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[idea] 表現

全ての人が表現をしている

当たり前のことだが、「表現」は決して芸術家に特権的なものではなくて、誰もがしていること、して良いことである。

私は人類がこれまで生きてきたこと、現代人が今を生きていることは個々の「表現」の集積に他ならないと思っている。

芸術家の表現と、表現が専門でない人の表現(=大部分の人類の生)の違いとは

では、芸術家が表現のプロであるとしたら、そのプロフェッショナリズムは芸術家を名乗らない・名乗らなかった多くの表現者=人類のほとんどと何が違うのだろうか。そのことを掘り下げていく必要がある。

注)以下はあくまでも八幡亜樹という作家の表現について書いており、他の作家には当てはまらないこともあるだろう.

私はこれまでの自身の作品を振り返ってはっきりと気づいたことがある。それは「表現を専門としない一般の人の表現」を引き出し、ホワイトキューブ(あるいは映像上)に構成していくことで作品にしてきたということだ。初期の作品は確かに役者などの表現のプロの力を借りて作品にしていたこともあるが、最近はもうほとんど、表現を専門にしてはいない人に作品の構成要素の大部分の表現を担っていただいている。

では、現代美術家をアイデンティティにしている私の表現は、表現を専門としない一般の人の表現とどのような違いがあるのだろうか

大きな違いは言うまでもなく「作品」をつくろうとしているかどうかだろう。では、作品を作ろうとするときの「表現」と、そうでないときの表現は何が違っているのかということに、根源的な差異が見出せるのかもしれない。以下に列挙してみる。(”表現しているが芸術家ではない人”の具体例として「病院で症状を訴える患者さん」「お客さんを喜ばせたいスタバの店員さん」「老後の庭仕事を楽しんでいる老夫婦」などを想像して比較してみた。これは比較をわかりやすくするためであって、究極のところこの世に生まれた時点で「表現している」ともいえると思っている。)

①表現のコンセプトの徹底化とリサーチがあるかどうか(社会的な問題意識含む)

②「観客の視点」を想定してるかどうか

③芸術に特異的な命題を持っているかどうか(扱うメディウムの意味など)

④表現をパッケージングしていくという思考過程があるかどうか(ホワイトキューブを想定する、要素の構成を考える)

⑤本来なら隣り合わない、結びつかないものを結び付けようとするかどうか

⑥自分以外の他者の表現について、「表現」としての分析的な視点があるかどうか

⑦自分の表現が「芸術」だという自覚があり、そこに責任を持とうとしているかどうか

⑧利他的な要素を持っているか (←これはスタバの店員さんなどサービス業にも当てはまるので差異とするのは難しい。しかしここに関しては、他の職種との差異がないからこそ、社会的意味をなすとも言える。)

以上のようなことが考えられる。


なぜこのような差異を明文化する必要性を感じたかといえば、現在取り組んでいる新作において、あまりにも協力者の立場や考えに配慮する必要がありすぎるために、なかなか作品を構成していくことが難しいことになっているからだ。このままでは「協力者の表現の陳列」になってしまう危険性を感じた。陳列ではダメで、なぜ「作品」にする必要があるのか。そこを今一度考えたかった。そしてそのことは、自身の作品に通底している重要な文化的かつ社会的意義だと思うのだ。つまり①〜⑧を実践することにこそ、私が芸術家である意味があるとひとまずは言えるかもしれない。


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