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【エッセイ】親の愛は、ときに悲しい

築20年ほどの家が取り壊されている。今日も、数軒離れた現場から時折地響きが。どうしてもそこを通らないとならないのだけれど、何とも言えない気持ちになる。

建築が始まったころ。その家(仮にMさん宅としておく)はご夫婦で住まわれるようで挨拶に来られた。「少しうるさくなると思いますが…」と話す奥さまはわたしの両親よりも少し若いくらい、それでももう還暦は過ぎているだろうお歳。ふたりで住むにしては大きな土台で驚いたのを覚えている。

数か月後に完成した家は、数台の駐車スペースと、玄関横にもう一つ独立した入り口がありスロープが設置されていた。「もしかしたら高齢の親御さんの引き取りかしら?」と思うようなつくり。でも、そうではなく “親の愛” だったのだ。

「建築中はうるさかったでしょう、ご迷惑をおかけしました。これからよろしくお願いしますね、息子もそのうちこちらで開業すると思いますので」と本当に嬉しそうに話すM奥さま。
聞くと、整体師として働きはじめた息子さんの独立のために家の一部を造ったそう。ゆくゆく結婚した際には家族でここに住めるようにも考えてあるのよ、と。話を聞いたとき、母も一緒にいたのだがそれはもう感動していた。数日たっても数年たっても「そこまでしてくれるなんて本当に息子さんは幸せねぇ」なんて言っていた。

でも、わたしは最初から違和感しかなかったのだ。え、こんな住宅街で開業してどうにかなるものなの?というのがひとつ。そして、就職してすぐなのに“独立”って本当に本人が考えているのか?さらに結婚後のことまで??と。違和感というよりは怖さに近い感情だった。わたし自身が親に介入され過ぎて苦しくて、余計にそう感じたのかも知れない。だが、親世代には美談でしかないようだった。

「こんな立派な家を建ててもらったのに息子さんは親不孝だ」とわたしの母が言いだしたころ、Mご主人は病気で長く入院したのちに亡くなった。M奥さまはひとり暮らしを数年前から続けていたが、顔を合わすと「嫁が自分の地元に住みたいってわがまま言うのよ」と愚痴をこぼすようになり、次第に「孫の学校のこともあるからね…」なんて言うようになっていった。その間も息子さんの姿を見かけることはなかった。

半年ほど前だったろうか。
そういえば最近Mさんを見かけないな、と思っていたら一人の男性がMさん宅に入っていくのを見た。息子さんだろうか、同居を始めるのだろうか?そしてさらに数日後、今度はその男性と業者らしき数人とガレージで話していた。聞くともなしに聞こえてきたのは、Mさんはもうこの家には戻ってこれないということ。息子さんらしき男性のものすごい笑顔が頭にこびりついてしまった。

そして今、その家は解体作業が続いている。

そうか、Mご夫妻の夢はひとつも叶わなかったのか。そしてやはり、その夢は息子さんの夢でもなんでもなかったのだ。子のためを思うあまりの親の愛だ。息子さんにとってはさぞ重いものだっただろう。親の愛、わたしも親となって理解できる部分はある。けれどその愛はひとつ間違えると、こんなふうに時に悲しい。

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