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白河夜船

22歳の秋、私は2年の外国暮らしを経てまた大学生になった。2年の間に、大学の図書館はガラッと姿を変え、花壇のデザインも大きく変わった。北側の食堂はもぬけの殻になった。400円の油淋鶏定食がとても美味しかったので残念だ。
頬杖をつきながら、授業の資料が映し出されているモニターのほうに目をやる。そのうしろに窓越しに見えるキャンパス内の木々が、秋らしい色に染まり始めている。黄色、橙色、まだ残る緑。彼と過ごした3年間の大学生活が蘇る。

長年付き合っていた恋人と、この上なくあっけない一生のお別れをした。それでもわたしは日々を淡々と過ごしている。変わったことといえば、たまに彼がわたしの友達と付き合う悪夢をみて、いつにも増して食いしばりをしたり、休みの日は死んだように眠り続けてしまうことくらい。
案外食欲が無くなることもなく、自暴自棄になることもなく、悲しみで夜眠れなくなることも、授業に集中できなくなることもなく、日々は淡々と過ぎていく。秋はお構いなしにやってくる。私は平気で生きている。それがすごく誇らしくて、同時に消えてしまいたくなるほど強く悲しい。わたしはいつの間にこんなにも大丈夫になっていたのか、世界一大切だったはずのその人がいない世界で。

帰り道の地下鉄ではレディオヘッドの『No surprises』だけを聴いて、わざと浮かない顔をして、泥の底に沈んでいくような気持ちでいた。そんなときでもひとつだけ確かな感覚がある。こんなにも悲しい日を過ごすこと自体が、わたしの喜びなのだ。ひととのしがらみの中で、愛や信頼の末に行き着く悲しみは、たまに突発的に吹く秋風のように爽快で気持ちがいい。天性のドMなのかもしれない。
秋が嬉しい。悲しみが愛しい。秋のにおいをかぎわけたくて、衝動的に深呼吸をする。ひんやりとした空気が肺にはいって気持ちがいい。背筋がぴしっとなる。こんなふうに、別れを悲しめる私がわたしで本当によかった。誰かを信じて傷心することの何がかっこ悪い。わたしが外国で放浪していたたったの二年の間に、きちんと無関心になれる彼が彼らしくて悔しい。一生枯れない加工のされた青い薔薇の花束は、今もわたしの部屋にある。

お別れしたはいいけど、わたしが置いてきたベースとお気に入りの革靴は返してもらえるのだろうか。せっかくあんなに綺麗な終わりを遂げたのに「そういえば、ベースと革靴は返して」なんていうエゴな一言を付け加えてしまったら、わたしが監督した美しいお別れのシナリオが台無しになる。でも、なけなしのバイト代で買ったたったひとつのベースと、高校生の時に背伸びして買ったそこそこ高い革靴だ。ぜったいに返してもらおう。

特急が停まらない最寄駅に着く頃には、カラッとした気分になっていた。窓を流れていく景色や電車内の人の入れ替わりが、わたしのどんよりとした心の中を換気してくれたのだ。改札を出て階段を降りる。空の一番深そうなくぼみに向かって、できるだけ遠くに心を飛ばす。お気に入りのジーンズの重さを感じながら、スタスタ歩いて行く。その清々しい青が、わたしの気分をこの世界に表現してくれているよう。
わたしはよく嘘をつく。信じさせた負い目のなかを酸欠になりながら生きている。誰かを信じることは、パン屑くらい小さな命のかけらを相手にそっと預けることだ。そんなパン屑は帰ってこなくても、見失ってもいいという覚悟で預けた。彼は約束を破るみたいに私のお気に入りの愛まで破って去って行った。間違えて友達のお母さんに抱きついてしまったあとのような情けなさと恥ずかしさを感じているのはどうしてだろう。背の高いすすきが手付かずの畑に生い茂っている。西陽を反射したその黄金色のひかりのなかに、赤とんぼが浮いている。あんなに素早く飛べるくせに、疲れたのか、空気中をただ浮いている。とんぼも魚も似ている。泳いで泳いで泳ぎ疲れたらまぬけな顔をしてただぷかぷか浮いている。感情がグッと密度を上げる。ガス抜きをするように涙をこぼしていく。ふと懐かしい香りがして嬉しくなる。それは涙と鼻水のにおいを上書きするように力強く甘い、金木犀の香りだった。

秋は楽しそうに枯れ葉でビートを刻む。満月は出番を待って、やさしくキュートに息をひそめている。

この悲しみはわたしのマスターピースで、それは時に強さや弱さとなってわたしを輝かせるだろう。

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