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タイムマシン

今、この瞬間を生き生きと生きている人はどのくらいいるのだろう。

少なくとも母は過去を生きている。健やかさを感じる瞬間がほとんどない身体で、過去を生きている。その時の登場人物の多くはすでにこの世には存在しないのに、彼らと交わしたことばや、その時に抱いた感情が、今まさにありありと体験されて甦る。その度に怒りで身体を震わせて、悲しみで身体を包み込み、身体はここにあるにもかかわらず、心だけが過去に飛んでいく。

それはわたしが子どもの頃から幾度となく繰り返されている母の時間旅行だ。かつては、いつか母の心は癒されて、楽しくもない時間旅行に終わりを告げて、未来を楽しんで親子で過ごすことができると信じていた。母の話しに心から耳を傾けても、その思いに共感しても、ことばを選んで伝えても、今に連れ戻すことは難しく、すでに済んでしまったことにとらわれ続けることに終止符をつけることは未だにできない。

人はどうして済んだことだと、過去に受けた悔しさや悲しさを流すことは難しいのだろう。この苦しさから楽になりたい、そう願っているのに、なぜそこから自由にはなれないのだろう。

最近の母の怒りは、かつての解消されない怒りと不条理な病への怒りとが混じり合って、さらに激しさを増している。そしてそれは父に向かっていく。

父にとって母は大切な人であるけれど、受け止めきれない怒りをぶつけてくる厄介な人にもなっている。そして、わたしは離れた場所から2人を見ている卑怯者だ。

関わることがしんどいのだ。

子どもの頃、ずっと母の怒りの世話をしてきた。愚痴を聴き、味方になり、時には母と一緒に相手の悪口を言い、そうやって母の機嫌を取ってきた。だから父の気持ちが少しはわかるけど、それを分かち合い、一緒に母の機嫌を取るというのが、とてもしんどいのだ。わたしにとっても母は大切な人なのに、しんどいのだ。

そうか、わたしも無意味な時間旅行にとらわれているのか。あの頃のしんどさが今でも脳裏に焼き付いて、身体を苦しくさせているのかもしれない。

どうしたら、この無意味なループから抜けられるのだろう。そもそも、母は、過去を恨み憎む思考から逃れたいと思っているのだろうか。

タイムマシンに乗って過去に戻って、あの時やらなかったことをやって、言えなかったことを言ったら、母は晴れやかで清々しい表情をして笑ってくれるだろうか。いつかそんな顔を見たいと願い続けていたけれど、最後まで叶わないのかな。

諦めた方がいいのかもしれないけれど、叶えられるようにわたしにできることを考えてみたいと思う。



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