「遠い将来に」最後の審判とやらを受けて滅びることになっている。

復讐は理性の産物である。最初に罪がなければ、それに対する復讐も行われないのだから。そこには整然とした因果関係──時系列の秩序がある。

そしてこの秩序を基礎づける「過去・現在・未来という幅を持った時間」「持続する時間」という観念は、おそらく人間だけが持ち合わせているものだ。
ゆえに、「こういう経緯で罪が犯されたから、それに対する復讐が将来なされるべきなのだ」という過去から未来にまたがる展望も人間特有のものである。

神の復讐心は、人間が未来への展望を持ちうる生き物だからこそ通用するものだ。人には未来を恐れる能力がある。
翻って「未来において地獄に落ちるかもしれない」という不安は今この瞬間に逆照射されて、今この瞬間の決定を左右する。「天国に行きたいから、今善行を働いておこう」というわけだ。将来の不安が現在を規定している。

これが極端な形で進行すると、カルヴァン派とかのプロテスタンティズムになる。ここまで来ると、未来への不安が全生涯を規定するわけだね。
やがてその「不安」には宗教色すら不必要になって、資本主義の精神となる。

とかくこの意味で、最後の審判を待つまでもなく、信じるものは「すでに」救われている。なぜなら、信じるものは「将来救われるという確信」を現在すでに得ているからだ。
彼らは「来たるべき救済」という遠い未来を、現在すでに受け取っていて、心の底から幸福なのだ。じゃなきゃ殉教なんかしねーべ。

そして、こうした「未来からの逆照射」を可能にする能力が理性なのである。
理性が「未来のためになる生産的なこと(=善行)をしよう。明日も明後日も、私が死のうとも世界は続いていくのだから」という抽象的な未来への展望とモラルを産んだ。
そして、モラルが「世界の持続を妨げないための、生産的な無力」を善とした。

なぜなら、力があるものは、暴力で略奪し破壊できるという点で「持続する生産性の世界」からすれば悪だからだ。
実際に力を振るって破壊の限りを尽くすかは問題ではない。「破壊することができる」という発想と能力を持ち合わせている時点で、可能的に悪なのだ。

だからこの無力には、そもそも人を疑わず悪事を企まないといった「愚鈍なまでの純真さ」が含まれる。
破壊する能力に限らず、破壊するという発想もないに越したことはないからだ。

ある意味では、理性こそが愚かさの前提条件である。強い理性を持ち合わせたものは、愚か者にならざるを得ない。理性は未来のために善を命じ、善は未来のために無力さ(愚かさ)を命じるのだから。

「善人」は無力であり、愚かであり、世界の持続と生産性のために他者にもそうあることを望む。少なくとも、潜在的にそう思っている人は多いだろう。
だから、賢さは一抹の悪意を含んでいるとみなされるのだ。今日の冷笑主義や性悪説、メタ的な視点を含むクレバーな性格の悪さ、怠惰は、悪と賢さの関係を嗅ぎ取ることに発しているのかもしれない。

しかし、こういう中二病的な価値観も所詮「無力なる善」という観念の裏返しなのだ。「無力なる善」を馬鹿にすることは、これを所与の条件として当然視することと同義なのだから。
中二病的価値観は、「善」の否定神学かもしれないが、無神論ではない。
だって冷笑主義者も「生産性」って言葉好きじゃん? 生産性は先に言った通り「無力なる善」の母体となった概念でもあるのだが。

とにかく「無力なる善」の起源は、理性による抽象的思考にあった。理性は言葉によって世界を切り分け、切り分けることのできないものを見落とす。
例えば「男」と「女」の中間が何であるか、言葉が知らないように。この世界に存在する「あの佐藤さん」やら「この鈴木さん」やらをまとめて「人間」と呼んでしまうように。
理性・言葉・思考はなにか個別具体的なものを決定的に忘れ去ってしまう。そして、その重要性を取るに足らないものとして捨て置く。

言葉による抽象的な思考は、具体的なこの世界を一段劣ったもの、「未来のためにだけ」あるものとして扱う。
だから我々は、現在をくだらないものとして、絶えず未来に向かって駆り立てられ続けるのだ──「子どもが生まれた」「進学はどうするの?」「〇〇校に進学した」「就職はどうするの?」「〇〇に就職した」「キャリアは?結婚は?子どもは?老後は?」。
それも、(とりわけ現代の日本人なんか)将来の救済を現在に向かって投射してくれるはずの「善の神」なんてものが、無力でバカバカしく見えるにもかかわらず。

現代の度し難いところは、かつてないほど理性への信仰が高まっているのに、そこから生じる「世界の持続と生産性への展望」やこれを可能にするための「無力なる善」の力が弱まっていることなのかもしれない。
けれど人間が人間である限り、理性から逃れることなどできやしないので、諦めよう!! つらたん!!

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