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『普通の人でいいのに!』主人公よりも私に似ているかもしれない人のこと

『普通の人でいいのに!』

読み終わった人には主人公が自分と重なる人とそうじゃない人がいて、そうじゃない人の方はどちらかというと主人公に不快感を抱いてる人が多いようす、最初は私もどちらかというと主人公に抵抗があるなあという感想だった。

こじらせ系と言えば聞こえはいいけれど(よくはないけれど)、これまでにあったこじらせ先駆作品に比べても主人公は他者にリスペクトがないように思えて、彼氏だけでなく全方向的に無意識に他人を軽んじていて、やだなあ。というような感想を持って終了していた。

それで、特に刺さらなかったなら、その感想を持ってこの漫画のことは忘れてもおかしくないんだけど、なんとなく最近はいつも頭のどこかにこの漫画のことがあって、もやもやしたかなしみとかいきどおりのようなものを感じていた。

昨日、人とこの漫画のことを話す機会があって、改めてこの漫画のことを考えた。私は上記のような感想を持ちました~と伝えて、相手の人は私は主人公の感じに心当たりがあって辛い気持ちになったよ~と言っていた。その人は素敵な人だから結構意外で、それで会話は終わったんだけど、その後お風呂とかでもまたぼんやり考えてて、その時、何で私は主人公にここまで抵抗があるんだろう?ということをはじめて考えた。

どうしてこの主人公は自分だ、と私は思わなかったんだろう、私はサブカルぽい人たちに憧れるところはあるけどそうはなれてない自覚があって、でも自意識過剰な趣味人を自覚しているので近いところはないわけじゃないと思う。この主人公にも共感するところがないわけではなく、改めて考えてみればどちらかというとわかる気持ちの方が多いくらいだ。

自分の思う素敵な人になりたくてなれないという気持ち、素敵なコミュニティに属したいという思い、イケてない自分を見透かされた時の泣きたいような気持ち、いいなあと思う世界の住人にはなれない自分を時々冷静に見つめようとして、自分なりの手の届く幸せに満足しようと葛藤する気持ち、それでも色んなものが空回ってうまくやれない辛さ……

思い直してみたら、もっと主人公に感情移入して、これは私だ!となってもおかしくないような気がしてきて、それなのにどうして私はこの主人公にここまで抵抗があるんだろう?それでそのままずっとぼーっと漫画の内容を思い返していたら、あれ?もしかして、と思い当たったことがひとつあった。

主人公よりももっと自分に似ている登場人物がいたからではないか?
性別が違うからか今までまったく気づかなかったけれど、私はあの眼鏡の彼氏に似ているかもしれない。あの漫画の中で、主人公に軽んじられ続けた、現実の普通を突きつけるためにつくられたかのようなあのイケてない彼氏に、私は主人公よりも先に無意識に自分を重ねていたのではないか。私が今日漫画のことを話した相手の人は、主人公について、心当たりがあって辛いと言っていた。私は彼氏の行動や扱われ方に心当たりがあった。

彼氏は主人公と違って文化的素養が無い。更に悪いことにはそれが無いことに対してほとんど反省を持っていない。素敵だなと思う異性と仲良くなりたくて、自分なりにここがいいんじゃないかと思うお店にその人を誘うけれど、その選択も会話も振る舞いも一貫してどこか的外れだ。素敵だなと思っているその女性の話している内容がほとんどわからないし、それ以外のああわかった!と思った会話だって、本当はちょっとずれた理解の仕方をしている(「ああ~、体育会系が苦手なんスね」)。それで相手ががっかりしたり、うんざりしたりしていても、彼はその事実に気づけない。チャレンジングな場所や事柄にアクセスすることに抵抗を示す。悪い人ではない、というところだけが唯一の美点として挙げられ、デート後、陰でうっすらと馬鹿にされている。

彼のことを書き出せば書き出すだけ私には心当たりがあるような気がしてくる。時々自分でも悲しくなる薄っぺらな自分のこと。それでも私の現実はそれなりに楽しい。なぜなら現実では相手が私のことをどう思っているかは究極私にはわからないからである。内心馬鹿にされていても、軽んじられていても、どうでもいい人間だと思われていても、もしかしてそう思われている?と感じることはあっても、本当のところはわからない。

でも漫画だとそれが目に見えてしまう。

悪くない物件として滑り止め的に値踏みされながらも、魅力は決定的に欠けていて、尊敬して好きになれるような相手では決してないと罪悪感無く軽んじられ続けている。従順、社会性、事なかれ、40までに結婚、温厚、真面目、子供は欲しい…、ぼんやりとした害のないアイデンティティはタグ付け的にあげつらわれて、全人的にうっすら見下されている。好きな相手を再度のデートに誘ったって、相手からは適当な服で会っていい相手だと思われているし、その人には本当は他に好きな人がいて、自分とのカラオケデートなんて当日も翌日も全く思い返しもされない。その好きな人とやっと恋人同士になれても、その相手は自分のこと本当は好きでもなんでもなくて、人生について「私だけ何も持ってない」と思っている。ベッドの中でさえ、「やっぱこういうの彼女が喜ぶと思ってやってんのかな?」「でもこれが幸せなんだよね?」と冷めた目で見下げられている。どうでもいい相手だからこその気楽さだけを、恋人から評価されている。自分ではうまくいっているつもりでも、恋人からは「あははは…じゃあ交換する?」と陰で言われている。その発言を恋人が後悔する時、それは自分への罪悪感からではなく、他の友だちとの関係を損なうという観点からである。徹底して主人公は彼を軽んじていい相手、どうでもいい人間に分類している。

確かに彼は無趣味で深みがない。知らない事柄について自ら知ろうとする意欲もないし、保守的でつまらない人間だと言われてもしょうがないとは思う。

でもつまらない人間であるということは、本当にここまで一貫して軽んじられなければならない程のことなのか?つまらない人間であるということは、好きな相手にここまで馬鹿にされ続けてもしょうがないほどの罪悪なのか?
自分なりに善良に生きているつもりでも、迷惑をかけないようにしているつもりでも、もしかして周囲の人からは私こう思われているの?そして、そう思われてもしょうがないほど私はダメな人間なの?

 『いい子にしてれば どっかで帳尻あわせてくれるって』
これは主人公の最後の独白の一部で、この後は、あわせてくれるんじゃないのかよ!違うのかよ!そりゃそーか!と続くのだけど、『』の中身って、事なかれ主義の彼氏ももしかして無意識に人生に期待していることじゃないか。(帳尻なんか本当は誰も合わせてくれないけれど)
彼氏と主人公には全くと言っていいほど共通点がないけれど、逸脱しなければきっといつか何か報われるように人生はできているのでは?というぼんやりとした期待だけは共有していたのではないか。でもこの感覚を共有しているはずの主人公が、たいして悪いことはしていない彼氏の、背景や苦労を思いやって少しでも尊重してくれることはついに無かった。

無意識に彼に自分を重ねている私は、そういうことすべてに傷ついて、この主人公に強い抵抗を覚えたのではないか。

確かに彼にも悪いところは結構あって、例えば主人公が彼をマナミちゃんのライブに誘うところは数少ない主人公の歩み寄り(友だちのライブに一応顔を出したい、イケてなかろうが彼氏を伴って行くのも悪くない、という動機だとしても)の一つだと思うけれど、タイバン?と言って吹き出すシーンなんかは本当によくないなあと思う。自分の優位性を保ったままアウェーな場所に行かないで済ませたいから無意識に馬鹿にしてしまうという、最悪のムーブだよね。

変なプライドと無知ゆえに恋人の大事にしている価値観をその後も挑発し(「いい趣味じゃん」ポンポン)、ついに二人の関係は終わる。でも何がいけなかったのか、きっと彼には理解できない。理解できないだけじゃなくて、きっと的外れなことを思い返して、あれがいけなかったのかな、これがいけなかったのかなって、答えは一生分からないままオロオロ考え続けるんじゃないかな。私にはそれが辛い。ウラジオストクに飛んだ主人公は大きな悲しみのさなかにいるが、その悲しみは彼を失ったことには全く由来しない。旅路で彼の顔を思い出すことすらない。



インターネットの皆が普通の人でいいのに!を読んで色んな感想を持っていた頃、私は彼氏と自分を重ねて勝手に傷ついていたのかもしれないな、という話でした。 
それに気づいてからはなぜこの漫画が心に引っかかったままになっていたのかわかったような気がして、少しすっきりしたのでここに書いておきます。

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