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【リレー小説】天使の堕獄

「お嬢様とおつきのメイドの暗い百合」をテーマに、友人の「矢代 スズシロ」氏と書きました。15000文字くらいです。


〈一〉矢代 スズシロ

 栄華を極めた帝国の、狂瀾怒涛たる享楽の都。そこでは叶わぬ望みはないという。
 悪魔に魅入られた大商人が一夜で身代の全てを蕩尽したかと思えば、橋の下で乞食坊主の占いを聞いていた若者が一日にして大富豪となる。魔術師がこの世の道理を曲げ、神憑りが不吉な予言を垂れる。そのような時代にあっては、父祖らが奉じていた理性や人倫など一顧だにされぬ骨董品にすぎなかった。
 その有り様を端的に表すのが、都の片隅に巣食う歓楽街である。この街に無いものはなく、値札のつかぬものもまたない。およそ金次第でどのような欲も満たされる、そのような街だ。目抜き通りには怪しげな店が軒を連ね、「瓶詰妖精・新入荷あり〼」だの「妖術師の弟子求ム」「酒舗フォルトゥナ―ト 復讐より甘美な酒(時価)」「今度こそ当たる滅亡の大予言」といった看板が踊っている。街路ではひっきりなしに客や行商人が押し合い圧し合いをしていた。
 
「占い、占い、黙って座ればぴたりと当たる。銅貨十枚ぽっきりだ!」
「いい娘が入ったよ、悪魔と修道女の合いの子の娘だ。神様よりいい夢見られるよ!」
「おい何が魔術師だ、パチもんを掴ませやがって、殺してやる!」
 
 商人らが声を張り上げる往来を、場違いな人影が一つ過ぎた。
 娘である。白黒の女中服を纏い、黒髪を固く結い上げている。質素というよりもはや禁欲的でさえある出で立ちは、この色彩と大音声、得体の知れぬ臭いの坩堝の中にあってはことさらに異質であった。
 娘は頭を上げ、決然とした歩調で人波に逆らっていた。寄進を求める偽宗教者の手を払い、顔を背けた先の客引きを押しのける。何やら分からない肉を串焼きにする屋台と「ツキを呼ぶ栄光の手 産地直送」の看板の間を抜け、人気のない裏路地へと歩を進めていく。

 昼でも暗い路地裏をどれほど歩いただろうか。角を幾度も曲がった後で、娘はようやく目的地に辿り着いた。
 袋小路の傍らに、継ぎ接ぎの天幕を張ったテントが据えられていた。一見すると浮浪者の寝床にも見えるが、人一人が寝起きするには大きすぎる。設置した人間がいい加減なのだろう、屋根は傾いでところどころに余った布地が垂れていた。娘はためらわずに入り口を捲ると、主に呼びかけながらテントの内側に身を滑り込ませた。

「ごめんくださいませ。引導屋様はこちらにいらっしゃるでしょうか」

 返事はない。しかし娘の表情に迷いはなかった。口にする胡乱な呼び名に反して、声には望むものがここにあるとの確信が籠っている。
 もう一度呼ばわろうと息を吸い込んだ直後、娘の生白い脛を焦がすような熱気が掠めた。見遣ると、娘の足元はいつの間にやら火の海と化していた。炎は路地の石畳を嘗め、娘の脚とスカートの裾を焦がさんばかりに迫っている。
「ひっ……」
 娘の喉から悲鳴が漏れかけた直後、奥の仕切り布が無造作に捲られた。
「失礼、寝ちまってたみてえで」
 天幕の隙間から、ぬるり、と女が現れた。
 燃えるような髪の女だ。炎に照らされた白皙が宙に浮いているように見えた。一拍遅れて、異常な長身を黒衣で包んでいるゆえの錯覚であると娘は気づいた。
 女が長い脚を踏み出した瞬間、床の炎がひときわ燃え上がった。娘が目を瞑る。しかし予期された熱と痛みは訪れない。
 こわごわと目を開くと、炎は導火線を伝うような動きで女の足元に収束していた。女が脚を踏み出すごとに逆巻く炎が追随する。
「お客様に茶も出せずあいすみませんね、椅子もありませんがこらえてください」
 女はいつの間にか客人の目の前にいた。転がっていたガラクタの一つを引き寄せて腰掛ける(それでも頭の位置は娘より高かった)。足元では相変わらず炎が輪を描くように燃えている。

「さて、あたしをご用命とあらばご用件は一つきりでしょう。いったいどなたを地獄に落としたいんで?」

 女――引導屋が身をかがめ、息のかかるほどの距離で娘を覗き込む。娘はかすかに硫黄の香りを嗅ぎ取った。
「うちの商い物といやこれしかない。望んだ相手を地獄に落とし、この世の終わりまで魂を業火で炙る。生き意地汚いごうつくばりも聖人君子も関係なし、対価相応の仕事をお約束しましょう。……聞いてます?」
 息を呑んでいた娘は我に返り、引導屋の目を見つめた。渦を巻く沼のような瞳である。
「カマトトぶっちゃいけませんぜ。持ちうる全てとひきかえに、憎い憎い相手に文字通りの地獄を見せたいんでしょう? それともまさか対価がご用意できねえと? 生憎こちらも商売なもんで……」
「いいえ!」
 娘が剣の切先のような声をあげた。
「仰る通り、お仕事のご依頼にまいりました。ひとの破滅と苦痛を贖いにまいりました。私の持つものなどたかが知れておりますが、対価は必ず云い値でお支払いいたします」
 引導屋が眉を上げ、獣のような歯を見せて笑った。娘は意に介さない。

「お嬢様を、私の主を、地獄へ落としていただきたいのです」


〈二〉あかさたな

「はァ」
 引導屋はことさら驚きもしなかった。

「主人と使用人」といえばなんてことはない、ただの労使関係のようにも聞こえるが、実際のところは少し異なる。いってしまえば、両者の関係はもっと「じっとりとした」ものなのだ。
 この狂騒の大帝都にあって、上流連中は今なお'respectability'なるものを奉じていた。要は立派に見えるよう振る舞いましょう、ということだ。そしてその「立派な振る舞い」の中には、使用人をはじめとする下層の人間──上流どもにいわせれば「未成熟な人間」──の「教化」も含まれているのである。
 理性や人倫を信じなさい。勤勉であれ。酒や漁色に溺れるな。魔術のたぐいに関わるな。──いずれも頽廃した歓楽街の住民にとっては、実情から乖離した、象牙の塔からの最後の抵抗と思われた。が、それにしても滑稽な話である。象牙の塔を守ってきた番人とは他ならぬ、われら俗物の神こと「金」なのだから。俗物に守られながら俗物を一掃しようなどとは! こういう矛盾を抱えていた時点で、畢竟、理性なるものの城砦は、いつか狂気に攻め落とされる運命にあったのだろう。爛熟した果物がついに腐って、地に落ちるように。それがこの「黄金の時代」への至極当然の帰結というわけだ。

 兎にも角にも、目の前の娘と「お嬢様」とやらの関係が、曲がりくねった暗路の先の、こんな袋小路に行き着くほどこじれてしまったのだって、上流連中の時代錯誤な「教化」によるものに違いない。聞けば、使用人というものは働いていない時間にあってさえ、主人一家から道徳の縛めを受けるというじゃないか。だというのに主人の側は、見せつけるように贅沢三昧の生活を送ったり、挙げ句女中に手を出して孕ませる者も出たりする始末。なんという言行不一致! これじゃあ使用人が何かの拍子に激しい憎悪に駆られたとしても、不思議ではあるまい。
 それに、この娘の禁欲的な出で立ちも、おそらくは彼女の主に由来するのだろう。固く結い上げられた黒髪に、ぱりっと糊のきいた女中服。いかにも「道徳的な」上流階級が好みそうな格好じゃないか。服の下を暴くことも含めて。
 それでいて、ほら、よく見てみろ──娘の額には大きな痣があった。もっとも、ずいぶん時間が経っているのだろう、それは目を凝らさないとわからないほど薄れてこそいたが。とかく、こんな大きな傷痕が、しかも顔にあるのだ。一体何があってこさえたんだか。この娘の出自は、使用人という身分の中でも特によくないと思われた。
 理外の暴力に怯えるくせに引きもせず、まっすぐにこちらを見据えているのも、そういう獣じみた素性のなせるわざなのだろうか。

「まァ、仔細までは聞きますまい。あたしはお代が頂ければそれで」
 引導屋はわざとらしく手をすりすりさせると、にっこりと笑った。
「それにしても少し珍しい気はしますがねえ。『お嬢様』ってこたあ女性でしょう? こういうのは旦那だか跡取り息子だかに手をつけられて、子を孕んで、にっちもさっちもいかなくなった哀れな女中なんぞが復讐としてやることだとばかり──」
「復讐などではありません。お嬢様は天使のようなお方ですから。私、あんなにも正しくて強い方、これまでの人生で出会ったことがございません」
 ぺらぺら喋る引導屋を遮って、娘はぽつりとつぶやいた。

「……へェ? そりゃあまた、俄然興味が湧いてきましたねえ。貴女は復讐心もないのに『天使のようなお嬢様』を地獄に落としたいと? 硫黄くさい穴で、永遠に炎に舐られるような苦しみを味わわせたいと? 一体全体どうして?」
「……強いていえば、心中ということになるのでしょうか」
 娘が伏し目がちに零すのを聞いて、引導屋はニィと意地悪げに笑った。
「なるほど。つまり貴女、自分は地獄に落ちるとでも思っているんですかい? お嬢様はあたしみたいなもんに頼りでもしねえと地獄に行くこたあないが、自分は何もせずともそのうち地獄行きだ、と? それで、地獄で二人一緒になろうというわけですかい?」
 娘は何も言わない。石像のように青白い顔をしてじっと立っている。そんな娘を見下ろす引導屋は、いよいよ可笑しいといった様子だ。

「まァ、いいでしょう。お引き受けしましょう。それで、肝心の対価についてですがねえ──」
 娘は息を呑む。ややあって、頭上から引導屋の宣告が下された。

「それじゃあ、貴女の死を頂きましょうか」
「死ぬ、ってんじゃァありませんよ。その逆です。つまり、貴女は死ねなくなるということです。それでよろしければ、あたしが貴女のお嬢様を、地獄に送って差し上げましょう」


〈三〉矢代 スズシロ

 娘の反応はごく僅かであった。彼女はただひくりと睫毛を震わせたのちに一言、
「承知いたしました」と呟いた。
「私は先に、対価は云い値で差し上げる、と申しました。二言はございません。どうか私の死でも魂でも、お好きに持っていってくださいませ」
 ほう、と引導屋は内心でひとりごちる。どうも単純な心中志願という訳でもないらしいぞ。あるいは見かけ以上に豪胆で、感情の揺れを隠す術に長けているのか。どちらにせよ、娘がその細い胴の中に何やら込み入った事情を抱えているのは確かなように思われた。
 引導屋の内心にむらむらと好奇心が湧き上がった。蛇のような姿をしたそれが胸中で鎌首をもたげるにつれ、彼女の足下を逆巻く炎もその勢いを増した。
「そいつはいいや! 善良な主を永劫の苦しみに落として、その上それが今生の別れに──いや、後世での再会すら放り投げて、三世ある主従の縁そのものをすっぱり断ち切ってしまおうてェ話とは。ますます興味が湧いてきた」
 
 誘惑者は言葉を切り、貴人にするような優雅な手つきで掌を差し出した。

「どうです、縁切りついでに事のいきさつを話しちゃくれませんかね? なに、こちとら外法遣いの下賤の身だ。お屋敷住まいの天上人の事情など文字通り雲の上の話てなもんで、後腐れもないかと思いますがね」

 人は思いの丈を自分の内側だけに留めておけるようにはできていない。自他を焼くほどの激情であれば尚更である。娘はそれでも少しの間ためらっていたが、しばらくすると衝動に抗いきれなかったとみえ、訥々と語り始めた。

 お嬢様は天使のようなお方です。人の道が忘れられ、強い者が弱い者を踏みにじる世にあって、なお正しく美しいまま生きておられる人です。
 お嬢様に初めてお会いした日のことを覚えています。私が奥様に連れられて初めてお屋敷の門をくぐった日、お嬢様は裏庭の茂みに向かって屈みこみ、何やら頭を垂れておられるようでした。奥様が慌てたご様子で何をしているのかと声をかけると、お嬢様はそこで初めてこちらをご覧になり、
『小鳥を埋めてあげていたのです』とおっしゃいました。奥様がまあ、と非難の声をあげると、きょとんとした顔で
『だって可哀想でしょう、土の上でお祈りもなく死んでいくなんて』
 そうして私の顔を上目遣いに覗きこみ、ね、と笑いました。
 そのかんばせの清らかなことといったら! 
『お母様に聞いていましたわ、あなたが新しい私付きの子でしょう。よろしくね』
 私はすっかり馬鹿のようになってしまって、お嬢様のご挨拶にもぎこちなく頭を下げることしかできませんでした。蕩けたような頭の中では、ただこの頬がひどく熱いことがお嬢様に悟られはしないかと怯えておりました。

 お屋敷にお仕えするようになってわかったのは、まずお嬢様の天真爛漫さでした。私といくらも違わない年頃であるというのに、お嬢様は子どもが遊ぶような人形やおはじきなどのおもちゃを好んでおいででした。
 ある時など、邸内の廊下に掌いっぱいほどもあるビー玉をばらばらと転がす悪戯をなさったことがありました。そうしてご自分は廊下の隅に屈みこみ、頬杖をついてきらきらと光る陽をご覧になっているのです。居合わせた私が思わず、何をなさっているのですか、と問うと、人差し指を形のよい唇の前に立て、いいことよ、とおっしゃいました。硝子玉からの照り返しが頬に映え、まるで光の宝石をお召しになっているようでした。

 もう一つわかったのは、お屋敷にお仕えする人員――いわゆる階下の者たちが奇妙なほど頻繁に入れ替わっているようだということでした。
 私の奉公先は、この都でも指折りの長い歴史を持つお屋敷です。それに、私たちのような使用人はそう軽軽にお暇をいただくものではありません。だというのに、周囲の同僚には新人が多く、またどこそこの担当が代わったらしいという噂を聞くこともしばしばでした。
 理由を知ったのは、私がご奉公を始めて一月ほど経った頃でした。お屋敷の従僕の一人が頓死したのです。なんでも邸内の階段で足を滑らせ、頭をしたたかに打ち付けたのだということでした。ちょうど夜の遅い時間であったばかりにそこを通る者もなく、虫の息のまま長いこと苦しんだのでしょう、死体には断末魔のひどい形相が刻まれておりました。

 事態は不慮の事故として処理されました。お屋敷に役人などを入れたくないという旦那様のご意向もあったようです。

『それにしたって、また人死にとはね』
 一通りの始末が付いてから戻った控え室で、年嵩の女中がこぼしました。
『また、ですか?』
『ああ、そういやあんた前の時にはいなかったっけ。ここ数年どうも人死にが多いのさ。お嬢様の家庭教師を皮切りに、前の家令だろ、それから女中は二人も死んでる。お屋敷の方も勘定に入れりゃ、大旦那様や居候なさってた旦那様の甥御さんもここ二、三年で亡くなった。どれも事故やら自殺って話だけどねえ――』
『違うのですか?』
『めったなことを言うもんじゃないよ、ただ多すぎるって話さ。お陰で若いのが気味悪がってすぐ辞めちまってねえ』
 彼女はため息をつきました。
『ま、朋輩が死ぬってな嫌なもんさね。あの従僕だってねえ。そりゃあんな奴だったけど、何も死ねなんて思っちゃいなかったさ』
 件の従僕は女好きで、女の使用人と見ればしつこく粉をかける悪癖があったためにひどく嫌われていたのです。
『あなたたち、無駄話はお止しなさい!』
 女中頭から叱責の声が飛び、私たちは慌てて各々の仕事に戻りました。

 それからまたしばらく経ったある晩のことでした。お嬢様が就寝前にタオルとお着替えをご所望になったのです。それだけならば何ということもありません。しかし奇妙だったのは、お嬢様のではなく奥様の部屋に届けるようにとのご指示があったことでした。私とて訝る気持ちがなかったとは言えません。しかしお嬢様に
『お夕飯の後で、お母様に少し内密な用事があるの。だからなるべくこっそり来てちょうだいね』
 などと秘密めかして言われたものですから、私はすべての疑問を呑み込んでしまったのです。
 
 晩餐の後、常の就寝時間の少し前に奥様の部屋へ向かいました。豪奢なドアをノックして用件を告げると中から応えがあり、私は初めて奥様の部屋へと足を踏み入れました。
 まず目に入ったのは赤い色でした。贅を凝らした舶来の絨毯の、寝台を囲んだ一角だけが赤く染まっていたのです。思わず寝台に目をやると、こちらも真っ赤に染まった敷布の上に青白い腕が投げ出されておりました。
 奥様でした。首筋に開いた赤い傷口から血を溢れさせ、とうに事切れておいででした。
『タオルは持ってきてくれて?』
 聞きなれた声がいたしました。このような状況であっても私の胸を甘くときめかせるそれは、確かに私の主のものでした。こちらに歩み寄りながら、お嬢様は緩やかな夜着をするりと肌から落としました。そうして現れた下着さえも取り去ってしまうと、白い肌に纏うものは血のしぶきだけとなりました。
『お、お嬢様、どうして』
『どうして?』
 無様に声を震わせる私に、お嬢様はきょとんと首をかしげました。
『だって間違っているでしょう、あのような悪徳を行う者が存在するなんて』
 そういって、お嬢様は私の顔を覗き込むと、ね、と笑いました。
 そのお顔は血に濡れていてもなお清らかなままで、私は頭の芯が蕩けるような心地がいたしました。

『悪徳、奥様が』
 私が酔ったような心地のまま繰り返すと、お嬢様はただ、
『ええ。ご覧なさい』
 そういって、側机を指さしました。


〈四〉あかさたな

 そこにあったのは、奥様が書いたと思しき恋文でございました。「私の愛しい人」。封筒の宛先には、この頃急激に台頭した商会を牛耳る男の名が書かれております。もちろん、旦那様とは別人です。まぎれもない「不倫」の証拠でございましょう。
 さて、風の噂に聞く限りこの宛名の男は、武器や薬の原料となる珍しい植物をときとして非合法的に売買して財を成し、今や海軍の探検航海にまで出資するようになった男であって──要するに、成金でございました。土地も屋敷も爵位も持たない、叩き上げです。かつてであれば、いくら金があるとはいったって、奥様のような身分の御方と関係を持てるような素性の者ではありません。
 つまるところ、これは単なる不倫ではありませんでした。一種の「身売り」と呼ぶことさえ許されるかもしれません。こんな時代です、それまでにうず高く積み上げられた伝統と道徳の重みが頽落していく中で、上流階級の権威も失われていった。そんな中でも、なんとか自分たちの暮らしを守ろうと、屋敷の裏の主人たる奥様も必死だったのでしょう。それで、変わりゆく潮目を上手く読んでいるかに見えた、あの男に身を売ったのです。新興階級の金が必要だったから。
 それに──自らの裸体を恥じることすらないほどに無垢なお嬢様は、ひょっとするとご存じなかったのかもしれませんが──上流階級の不倫なんてものは、屋敷に関わりのある人間ならば誰でも見聞きしたことのある、ありふれた日常でございます。言葉にするから許されないのであって、そうでなければ、たとえ勘づいても見て見ぬふりをするのが暗黙の了解というものでございましょう。

『あなたは、わかってくれるわよね?』
 それでも、お嬢様は自分の母を手にかけたのです。暮らしのためだとか、ありふれたことだとかいう弁明を許さずに、断乎として、裁くことを選んだのです。その結果自分の豊かな暮らしを、いえそれどころか、まともな人間としての暮らしさえも失うかもしれないのに。──これは無知ゆえでしょうか、それとも矜持ゆえでしょうか?

『わ、わかります』
 私はカラカラに乾いた喉から、なんとか返事を絞り出しました。しかし返事をしたそばから、私は自分の中にふつふつと疑念が湧き起こるのを感じておりました。

 …お気づきかもしれませんが、私の素性は決してよいものとはいえません。その日暮らしの街娼が、春を売る中で身ごもって産んだ私生児。当然父は誰とも知れず、母も私が幼い頃、流行り病に斃れました。
 引導屋様、ご存知ですか? 炎に沈んだ川向こうの赤線を。そこが私の生まれたところです。ええ、もとは活気のある場所でございました。だからこそ、母のような「娘たち」で溢れかえるし──花売りの命は短いですからね──どこから来てどこへ行くのかも知れぬ異邦人が数多く流れ着いては、娘たちとともに薄暗い路地に消えていったのです。かの病の始まりも、そんなところからでございましょう。身をひさぐ娘が得体のしれないものを産んだ。
 とにかく、人々はそうそうに私たちを見捨てました。こちら側に渡るための橋を封鎖し、街に火を放った。時代錯誤な魔女狩りに、物見遊山の人間が群がる。「悪魔に身を売って、化け物を産んだ魔女どもめ!」──燃える街に哄笑が響きます。ねえあなた、苦界に生まれ貧苦にあえいだ娘たちが、本当に魔女だとお思いですか?

 私は街全体が火あぶりの刑に処された魔女狩りの夜、外れにつながれていた古い小舟に乗って、ひっそりとこちらに渡ってきました。ほんの数日前に力尽きた、蝿の群がる母の死骸をあばら家に残して。ええ、まったくの幸運でございましょう。とかくそれからは死にものぐるいです。物乞いに救貧院暮らし、掏摸に空き巣に居空きに忍び込み、売春、売血、怪しい医療の実験体、盗品売りに贋品売り──生きるためなら何でもしました。どんな悪事にも手を染めました。幸いというべきか、偶然にも殺しだけはする機会がありませんでしたが。
 そんな折、私を拾ってくださったのが奥様でした。こんな時代には誰も寄りつきやしない教会の外で、行き倒れている私に目を留められたのです。そして──卑しい人間を「教化」したいという上流階級特有の下心もあったのかもしれませんが──私を使用人として雇ってくださいました。奥様はまことに、古い貴族らしい貴族でございましょう?

 その奥様が事切れていて、側にはお嬢様が立っていらっしゃる。銀色に鈍く光る短剣を手に、一糸まとわぬ姿で立っているのです。欲望渦巻くこの都にはいつも豆色の霧がかかっておりますが、ふいに夜霧が晴れて、青い月が顔を出します。窓から差し込む月光を背に微笑む血まみれのお嬢様は、まさに天使──苛烈なまでの正しさでもって人を裁く、神の御使いそのものでございました。この方には、何も後ろ暗いことなどないのです。
 だから私は、天使を前にして自分がまだ裁かれていない事実を苦々しく思ったのでした。ああ、お嬢様。私は貴女に出会う前、あれほどまでに自分の手を汚してしまいました。「家のため」という大義名分をもってしても奥様の行いが赦されないのであれば、なぜ私が赦されるということがありましょうか? なぜ私は、今もって裁かれていないのでしょう? なぜ、裁いてくださらないのですか?

 どうか裁いてくださいませ、お嬢様。貴女の美しい御手で、私を地獄に突き落としていただきたいのです。奥様や、おそらくは屋敷の他の人間たちにもそうしてきたように。
 …そう叫び出したい気持ちに駆られながら、あの夜私にできたのは、お嬢様に顔を拭くための布を差し出すことだけでございました。
 赤黒い血を拭い去った後のお嬢様の面は、香油でも塗られたかのように輝いております。新しい衣服に袖を通すというだけの行為ですら、まるで神聖な儀式のようでした。それなのに──お嬢様は、私の顔が曇っているのを知ってか知らずか、無邪気にこう言います。

『これから、お母様を埋めにいきましょうか。だって可哀想でしょう、土の上でお祈りもなく死んでいくなんて』
『あなたもついてきてちょうだい。ね?』

 ああ、私はそのとき初めて知りました。裁かれることもまた、一つの救済なのだと。人を裁く存在とは、その人を見てくれているものに違いないからです。人のことをきちんと見ていなければ、その罪を裁けるはずもない。畢竟、人は断罪されるとき、誰にも知られずに生きて死んでゆくという絶望から救われているのです。赦す神ではなく裁く神もまた、人を生の孤独から救済するものであることに変わりはないといえましょう。
 翻って、真に救われないのは地獄に落ちる者ではなく、地獄に落としてすらもらえない者、裁きを受けられなかった者なのでしょう。その者は、自分独りで己の罪を見つめなければならない。自分がかつて罪を犯したという事実を、誰にも暴かれないまま孤独に抱え込まなければならないのです。そうして他者には見えない十字架を背負いながら、何事もないような顔をして人の世を渡ってゆく。きっとあまりにも辛い道のりでしょう。それに比べれば、地獄に落ちることの方がずっと幸せだ。
 だから私は、人を裁く天使であるお嬢様のことを信じたのです。己の生涯を恥じていたがゆえに、赦されるのではなく裁かれることによって、この憂き世から救われたいと願った。今も奥様が羨ましくてたまらない。けれど、お嬢様はついに私を裁いてはくださらなかった。あの方の裁きを受けたくて、あんなことまで言ったのに。

『畏れながら、お嬢様。奥様のご遺体の処理でしたら、ひとつ私に提案がございます。この手のことに強い者に、伝手があるのです。まさかかように明らかな他殺体を、二人だけで運び出すわけにもいかないでしょう?』
 事実でした。私がお屋敷に拾われる前につき合っていた、怪しい偽医療者というのがそれです。彼らのもとを訪ねれば、奥様一人分の遺体くらい、あっという間に闇に葬り去ってしまうことでしょう。
 しかしそんな怪しげな者たちとのつながりがあったと知れれば、お嬢様は私のいやらしい本性を見抜いて、断罪してくださるに違いない。内心そんな期待をしながら、私はお嬢様にご提案申し上げました。

『そうね、あなたの言う通りにしようかしら。あなたの言うことは信頼できるもの』
 しかし、お嬢様から返ってきた答えはこのようなものでした。「あなたの言うことは信頼できる」! ああ、ああ、なんて恐ろしい言葉でしょうか! お嬢様、貴女は私の罪を、清潔な女中服の下に隠された醜い本性を、見咎めてはくれないのですか。

 この人でないなら、一体誰が私を裁いてくれるというのでしょうか。そんなことを考えているうち、ふと反対に、こんな思いが浮かんできたのでした。「お嬢様の罪は誰が裁くのだろうか」と。
 思えばいうまでもなく、人を殺すことは悪行でございます。お嬢様は心の正しい方ですが、正しさがゆえに手を汚さねばならなかった。罪を犯した。あの方は天使のようではありますが、それでもやはり人間です。肉体を持っている。端的に空から火矢を降らせて、あとは知らん顔すれば済むのではなく、自ら、確固たる殺意をもって手を下さねばならない。それだけで、完璧に無謬ではいられない。だというのに、傲慢にもご自分を天使だと思っていらっしゃるのです。その報いは、いかにして受けるおつもりなのでしょうか?
 そんな疑問がむらむらと湧き上がる中で、ふいに天啓が降ったのでした。つまり、私がお嬢様を裁くのだ、と。お嬢様が私を裁くのではなくて。この人の罪を知っているのは、三千世界に私だけなのだから。そうだ、そのためにこそ、私は生まれてきたのです。
 お嬢様を裁いて、私も死ぬ。なに、お嬢様に断罪していただくまでもなく、遅かれ早かれ私にも罰が下るでしょう。あんなにも罪深い生涯を送ってきたのですから。だからどうか、お嬢様。先に救われてくださいませ。私もすぐに後を追いますから。
 そうと決まれば、お嬢様を確実に地獄に落とすための手はずを整えなくては。万が一のことがあってはいけません。あの方の清らかな顔は、最後の審判を下す神でさえも騙すに違いないから。私が最後までやるのです。この薄汚れた手で、貴女の穢れなき人生に終止符を打って差し上げます。暗夜、怪しい者たちとともに奥様の遺体を運び出しながら、私はひそかに決意を固めたのでした。

 ──あとは引導屋様、あなたもご存知の通りです。これが顛末というわけでございます。


〈五〉矢代 スズシロ

 一気呵成にそこまで語ると、娘は圧し殺したように一つ息をついた。青白かった頬はいまやすっかり紅潮し、氷が張ったようだった目の奥には引導屋の足下のそれにも劣らぬ程の炎が揺れていた。今にも溢れんとそのする炎を抑えるように、傷だらけの手が胸の前で固く組まれている。それは神の前で信仰を告白する敬虔な信徒の仕草にも似ていた。
 そうだ、神に身を捧げた大昔の求道者よろしく、この娘は信仰告白をしてのけたのだ。こともあろうにこの己に、神の定めたもうた摂理と審判とを捻じ曲げる外法遣いに! 引導屋は唇の端が吊り上がる感覚を覚えた。

「しかし本当に良いんですか? いやあたしが言うのもなんですがね、お嬢様を地獄へ送って代償を支払えば、貴女はお嬢様の待つ地獄へは永遠に行けないことになる訳です。取引のあとで泣きを入れられても困りますよ」
「それは――」娘は俯いた。強く組んだ指先は震え、白く染まっている。
「私とて、未練が無いと申せば嘘になります。私は醜い女です。見てくれのことを申しているのではありません。確かに消えぬ痣やらに覆われた酷いなりではありますが、そんな皮一枚など死んで腐れば皆同じです。
 だって、こうしている間でさえ私を呼ぶお嬢様の声が、経典の頁をなぞる仕草が、陽を浴びて輝く頬の産毛が、こんなにも慕わしいのですもの!
 己の汚れた身の程も弁えぬ、これを醜さと呼ばずして何と呼びましょう?
 ですが、ああ――」
 娘は言葉を切り、潤んだ瞳を伏せた。
「いえ、少しばかり要らぬお喋りをしてしまいました。これはみな詮無いことでございます。どうか卑しい小娘の放言と忘れてくださいませ。もとより私は使用人でございます。使用人が願うのは主の幸福だけと決まっております。そこに私の欲が存在する余地などありはしないのです。私はただ、救いも、罰も、祈りも受けられないという不幸からお嬢様をお救い申し上げるためにここにおります。ええ、私はその孤独をよく知っておりますから。あの方はあんなものを受けてよい人ではありません。
 私は、お嬢様の全てを知ってなおあの方のために祈る唯一のものとなりましょう。その祈りを永遠に続けることができるのならば僥倖というものです」
 組まれた指先はもう震えていなかった。白い喉を反らして引導屋を見据える。
「どうぞ、私の死をお受けくださいませ」
「なるほど!」
 引導屋が場違いに明るい声をあげた。
「お客様の覚悟はようく分かりました。それではこちらも仕事にかかるとしましょう」
 そう言った引導屋が再び手を差し出すと、そこにはいつの間にか抜き身の短剣が乗せられていた。埃っぽいテントには似つかわしくない豪奢な品である。柄に埋め込まれた赤い宝石がぬらぬらと輝いている。
「これは――」
「こいつはねえ、お客様、地獄の門の鍵ですよ。使い方をお教えしましょう」
 掌の中で短剣が回転し、切先が娘の胸元に向けられる。
「こいつに代償を与えることで取引は成立する。今回のお代はお客様の死ですから、そうですねえ」
 短剣の先が女中服の胸元をつう、となぞった。
「このあたり、心臓を突くといい。地獄に送りたい相手のことを思い浮かべながらね。それだけで貴女は願いが叶い、あたしはお代を頂戴できる。簡単でしょう? まあ、ちょっとばかり痛いかもしれませんがね」
「慣れております」
「そりゃいいや」
 短剣を受け取る娘を見下ろしながら、引導屋は喉を鳴らして笑った。
「七日後にそいつを回収しに伺います。延長は無し、きっかり期限内に事を済ませていただくようお願い申し上げます。どうか後悔なさいませんよう――」


〈六〉あかさたな

「お嬢様」
 黄昏だった。側仕えの娘に声をかけられた令嬢は、ゆっくりと振り返る。窓から差し込むわざとらしいほど黄みを帯びた残照を背にする貴人の顔は、逆光でよく見えなかった。

「私を殺すのね」
 令嬢は感情の読み取れない声で言う。何も芝居がかったところのない、冷厳に審判を下す天使の声だ。女中娘は少し気圧されたようだったが、やがて持ち直して答えた。

「ええ。…貴女には何でもお見通しなのですね、お嬢様」
「だって、あなたは隠し事をしないもの。あなたの声はいつだって、素直に思っていることを告げるじゃない。自分では気づいていないかもしれないけれど」
 娘には主の言っている意味がよく分からなかった。が、彼女には、主人が少しだけ口の端を上げたように見えた。

「あなたの、そういうところが好きよ」
「命乞いですか」
「あら、そう聞こえる?」
 令嬢は先ほどとは打って変わって、悪戯っぽくからからと笑った。だから、娘はますます主人の真意が分からなくなった。

「いいのよ、あなたが、思うようにすれば」
 令嬢は赤子をあやすような声音で言う。その視線は目の前の女中の身体を通り過ぎて、彼女が背後に隠した、地獄の門の鍵に注がれているようだった。娘は主人の眼差しに、苛烈な正しさとは違う何かを読み取って当惑した。それでも彼女は息を呑み、覚悟を決めたように、妖しく光る短剣を主の前で振りかざしたのである。

「ええ、そうします、そうしましょう──お嬢様、本当に、心の底から愛しております」

 娘は一息にそう言うと、自分の心臓に思い切り短剣を突き立てた。鋭く研ぎ澄まされた重い金属の塊が、柔らかな肉を裂いて貫入してくる。金属の硬い冷たさと、肉の柔らかい熱さの境界が、いやにはっきりと感じられた。喉元が詰まる。娘は激痛とも法悦ともつかぬ朦朧状態の中、自らの血肉ごと刃を引き抜いた。
 鮮血がほとばしり、地獄の門の扉が開く。血が赤い、視界が暗い。黄昏の空は異常な光を放っている。ものの輪郭が判然としない、音がざらついて、愛する令嬢の顔は見えなかった。頽れつつも、血を吸って鈍くなった短剣の切っ先を、必死で無貌の天使の方へと向ける。滴り落ちる死に、短剣の柄にはめ込まれた真紅の宝石が輝いた。これは献身。貴女に救われてほしいと願う気持ち。鍵が、開いた。
 轟音を立てて揺れる世界の中で、天使はなお佇んでいた。どこからか、分厚く巨大な鉄扉の、錆びた蝶番の軋む音がする。甲高いくせに重くて、嫌な音だ。頭が割れるように痛い。気づけば、令嬢の背後の硝子窓はなくなっていた。代わりにあったのは、いや「いた」のは、開いた扉から無防備な天使を連れ去ろうと手を伸ばす、地獄の使者たちであった。令嬢の背後にぽっかりと開いた地獄の口から、爛れたいびつな腕を伸ばしている。
 不意に、天使の顔が判った。一瞬だけ見えたのだ。笑っていた。無知ゆえでもなく、傲慢ゆえでもなく、ただ、虚心に、笑っていた。自分の血の海の中で、娘はなんだか泣きたくなった。

「それじゃあ、さよならね。楽しかったわ!」

 令嬢は無邪気に別れの挨拶をする。と同時に、彼女の姿はあさましく群がる怪物どもに呑まれて見えなくなった。最後に見えたのは、ひらひらと軽やかに振られる小さな白い手だけであった。娘は何も言えない。ドクドクと流れ出た血の中に倒れ伏している。体温が失われていく。傷口は熱いのに、とても寒い。身を起こそうとしても四肢に力が入らない。白黒の女中服が血を吸って重かった。
 ああ、行ってしまう、お嬢様が行ってしまう。そうしたらもう、二度と会えないんだ! いやだ、やっぱりいやだ! おいて行かないで! 地獄の門扉は閉まりつつあった。しかし、娘はただ見ていることしかできない。叫びだそうとしても、痛苦とともに喉の奥に溜まった血がゴポゴポと濁った音を立てるのみであった。
 やがて重々しい金属音とともに扉が閉まる。娘は血を吐き出しながら、床に転がり苦悶した。私は天使を殺してしまったのだ。……あの方は、私が裁きを下すまでもなく救われていたのかもしれない。だって、手が、白かった。地べたに伏して、先ほどまで扉があったところを未練がましく見上げる娘の視界は、ぼやけて歪んでいた。

「いやはや、見事な最期でしたねぇ。貴女のお嬢様は」
 そこにどこからともなく引導屋がやって来る。引導屋は愉しげに目を細めると、娘の手に弱々しく握られていた短剣を回収した。懐から布を取り出して、付着した人血を拭う。

「……ええ、そうでしょう?」
 ようやく血を吐ききった娘がおもむろに口を開く。まだ身体は動かせない。娘は倒れたまま後悔とも安堵ともつかぬ寂しげな微笑みを浮かべて、引導屋に礼を言った。

「礼には及びませんよ、あたしはこれが生業ですからねえ。それより貴女、これからどうするんです? どこか行くアテはあるんですか?」
「とりあえず、もうこの屋敷にはいられないでしょうね」
「そうですねえ。ま、あたしが言うのもなんですが、きっとどうとでもなるでしょう。なにせこんな時代だ。どこかにスルッと紛れ込むのも、そう難しいことじゃァありますまい」
「それに……貴女はもう不死なんですからねえ」
 倒れ込んだ娘の心臓からは、今も夥しい血が流れ続けている。普通の人間であれば致命的な量だ。いや、普通の人間ならば、己の心臓を一突きにした時点で死んでいるに違いない。しかし娘は生きている。もう、死ぬことはないのだ。

 娘は引導屋の言葉に小さく頷くと、屋敷から姿をくらませた。
 妻に引き続き、一人娘までもが行方知れずとなった屋敷の主人は発狂し、数カ月後に謎の死を遂げたという。この屋敷のあったところは今、さる商会の地所となっている。

 あれから、どれほどの時が流れたのだろうか。かつて娘だったものは想う。彼女のもとには今日も、救いを求める大勢の信者が集う。
 あの日──最愛の主を地獄に落とすため、心臓に短剣を突き刺したあの日──以来、流れる血が止まることはなかった。今も彼女の修道服の胸元は、溢れ出る血でべったりと濡れている。
 屋敷を去った娘はさびれた修道院に入り、祈りながら暮らした。追ってくる者はいなかった。当初は血の河を作ってなお生きている彼女のことを気味悪がる者も多かったが、やがてこれも「神の奇跡」として受け入れられるようになっていった。無論、彼女を気味悪がる者が死に絶えたというのも大きかったが。
 今や彼女は「血の聖女」である。狂乱の時代に、堕落した人々の罪を一身に背負い、神罰として胸から血を流し続ける聖女──それが、敬虔な人々がかの娘に与えた新しい名であった。不死の娘は、この不確かな世界に、確かに一つの救いをもたらしたのである。理性と信仰に基づいた説明という救いを。

「さあ、みなさん。祈りましょう」
 聖女が祈りのかたちに手を組むと、信者たちもそれに倣う。彼女の存在が知れ渡るにつれ、求心力を失っていた有神教は、局所的にせよ勢いを取り戻しはじめた。血を流し痛み続ける聖女の心臓は、理性や人倫が骨董品と化した時代に一石を投じたのである。

 ……お嬢様のために。

 敬虔なる信徒たちは知らない。目の前の聖女が祈るのは、哀れな人々のためなどではないことを。彼女の心臓が痛むのは、頽廃した人々の罪を贖うためなどではないことを。
 けれど、人の胸のうちなど知りようがないのだし、知らなければ彼女は紛れもなく聖女だ。だからこれでいい。私の十字架は、私だけで背負いましょう。
 慈悲深い面で祈る聖女の側で、アイリスの花が揺れていた。

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