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[小説] 記し #7

 一番後ろの席、問題を解いているはずの時間に、ぼーっとしている生徒が一人。視線を感じたのか、不意にこちらを向いた拍子に目が合う。その瞬間、懐かしさが込み上げた。授業中、あいつと目が合うことは多かった。ゼスチャーを交えて、できたか問うてみる。鉛筆を握ってすらいないのだから、できていないのは分かり切っている。沖田は、にっこりと微笑みながら、首をかしげている。

 十五分ほどたって、生徒の解答を見て回る。まずは、急に授業見学を願い出てきた問題児だ。案の定、答案用紙は白紙である。持っていたプリントで頭を軽くはたいて、答案用紙のど真ん中に「Hurry up!」と書いたポストイットを貼ってやった。沖田は、眉間にしわを寄せている。右手の人差し指がポストイットの文字をなぞるように机の端で動く。俺の字は汚い。昔からそうだ。テストのたびに、答案にコメントをつけて返却していたが、生徒に読めないと文句を言われたこともしばしばだった。何と書いてあるか読めずに、沖田に恥ずかしいコメントを音読させられたこともある。誉め言葉しか書いていないと分かっていて聞きに来るのだから意地が悪い。「これ、日本語だったんですか。英語だと思ってました。」とニコニコと言ってきたときには思わず手が出そうになった。

 そんなことを思い出しながら、あることに気が付いた俺は、教卓に戻った。そして、再び沖田の方へ向かう。沖田の席の周りは空調の風が直接当たる。周りの女生徒たちは夏でもひざ掛けを常用している。寒いのか、沖田も指先をこすっている。「寒いんだったら、早く言えよ。」とは思ったが、口には出さない。渡そうと思っていて忘れていたものを少々、乱暴に手渡した。沖田は何か言いたげな表情を浮かべていたが、何も言わずに、一礼して、ひざ掛けを受け取った。丁寧な手つきで広げ、膝にかける。床につかないように用心深く端を織り上げる。そして、しばらくしても、立ち去らない俺の姿を見て、もう一度、頭を下げた。

 心を尽くしてやったものの、後ろの席の問題児は筆箱を開く素振りも見せない。沖田ばかりに構ってもいられないので、他の生徒も見て回る。下を向いて一心不乱に問題を解く生徒が多い中で、顔を上げて周囲を見渡している沖田は目立つ。そんなに教室を見回して何が楽しいのだろうか。それとも、本気で、講演内容について、生徒を見ながら思いを巡らせているのだろうか。昔は、そんな奴じゃなかった。いつだって、出たとこ勝負。逆境には滅法強くて、外部から講師が来るときにはよくあいつに無茶ぶりをしたものだ。無茶を、さらりとこなすあいつには、他の先生も一目置いていたし、沖田は大物になると誰も信じて疑わなかった。今の勤め先を聞く限り、大物であることは間違いないが、何となく物足りない気もする。俺の勝手な理想を押し付けているだけなのかもしれないが。

 予定の時間になるのを確認して、淡々と解説を始める。沖田は、この段になって、ようやく筆記用具を準備しだした。一応、解説を聞く気はあるらしい、と思っていたら、解説する俺の方を見向きもせずに問題を解き始めた。生徒を順番に当てていくので、その間に解こうと思えば解けるとは思うが、それなりのスピードで解かないと間に合わないはずだ。俺は少し、気分が高揚するのを感じた。あいつが生徒だったころのように。

 もう間もなく授業も終わる。問題の解説もあと一問を残すのみである。流石に教員生活も十年を超えると時間の使い方には慣れが出る。時間通りに授業を終わらすのは、教師として、重要なファクターである。「じゃあ、」と言った瞬間、沖田と目が合った。

「最後の問題。みや、ざき。」

教室内に笑いが起きた。宮崎はクラスの学級委員だが、宮崎を呼ぶにしては、おかしなアクセントになった。あと数分で授業を終わらせなければならないというのに、五十分以上の長い緊張感から解放されたためか笑いがしつこく続く。俺は心の中で溜息をついた。

「時間ないから、そのぐらいにしとけ。宮崎」

俺は、少々強引に授業を続ける。

「dです。」

少し難しいかとも思ったが、さすがによく勉強している。

「正解。よく勉強してありますね。」

と言ったところでチャイムが鳴った。課題を配って授業をたたむ。俺が話し終わるとともに、号令がかかる。俺は、沖田を盗み見る。沖田は何事もなかったようにお辞儀をしている。

 俺は、沖田が高校生だったころのことを思い出す。

 「名前で呼んでくれないんですか?」沖田がそうやって声を掛けてきたのは、二年の冬頃だった。職員室に向かう道中、たまたま沖田の担任と沖田のクラスメイトの西と、沖田と俺の四人が一緒になった。どうして、そんな話の流れになったのかは覚えていない。

 世間で一般的かどうかは知らないが、沖田の通っていた当時、この高校では教師が下の名前で生徒を呼ぶことがしばしばあった。少なくとも、俺は基本的にクラスの生徒のことは下の名前で呼んでいたし、沖田の担任にしても、生徒たちのことを下の名前で呼んでいた。しかし、他のクラスとなると話は別だ。英語の担当ともなれば毎日顔を合わせるが、自分のクラスの生徒とは微妙に距離感も違う。ただ、下の名前で呼びやすい奴というのは一定数いて、西のことは下の名前で呼んでいた。それに対して、西が不満を漏らしていたらしい。「なぜ私だけ、下の名前で呼ばれるのか。」と。釈明するなら、西だけ、ではなかったのだが、それを先輩教師である沖田の担任にからかわれたのだ。あの時の沖田の喜々とした顔は忘れられない。俺が困っているのを楽しそうに眺めていた。今、思い出しても小憎らしい。

 さらに間の悪いことに、沖田のクラスには、もう一人、「沖田」がいた。男子生徒だったのもあって、俺は彼のことを下の名前で呼んでいた。そのこともあり、沖田の担任には、「なぜ沖田のことは苗字で呼ぶのか」と、しつこく問いかけられた。「区別するのにややこしくないか」、と。「色々あるじゃないですか」と言ってはみたものの、二十代の若輩者の説得は沖田の担任には通じず、「悲しいよな、みや」と声を掛けられた沖田は、「そうなんですよ。悲しくて勉強が手に着かなくて。」などと適当なことを言っていたのを覚えている。それから、半年くらいかけて、沖田の呼び方を「みや」に変えたが、慣れるまで名前を呼ぶたびに、小憎らしく、にやにやとしていた沖田の顔は今でも忘れられない。

 今日の授業の最後、沖田と目があった瞬間、ほとんど無意識に沖田都の名を呼んだ。当の本人はピクリとも反応しなかった。沖田は俺の声に反応するどころか、笑いが起きた原因を察することもなく、外を眺めていた。本人が覚えていないと言うのであれば、当時の彼女にとっては、俺に対するただの嫌がらせ、もしくは暇つぶしでしかなかったのだろう。「最後の、気付いてたか?」と聞くのも、過去の出来事を一方的に覚えているようで腹立たしいので、授業の感想を聞くに留めた。

「どうだった?」

授業を終え、机を片付けようとしている沖田に俺は尋ねた。机は、そのまま置いておけばいいと伝えると「お言葉に甘えて」と、使用した机をそのままに、教室を出る。

 沖田は俺の質問に何と返すか考えているようだった。そんなに難しいことを聞いただろうかと思っていると、「先にこれ、返しておきます。」とひざ掛が差し出された。差し出されたそれは、両端がピシりときれいに揃えられている。申し訳ないが、少し意外だ。身の回りのことをきちんとするタイプではあったが、これほど几帳面だっただろうか。

 俺は、何となく沖田の指に視線をやった。ネイルをするでもなく、きれいに切り整えられた爪。特別華奢というわけでもないが、女性らしく丸みを帯びた手。この指先が綴る答案を採点をしていた。恐ろしく、緻密なそれは、俺の好奇心と探求心をくすぐった。

 視線に気が付いたのか、沖田は、俺に先ほどの授業のプリントを渡してきた。突然の行動に俺は面食らう。沖田は首を傾げた。

「プリント、見たいのかと思ったんですけど、違うんですか?」

その言葉に、俺は小さく驚く。昔は、目の前で解答を見られるのを嫌がっていた。当時は、というより今も、何が嫌なのかさっぱり分からないが、解答を見られたくない生徒というのは一定数いる。こちらからすれば、生徒の解答が合っていようがいまいが、あまり気にしない。難しい問題ができていれば、多少嬉しくはあるが、間違っていたとしても、丁寧に解説しようと思うぐらいのものだ。そもそも、全て正解できるなら、俺の存在は必要ないわけで、馬鹿にすることも否定することもしないのに、そういう態度を取られると人格を否定されたようで少し悲しくなる。特に、目の前の沖田には、何度拒否されたことか分からない。珍しいこともあるな、と思ったが、差し出されたものは素直に受け取っておく。

「私、文法嫌いですけど、今日の授業で聞いてた分は忘れなさそうです。」

廊下を歩きながら、沖田はそう言った。俺は、沖田の書き込んだプリントを眺める。こいつの可愛くないところは、嫌いと言いながらもほぼ正答しているところだ。しかし、変わらないなと思う。難しい問題を連続で正解しているのに、サービス問題で間違えている。なぜこんなところで間違えるのか。

「相変わらず、詰めが甘いというか、何というか。予想の斜め上を行くよな。」

こいつの解答を見ていると、なんだか自信を無くす。もっと基本的なところを叩きこんだ方がよかっただろうか。

 沖田は、何か言いたそうな顔をしている。言いたいことは大体わかる。昔なら、躊躇なく言っていただろう。こいつに英語を教えたのは俺だ。直接、言われるのも腹が立つが、言うかどうか迷って言葉を飲み込まれるのも、なんとも反応に困る。本当に大人しくなったものだ。

「しかし、今日の分は忘れないって言われると、初めて授業を受けたように聞こえるな。」

茶化すように言うと、沖田は罰の悪そうな顔をした。

「そんなことは言ってないじゃないですか。今の自分があるのは佐伯大先生のおかげだと思ってますよ。」

そうして、にっこりと微笑む。この前、電話した時から都合が悪くなるとすぐ、これだ。

「他にはないのか。生徒たち見てて思ったこととか。教室見回してただろ?」

教室と職員室の棟をつなぐ渡り廊下に差し掛かる。湿度の高い外気が、身体を取り囲み、不快度指数がぐっと上昇する。押し寄せてくる熱気に、一気に汗が噴き出す。沖田は中々口を開こうとはしない。渡り廊下が終わりに差し掛かって、ようやく、ゆっくりと口を開く。

「生徒たちが問題解くの遅いな、とか?」

俺は思わず振り返った。校舎に足を踏み入れた瞬間に体感気温が下がる。

 冬の日。凍てつくような渡り廊下。俺は沖田に愚痴をこぼした。あの日は、雪が降っていた。冬休みを目前に控えた十二月。どうして二人で歩いていたのかは覚えていない。「さようなら」と、お互いにあいさつしたのはいいが、行き先が同じで、沈黙の時間が続いた。なんとなく、気まずいと思っていたら、気付いた時には、愚痴をつぶやいていた。なぜ生徒たちは、あんなに問題を解くのが遅いのかと。生徒を馬鹿にしたつもりはない。どうすれば、生徒たちの解答の速さと、正答率が上がって、一人でも多くの生徒が志望校に合格できるかが、あの時の俺の課題だった。沖田は当時、ずば抜けて成績がよく、柄にもなく救いを求めたのだと思う。あの時、俺自身、受験生を持つのは初めてで疲弊もしていた。やればやるだけ伸びる沖田が羨ましかったのもある。だから、その秘訣を少しでもいいから聞いてみたかった。だけど、沖田は何か言葉を返すでもなく、俺の言ったセリフは、雪の空に吸い込まれた。そのあと、「教師が、こんなこと言ってたら、だめですね」と続けた俺に、沖田は「そうですね」とだけ返した。

 今の沖田なら俺に何と言うのだろうか。自分自身、何と言ってほしいのかは分からないが、ほんの少し、期待していた。しかし、俺の気持ちをよそに、沖田は、それ以上言葉をつなぐことはなく、寂しそうとも悲しそうともとれる微笑を浮かべているだけだった。

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