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うんこに関する考察

近所のクソガキと話しているという体で書いている
けど実際近所のクソガキにこんなこと言ったら、確実に頭がおかしいと思われる


キミは今「うんこ」と言った。
なぜ「うんこ」と言ったのかといえば、「うんこ」という語によって周囲の人間がぎょっとするのが面白いからだよね。

ではなぜ、人間は「うんこ」という語にぎょっとするのだろう? そう、ひとえに人間らしい人間だけが。
そしてなぜ、キミは、周囲をぎょっとさせることが「面白い」と感じるのだろうか? 不思議なことに、「うんこ」を面白いと感じる子ってたくさんいるんだ。そうじゃなければ、『うんこ漢字ドリル』なんて生まれないよね。

実は「人間」以外の生き物はうんこをタブー視しないんだ。生物に明るくないから断言はしないけど。
例えば、犬は自分の糞を食べることがあるという。結構人間に近いであろう霊長類に属するゴリラのオスも、気に入ったメスにうんこを投げつけるらしい。そもそも、人間の赤ん坊だってうんこをタブー視しておらず、自分の糞便を弄んだりするそうじゃないか。
つまるところ、うんこを不快に感じるのは、ひとえに人間らしい価値観を身につけた人間だけなのだ。

そう考えると、うんこが不快に思われているわけは、決して「汚いから」「臭いから」「見た目が悪いから」といった「感覚的・本能的な」ことだけではないのだろうね。
ただ、私たちはうんこを不快と感じる理由について「糞便には大腸菌などの細菌が大量に含まれており、衛生的に危険だ」とか「糞便には高濃度のインドールやスカトールが含まれており、これらが悪臭の原因になっている」みたいな「科学的な」説明で満足してしまいがちだ。

実際、科学的な説明は、理性に納得感を与えてくれるのだろう。そう、理性。
「理性」と一口にいっても捉え方は人それぞれだろうけど、ここでは「最も効率よく目的に達する能力」くらいに考えておこうか。第一にこれが重要な要素だ。

次に、うんこがどのような存在なのかについても考えていこう。
うんこっていうのは、乱雑にまとめれば「体内から出た垢の塊」だ。「え? 食べかすの成れの果てじゃないの?」と思ったかな。実は、うんこに占める「食べかす」の割合はそこまで大きくなくて、だいたい5-10%といわれている。
うんこの大部分は水分だ。あとは主に、剥がれた腸粘膜とか、腸内細菌の塊とかでできている。「剥がれた腸粘膜」や「腸内細菌の塊」──これらは元々体内にあって、体内の環境を構成していたわけだけど、最終的には古くなって排出されるわけだね。

奇妙に聞こえるかもしれないけど、口から入って肛門に至る一本の消化管は、体内を通る体外みたいなものだ。
普通、体内に異物が入ったら免疫が作動して排除しようとするものだけど、消化管は「体外」だから、食べ物や飲み物という「異物」が通っても大丈夫なようにできている。
けど、「体外」とはいえ、消化管を洗うことはできないだろう? だからうんこという形で、汚れや垢をきれいに流してあげなきゃいけないんだ。お風呂に入るみたいに。

さて「うんことは垢の塊である」という話から、分かることがある。「生き物は、日々馬鹿にならない量の老廃物を出している」ということだ。それこそ、うんこという一つの大きな塊になってしまうくらいの。この「老廃物」は「無駄」と言い換えてもいいだろう。

そして、これこそ「理性ある」人間がうんこを嫌う根源的な理由なんじゃないかな?
うんこは古くなったり必要なくなったりしたものからできているわけだけど──そういう「捨てなければならない無駄な部分」は少ないほうがいい。理性ある人間はこう考えるわけだ。
だって理性とは「最も効率よく」目的に達する能力なんだから。うんこのような「無駄」は、多ければ多いほど効率が悪くなってしまう。

しかし、理性ある人間だってうんこはする。これこそが理性のスキャンダルだ。
どれだけ効率を追い求めたって、人間がヒトという動物である限り完全に「無駄」をなくすことはできない。
それどころか、うんこという「無駄」が必ず発生するような食事・消化・代謝・排泄のシステムにこそ「人間」は生かされている。「無駄」を前提とした過剰な栄養摂取が、高度な思考を行えるが燃費の悪い身体を養うことを可能にしたんだから。

つまり──無駄によって生まれ、無駄によって生かされていながら、無駄を嫌っている。これが「理性」のおかれている立場なんだ。
理性はうんこに向き合うとき、常に自分がどこから来たのかを突きつけられる。人は「理性」というと「天から降ってきた啓蒙の光」みたいな印象を抱きたがるけど、本当のところはそうじゃない。
理性は、きったない世界でうんこにまみれて生まれてきたんだ。だから、出自を隠そうとしてあれこれ工夫を凝らす。

あるときは「肉体は魂の仮住まいであって、価値あるものではない」とうんこを突き放してみる。
「魂=理性と肉体=うんことは、実のところ何の関係もない」という大胆な嘘をつくわけだね。これは近代以前によく見られた。

またあるときは「うんこ? ああ、心身の健康のためには腸内環境に気を遣うのも大切だよね」と表面上はうんこに寄り添いつつ、「目的」に奉仕するものとして貶めてみる。

「存在の根本からして無駄であるうんこも、実は健康という目的に効率よく達するための手段になるんですよ」というわけだ。
そしてそれによって、「目的に効率よく達する能力」である理性を、うんこを監督するものとしてうんこの上位におこうとする。

こちらは近代以降の、「科学」の概念に典型的な発想だね。
「理性とうんこは関係ある」と大っぴらに認めることで、かえってうんこを理性にとってなんでもないものかのように見せかけるんだ。秘密を隠すために、その秘密をあえてなんでもないことのように明かすのと同じさ。

さてこれで、なぜ人間がうんこにぎょっとするのかは分かっただろう。
人はみな、自分の出自が美しく清潔なものであると信じたいんだ。だから「そうじゃないぞ、忘れるなよ」と突きつけてくるうんこが嫌なんだよ。

そしてキミがうんこを面白がる理由もね!
たかがうんこ程度で、人間が存在の根底から右往左往するのは面白いだろ?

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