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美術展回想録② 合田ノブヨ 個展 ‘Sleep Talking’(2019.11.02 ~ 2019.11.22)

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どこへでも気楽に足を運ぶことが難しい今。こんな時は、おとなしく自室にこもりながら、懐かしく美しい過去を記憶という宝箱から掘り起こして眺めるに限る。そんなわけで、ひとまず2019年に足を運んだ展覧会のレビューを、noteの方にゆるりとまとめておこうと思う。

美術展レビュー第二弾は、2019年11月16日に足を運んだコラージュ作家 合田ノブヨさんの展覧会‘Sleep Talking’

第一弾はこちら  https://note.com/_yominokuni_/n/n640939675297

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コラージュの祭典なのかと思うほど、2019年は日本国内でコラージュ作家の展覧会が数多く設けられた印象がある。

岡上淑子にジョゼフ・コーネル、山下陽子、M!DOR!、そして合田ノブヨ(敬称略)。中には私が行くことは叶わなかったものもあるけれど、把握できているものだけで少なくとも5件以上の展覧会が開催されている。

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2019年3月には旧朝香宮邸・東京都庭園美術館で開催された岡上淑子「沈黙の奇蹟」展へ。このあとGallerie Librairie 6(シス書店)へ寄り、合田さんの個展があると知る。この年はコラージュの展覧会が豊作であったように思う。

それぞれの作家の作品を数多く目にする機会に恵まれたこともあり、作品の特徴が自分なりにではあるがすこしずつわかるようになってきたような気もする。

合田ノブヨさん(以下敬称略)の作品を直に鑑賞できたのは今回の個展‘Sleep Talking’が初めてだったが、今回彼女の作品を観て感じたのは、「境界」の扱い方が非常に特徴的だということだった。

コラージュは、2つ以上の異なる素材同士を繋げて一つの作品を作るものである。素材の色や形、大きさ、そして組み合わせによって斬新な調和も生まれれば対比的な効果も生まれる。

ただし、異なる素材同時を組み合わせるという性質上、そこには程度の差はあれど「違和感」「差異」が生じることになる。

この偶然の出会いによりもたらされる違和感や差異を、私たちはこれまで「デペイズマン」と呼び、ミシンとコウモリ傘、青空と裸の女、というように、異なる世界と世界とが出会うような「驚異」を言祝いできた。

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マン・レイ『解剖台の上でミシンとこうもり傘が偶然出会ったように美しい』(1933)。ロートレアモンことイシドール・デュカスの詩の一節をタイトルへ引用していることは、「シュルレアリスム」の名に手垢がついてしまった現在ではあまりにも有名…。

しかし、それは繊細な者たちにとってし時に「脅威」となり得る。

合田ノブヨの作品たちは、この繊細ですこし驚きやすい者たちに、いくらか安心して幻想の世界を夢見ることを許容してくれるのかもしれない

彼女の作品から受け取れるものは、異なる色や形の素材をがちゃり、と組み合わせて効果を生み出すものとは対照的である。たとえば異なる素材同士を貼り合わせたあと、彼女の絵筆によってそれらは見事な調和をとげており、その輪郭は、まるでプリズムの光やオーロラを思わせるように融け合わさっている。蝶や真珠のような粒、結晶といった素材、淡い色彩、類似する素材を繰り返して画面の中に用いることで心地よい法則が生まれている。

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訪れた個展会場Gallerie Librairie 6(シス書店)にて買い求めたポストカード。個展は大盛況で、グッズも人気のためほとんど売り切れていたが、市川実和子訳『ミネハハ』の表紙絵になった作品のポストカードをお迎えすることができた。映画版のラストのように水が勢いよく吹き出す(ラストの情景、少年という存在と出会い、少女が噴水からほとばしり出る水に手を添える様子をみると、どうしてもフロイト的解釈をしてしまう…)ものでなく、「受け皿」のようなかたちの噴水から水があふれ出て滴り落ちる様子が、切なくて美しいと思う。

小さなオブジェを好むところを見ると、コーネルの名が咄嗟に思い出されるかもしれないが、やはり彼の作品と合田の作品との間は決定的に異なるものがあると私は思う。

一体何が異なるか。それはおそらく、作品が完全にかっちりと自閉しているか否かという違いだろう。

コーネルが、その箱を用いて、完全に私たち鑑賞者の世界と断絶し隔てられた世界でオブジェたちと暮らしたのとは対照的に、合田の作品は、ーもちろん額装という形では作品と私たちを区切ることにはなっているけれどー絵筆と紙の素材とが、すばらしい均衡で薄い絹のヴェールさながらに重なり合っている。

そのヴェールの、「ほんのすこしだけ向こう側」には、すこし すましていたり、はにかみながら微笑んでいたり、眠りにつきそうであったりする、うつくしい少年や少女たちが佇んでいる。

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個展‘Sleep Talking’の看板。シス書店にて撮影したものの、焦点がぼやけてしまいました…。公式HPにある過去の展覧会の告知ページに、全体画像が載っていました。(是非告知ページをご覧ください…!)

意味の世界にとらわれ、「脅威」に対して強がることを覚えてしまった私たちにも、それ以前には幼少時の甘い記憶がある。そうした記憶を想い出し、すこしだけそこに浸ることを許してくれそうな作品たちである。

また、新しく作られたという立体オブジェを観ても、鑑賞者との距離はとても近いことは明らかである。小さな土台の他には私たちと作品を隔てるものは何もない。まさに、目の前に小さな妖精(※)たちが舞い降りて、合田ノブヨの織りなす幻想の世界へと、私たちを「招待」してくれているようである。それは、アカデミックな領域で踏ん反り返った「アート」とはおそろしく対照的で、人々に寄り添い、幸せな気持ちにさせてくれる。

さらに、新作の蜜蝋を用いた画でも、確かに蜜蝋という素材の特性上 表面はかっちりと結晶しているものの、その下から透ける蝶や少女の皮膚の色合いは「かすりガラスのような柔らかさ」を放っている。また蝋は他の素材と比較すると脆く、また強い光や高温では溶けて変形してしまいやすいものでもある。その脆さとうつろいやすさは、夜に観る夢の儚さを思わせるし、特に何層にも重なった蜜蝋の中に蝶が浮いているところをみると、胡蝶の夢のような変身 生成変化や、荘子である世界と蝶である世界との緩やかなつながりと切り替わりとを眺めているような気分にもなる。 

作品と人とをきびしく断絶する柵や壁、仕切りはいくらかここでは和らげられている。薄く透ける柔らかなヴェールの重なりは、私たち鑑賞者に「あちら」の世界を夢観ること、漂い出すことを誘ってさえいるのだった。


(※)「妖精」という表記について、有難いことに感想を観てくださった作者より「妖精」でないとのご指摘をいただきました。以下、補足。

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合田ノブヨさんの作品との出会いは、文庫本との出会いがきっかけ。合田さんの手がけた表紙絵の本は我が家に何冊かありますが、どれも本そのものが美術品のようで宝物。にっこり微笑むのではなく、伏し目がちだったり、目線の先を警戒するような眼差しの少女たちがすきです。シャーリィ・ジャクスンの物語に出てくる少女たちの、弱者ゆえの意地汚さ(褒めてます)や強かさ、にじり寄ってくる外の世界への拒絶の態度がまたたまりません。個人的に元気をもらえます。

あくまで羽の生えた「妖精」ではないとのこと。私が「妖精」と見做した「女性」や「子供」たち、あるいはその中間に位置する「少女」という曖昧な存在たち。彼らには(「人間」(man)という定義に対しての)「否定性」に近いようなものを共通項として読み取っていたのかもしれない。小さな子供や女性、少女の図像に対して「妖精」という言葉、そしてその裏にある(人間に対するところの)否定性のレッテルを安易に押し付け、たとえばジェンダーロールの再生産を助長する見解のようにも思える。けれども同時に、その否定とは、地上にのたうちまわる我々人間の「こちら側」の世界に対しての主体的な「否定」(non)でもある。こちら側の世界へ参画することの、静謐な、しかしたしかな拒否。それはタブローの「あちら側」の世界へ常に憧れる者(たとえばそれは私自身)にとっては眩いばかりの美しさとして映るのだ。


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