[小説] 記し #3
しばらく、背中を眺めていると、話を終えた彼は私のところに戻ってきた。振り向きざまに目が合いそうになってとっさに反らす。視線を反らした先の子どもたちは、思い思いに散っていく。その風景を眺めながら、少し緊張する。
「今、暇か?」
「ええ、今日の仕事は終えたので。」
彼は腕時計を確認し、少しだけ眉間に皺を寄せた。一般的な会社の定時からは程遠い時間だ。
「予定があって、午後から休暇なんです。」
彼が言いたいことは察しがついたので、私はにっこりと笑って見せた。
「その用事とやらは、いいのか?」
「もう済ませてます。」
そう告げた私に、彼は再び待つように伝え、場を離れた。しばらく待っていると、両手にコーヒーを持って帰ってくる。「ここ、離れられないから。」、そう言って右手を私の前に差し出す。お礼を言いながら受け取って、カップの中身を一口含む。予想していなかった甘さにむせそうになった。砂糖とミルクのたっぷり入ったコーヒー。私は彼の前で、甘い飲み物を飲んだことがあっただろうか。それとも彼の勝手なイメージなのか。
そんな私の様子を見て「ブラックがよかった?」と、彼が慌てたように自分のコーヒーとの交換を申し出た。私は、ミルクたっぷりのコーヒーを彼が飲んでいるところを想像し、首を横に振った。
「少し熱かっただけです。ありがたくいただきます。」
そういって、私は彼に笑いかけた。
さて、コーヒーを奢ってもらったわけだが、何を話せばいいのか分からない。私は手元のカップを見つめる。コーヒーを飲んでいる間は、話さなくてもよいと思うと、自然と甘いコーヒーを口に運ぶ回数は増えた。
「すっかり社会人だな。」
彼が、ぽつりと呟いた。高校を卒業してから十年である。もう、社会人生活も六年目だ。「そうですね。」と相槌を打った私に、今何をしているのかと彼は問うてくる。私は、肩にかけていたカバンから名刺入れを取り出した。名刺を手渡し、大学時代の活動や、現在の会社に勤めるまでの経緯を要約して話す。彼は、ときどき質問を挟みながら話を聞いていた。ありふれた光景だろう。久しぶりに出会った恩師と教え子。コーヒーを飲みながら近況報告をする。変わっていることと言ったら、おしゃれなカフェでも、居酒屋でもない、何のゆかりもない駅構内の立ち話であるということだけだ。
自身の個人情報を開示したところで、彼の近況についても聞いてみた。彼は、まだ私の母校で勤務しているらしい。そして、二年前、英語ディベート部なるものを立ち上げた。明日は、東京で大会があるらしい。時間があるなら見学に来ないかと誘われたが断った。よく知りもしない先生方と高校生に囲まれるのは避けたい。話を聞けば、彼は運営で忙しいようで、私に構う暇はないだろうということだった。
私は手元のコーヒーカップを弄びながら、彼に問う。
「どうして私がいたときは作らなかったんですか?」
再び口元に運んだカップからは、コーヒーのいい香りがする。香りに騙されることなく、これは甘い飲み物だと自分に言い聞かせながら舌に運ぶ。残りはもう少ない。
「作らなかったというか、やる気なかっただろ?」
疑問を疑問で返すのは失礼ではないだろうかとも思ったが、文句をつける勇気はない。
「持ち掛ければ、乗ってくれた子も多かったんじゃないですか?先生とそこそこ仲が良くて、英語が出来る子なんて山ほどいそうですけど。」
彼は苦笑した。何か変なことでも言っただろうか。
「そこで、自分も声を掛けられればやったのに、と言わないあたりが沖田だな。」
顔には出さなかったものの、私は、彼の言葉にムッとした。言葉の真意は分からなかったが、まるで私のことを知り尽くしているかのような言葉が気に食わなかった。それを知ってか知らずか彼は言葉を続ける。
「お前、思ってないことは絶対に口に出さないから。約束を違えたこともないしな。」
そうだっただろうか。今、簡単に振り返ってみても、結構いい加減に生きてきた気がする。なんとなく、その場のノリで、流されに流されて行きついた先が、現在なのだが、過大評価が過ぎはしまいか。私が反応に困っていると彼は、お構いなしに言葉を続けた。
「有言実行というか、無言実行というか、昔からかっこいい奴だったよ。」
変わってないな、と懐かしそうに言うから、私は彼から視線を外してうつむいた。恥ずかしい言葉をまっすぐに投げかけられると困る。
何と返すべきか悩んでいると、子どもたちとの約束の時間になったようだ。規律正しい生徒たちが、時間通りに集合しだすのを確認して、私はカップに残った最後の一口を飲み干した。
「Would you mind if I make a phone call?」
「Not at all. 」
私は、彼を正面に見据える。にこやかに私を見つめる彼の真意は読めない。電話番号なんて教えたところで、無駄になるだけのような気がするが、口に出してしまったものは引っ込めようもない。
「お互いの連絡先知らないですよね?」
「そうだな。」
私は、つい先ほど会話の中で渡した名刺を返してもらい、個人のアドレスと電話番号を書いて渡す。
「すみません、僕、名刺持ってなくて。」
彼は、おどけたような声を出す。
「いえ、お渡しさせていただくので、よろしければ、ご連絡ください。」
私は日々の業務で培った営業スマイルを彼に向けた。
私も彼も小さく笑った。集まりだした後ろの生徒たちはスマホを触りながら、時々笑い声をあげている。
「そろそろ行きます。ありがとうございました。」
私は、丁寧にお辞儀をして横浜方面のホームへ向かった。
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