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[小説] 記し #4

 まどろみから目を覚ます。正面に見える部屋の扉をただ見つめる。頭の中は、もやがかかったように、ぼうっとしていた。

 本を読みながら、うとうとしていたために変な姿勢で寝入ったらしい。首が痛い。痛みで頭が覚醒する。ゆっくりと天井の方に頭を向けて仰向けになった。そして、再び目を閉じる。

 どのくらい、そうしていただろう。ゆっくりと目を開けると首の痛みが収まったのを確認してベッドから体を起こした。

 水分を補給するために、キッチンに移動する。

 冷蔵庫の前まで来たとき、再びスマホが鳴った。静かな部屋に鳴り響くメロディと、スマホの振動音は私の心をざわつかせる。画面を覗く。あの番号だ。のどが渇いていたので、電話は取らずに、コップにお茶を注ぐ。お茶を一口飲み、息を吐く。電話はまだ鳴りやまない。

「はい、沖田です。」

緊張していた割に、電話には冷静に出れた。

「佐伯です。久しぶり。」

「お久しぶりです。朝の電話、取れなくてすみません。もう、かけてこないのかと思ってました。」

私は麦茶の入ったコップを持って、キッチンから部屋に移動し、先ほどまで横になっていたベッドに腰を掛けた。

「どうした?声、暗いみたいけど。」

彼の声は、こちらを慎重に窺っているように聞こえた。

「今まで寝ていたもので。寝起きなだけです。」

電話の声に応じながら、手に持ったコップを枕元に置く。枕元の時計は、午後四時を指していた。我ながら、怠惰に過ごしたものだ。

「風邪か?体調悪いなら掛け直すよ。」

人を気遣う優しい声色は、それを向けられることに慣れていない私にとっては、居心地の悪いものだった。

「別に平気です。何度も申し訳ないので。何の御用ですか?」

気遣いに、どう返答すればよいか分からずに事務的に会話を進める。すると、彼からは苦情が入った。

「お前、電話だと冷たくない?」

私は眉をひそめた。面倒な恋人のようなことを言うな、とは思ったが、さすがに口には出さない。なるべく、明るく聞こえるように私は言った。

「尊敬する佐伯大先生からのお電話で緊張してるんですよ。」

「嘘つけ」

間髪をいれずに、かみつくように反論してくる彼に、私は小さく笑った。しばらく軽口を続けたあと、彼は本題に入る。

「今度、講演してくれないか。」

「講演?」

私は、詳細を説明してくれるように促す。どうやら、進路指導の一環で、定期的に卒業生の話を聞く会を開催しているらしい。なぜ、私なのだろうか。

 彼は、私の英語の担当教諭ではあったが、直接的なつながりはそれだけで、彼が私の担任だったことはない。担任していたクラスの教え子たちに声を掛けるのが、セオリーではないのだろうか。

「他にいないんですか?地元の近くで働いてる子とか、いるでしょう?」

私は、素直に疑問を口にした。正直に言えば、気が進まない。子どもたちに説教ができるほど、偉くもすごくもない、平凡な人生を送っているつもりだ。

「大きな会社で働いている卒業生が少なくて。そういえば、この前、東京駅で会った奴がいたな、と思って。」

そういうことか。私は彼の言葉に納得する。田舎の自称進学校なんて、そんなものだろう。地元の近くを離れたくない子も一定数いるし、そうなると大きな企業なんてほとんどない。彼からすれば、使えるものは何でも使え、といったところだろうか。

 私は、しばらく逡巡してから口を開く。

「構いませんけど、いつですか?」

電話から声が聞こえなくなる。五秒程、沈黙していただろうか。私はスマホの画面を見つめた。画面には通話中の文字が表示されている。

「……先生?」

スマホを耳に当て直し、彼を呼ぶ。

「ああ、ごめん。受けてくれるなんて、意外で。」

今度は、私が口を閉ざす番だった。そう思うのならば、電話してくるのをやめてほしい。しかし、不用意にも名刺を渡したのは私の過失だ。

「まあ、尊敬する佐伯大先生のお願いですから。」

さっきから、そればかりだな、と彼は電話の向こうで笑った。彼は、こんなに砕けた風に笑っただろうか。私の記憶に残る彼は、いつだって生徒と一線を画していて、人気はあるのに、どこか近寄りがたい人だった。

「八月十日とかどう?来れそう?」

予定を確認した様子の彼が私に問いかけた。

「ええ、大丈夫です。」

「ありがとう。じゃあ詳細は、また連絡するよ。」

それだけ言うと、彼は早々に電話を切った。私も通話画面を閉じてスマホをベッドの上に放り投げる。そして、枕元に置いていたコップを手に取り、残りの麦茶を飲み干した。

 今日は静かだ。世界に私しか取り残されていないのではないかと錯覚するほど、外界から耳に届く物音はない。そのためか、自身の鼓動の音だけが耳につく。緊張していた。昔の私らしく話すことが出来ただろうか。彼の反応からすると及第点というところか。

私はベッドの隣の机の抽斗から一冊のノートを取り出す。ぱらぱらと捲ると、そこには、高校の頃の歴史が記されている。

二〇X三年二月二十五日

 受験日前日、先生が職員室で「大丈夫か?」と声をかけてくれた。それほど暗い顔をしていたのだろうか。国語の先生に質問をしに行った帰りだった。時間は十九時前だったにも関わらず、先生は、体格に似つかわしい、大きなマグカップを持って立っていた。カップの中からは淹れたばかりのブラックコーヒーの湯気が立ち上っていた。新婚なのに、帰らなくてもよいのだろうかと思いながら、先生たちも緊張しているのかなと少しだけ思った。コーヒー色が染み付いたマグカップは、今までの日々を感じさせた。

 突然話しかけられて、反応のできなかった私に、先生は言った。「俺の教科は何も心配してない。本当に伸びたな。」と。今まで聞いたことがないような優しい声で朗らかに笑った先生の顔を、私は忘れることはないだろう。そして、そんな先生を見て、私は、きっと、嬉しそうに笑ったのだと思う。悟られないように「別に緊張なんてしていません。」と、なるべくそっけなく返したのに、先生はさらに嬉しそうに目を細めて笑ったのだから。

 ノートの最後のページには、そう綴られている。暗記するほど読み返したページを開いたまま、私はノートをぼうっと眺めていた。

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