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[小説] 記し #9

 沖田と共に、視聴覚室へと向かう。先ほどから感じる沖田への違和感。出会ったときから、かすかな違和感はあった。初めは十年という月日のせいなのだと思った。他人行儀な会話にしても、礼儀をわきまえている、といえば、納得するレベルだし、やたらと緊張しているのも、知らない人間に囲まれた場所だと言われてしまえばそれまでだ。だけど、彼女なりの決意があって置いてったものを、ああもきれいに忘れられるものだろうか。

 俺は隣を歩く沖田に視線をやった。病的に白い横顔は高校の面影など残してはいなかった。浅黒い肌で、野太い声を出し、テニスコートを走り回っていたなんて、今、彼女の周りにいる人間が聞いても想像できないのではないだろうか。無意識に、クスリと口から音が漏れた。見ていたことを気取られないように俺は前を向き直す。

 しかし、違和感があるからといって何か不都合があるか、と言われると何もないのも事実だ。目の前の彼女が沖田都であることに間違いはない。俺が勝手に親しかったと勘違いして、過去の出来事を覚えていることが当然だと思っているだけで、十年も時が経ってしまえば、こんなものなのかもしれない。
 さみしいものだな、と思う。生徒たちは、あっという間に卒業する。思い入れのある生徒でも、卒業してしまえば、ほとんど会うことはなくなる。そして、沖田のように、古い記憶の箱にしまわれる。ただの母校の教師、目の前の沖田にとって、俺はその程度の存在なのだろう。
 「先生の部活は、今日はお休みなんですか?」
沈黙が気まずいのか、視聴覚室へと向かう階段で沖田が問いかけてきた。
「ああ、今日は、休みにした。沖田のありがたい話を聞くように言ってある」
そう答えると、沖田は嫌そうな表情を浮かべて、釘を刺しに来た。
「お話を受けておいてなんですけど、私の話なんて毒にも薬にもならないと思いますよ」
謙遜している風でもなく、ただ淡々と事実を口にするかのように無表情で答える。こういう言葉の選び方は沖田だな、と思う。人の性格なんて、そう変わるものではない。変わったのは、俺への対峙の仕方だけだ。俺は苦笑気味に答えた。
「なんで?俺は、すごいなって思ったよ。お前の話、聞いたとき。正直、期待以上だったし、今も期待してる。今日はよろしくな」
俺が、そう言うと沖田は照れたように肩をすくめてそっぽを向いた。こいつの過小評価はいつものことだ。なんでもできて、なんでも持っているのに、本人は何一つ持ってないと思っている。そんなに背負い込まなくてもいいと思うのだが、何が沖田をそうさせるのか、生徒だったころから理解できない。

 視聴覚室へ続く階段を上ると、上の階から合唱部の合唱が聞こえてくる。聞き覚えのある旋律だ。何の曲だっただろうか。俺が悩んでいると、俺の心の中を見透かしたように沖田が言った。
「虹、ですね。懐かしい」
聞けば、沖田が一年だったときの学内の合唱コンクールの課題曲だったらしい。合唱コンクールの候補曲は、毎年大きくは変わらない。だから、聞き覚えがあるのか、と納得する。バスの旋律を口ずさめるということは、俺も、歌ったことがあるのだろう。そういえば、と思う。
「お前、三年の合唱コンクールの時、ひどい顔してたの覚えてるか?」
 結果に感動して泣きじゃくって、ひどい顔だったというわけではない。三年次、沖田のクラスは金賞をとって、俺らのクラスは銀賞だったが、こいつは、そんなことでは泣かない。むしろ、感動して泣く合唱コンクール委員を、なんとも言えない冷たい表情で見つめていたのを目撃した記憶がある。その視線の冷たさが衝撃的過ぎて、俺は今でもあの時の沖田の横顔を覚えている。学校に戻ったとき、「ひどい顔してたぞ」と声を掛けると沖田は、にっこりと微笑んで「気のせいじゃないですか」と言い放った。今思えば、当時から、ごまかしたいことがあるときほど、きれいに笑うやつだった。
 当時の合唱コンクール、クラス内のいざこざに一番振り回されたのは沖田だったらしい。合唱コンクールに到達するまでの練習の中で、沖田のクラスでは女生徒と男子生徒の間に衝突が生じていたそうだ。そして、それを仲裁したのが沖田だと聞いた。俺自身、合唱コンクール委員の依田が泣きながら、教室から出てくるのを見たことがある。翌日、「男子が女子を泣かせたらしいですね」と沖田に声を掛けると、沖田は溜息をついて、「小学生みたいですよね」と、呆れたようにそう言った。「泣く方も泣く方ですよ。世の中、思い通りに行くことばかりだったんでしょうね」と言葉を続けた沖田の表情は冷めきっていた。あの時、初めて沖田の本当の表情を目にした気がする。決して本音を語らず、上手く世を渡っていく沖田が、初めて見せた優等生以外の顔。でも、それも、ほんの一瞬で、次の瞬間には、「もっと上手くやればいいのに。そう思いません?」と、いつもの笑顔を俺に向けていた。「ずいぶん、貧乏くじを引かされたみたいだな」と労うと、本当ですよと言わんばかりに沖田は肩をすくめて笑っていたことを覚えている。
 そんな俺の記憶とは裏腹に、沖田は
「そんなこと、ありました?」
と、首をかしげるだけだった。俺はおとなしく押し黙る。
 視聴覚室に到着する。俺は講演の準備を始めた。沖田もそれに倣う。手際の良さは相変わらずだ。

 そうして、講演は始まった。参加者は生徒七十名強。教員が十名といったところだ。意外と教員が集まったな、と思いながら教室を見渡す。沖田は、多少、緊張しているようだった。
 それでも、流石、というべきか、自己紹介から抑揚をつけたプレゼンテーションを見せつけてくれた。
 そして、無事に沖田の講演は終わりを迎える。拍手は鳴りやまなかった。いくつかの質問に、はにかみながら沖田が答える。それが、本心かどうかは俺には判断がつかないが、少なくとも、聴講者には評判がいいようで、拍手の音は次第に大きくなっていった。

―――「お疲れさま」
俺と沖田以外が退出した視聴覚室で、俺は、沖田に声を掛けた。
「面白くないくらいに、流石だな」
「ありがとうございます」
沖田はひねくれた賛辞に、素直にお礼を言った。沖田に対する小さな違和感は、その素直さすら、俺に歪さを感じさせる。
 目の前の沖田は、本当に彼女なのだろうか。
 そんな、非現実的な思考に至った時だった。意を決したように、沖田が口を開いた。
「思ってるんでしょう。沖田都じゃないみたいだって」
俺の気持ちを察してか、沖田都はそう言った。

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