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[小説] 記し #16

「もういいんですか?」
 数ページしかノートに目を通していない俺に、目の前の彼女は言った。今なお、事の展開についていけない自分がいる。
「確かめたいことというのは?」
処理の追いつかない頭で、ようやく尋ねることができたのは、彼女が視聴覚室で発した言葉の真意だった。記憶をなくした彼女。彼女自身が俺に抱いているのは嫌悪感で、話しぶりから察するに、都の記した日記を読んでも、俺のことを思い出すことはなかったのだろう。そんな彼女が、十年たった今、これを渡すためだけに、俺に会いに来たというのには違和感が残る。駅で偶然会ったにせよ、講演なんていくらでも断ることができたはずなのだから。
 彼女は、少し考えて、静かに口を開く。
「まずは、記憶が戻るのかどうか」
彼女は、一言一言、丁寧に言葉を選ぶ。
「覚えているのかな、と思って」
彼女は、寂しそうに笑った。今日、この表情を見るのは何度目だろうか。今にも泣き出しそうに、不安そうに目を細めて笑う、その顔は無意識に俺の心を捉えて離さない。
「会えば、その時の気持ちが蘇るのかどうか、知りたかったんです。佐伯さん自体を思い出すのかもそうだし、記憶を思い出さなくても、日記に記された感情を思い出すのかに興味があった」
彼女は、そう言った。
「そこに、この気持ちは永遠だ、って書いてあるんです」
彼女は、俺を見て快活に笑った。
「あっけなかったな、と思って」
彼女は、くすくすと笑う。俺としては、複雑な気分だ。
「そして、記憶が戻らないのなら、それでもいい。高校の頃の自分が、誰かの中で生きていることを確認したかった」
要領を得ない俺を見つめながら、彼女は、続ける。
「だって、寂しいじゃないですか。自分にとってさえ、覚えてなくても全く生活に支障をきたすことのない高校生活なのに、誰にとっても記憶に残す価値もないような人生だった、なんて。日記の中の先生なら、高校生の沖田都が生きたことを価値のあるものだと証明してくれるんじゃないかと思いました」
彼女は、真面目な声でそう言った。
「本当にすみませんでした。ただの自己満足ですよね」
沖田都が生きた証明。そんなもの、どうやって評価するのだろう。俺は彼女に都のことを伝えることができただろうか。
「……結果は、どうだったんだ」
そうやって尋ねた俺に、目の前の彼女は静かに目を閉じる。
 そして、一息ついて俺の目を捉える。
「佐伯さんは、ずるいですね」
その視線に俺はたじろいだ。かつての都が、こんな風に俺の目をまっすぐに見つめたことは一度もない。自信家な都は、それに反して、いつも伏し目がちで、顔を上げていても、その視線が長くぶつかることはなかった。俺が知らないだけで、当時の都も、これほど強いまなざしを有していたのだろうか。
「最後に一つだけ、聞かせてください」
彼女は、そのまま続ける。
「もしも、佐伯さんの知る沖田都が、告白したなら、何と答えましたか」
彼女の眼差しに圧倒されながら、俺は目を閉じる。どのくらいの時が経っただろうか。それでも、俺は考え続ける。都が、この場にいたのならば、と。
 時計の秒針が時を刻む音だけが教室に響く。思い入れは、ある。卒業の日、「お前みたいなやつは、もう、いないだろうな」と伝えたように、教えれば教えるだけ知識を吸収していって、教える側としては最高に楽しかった。机にかじりついて勉強するようなタイプではなくて、教師に対して小生意気な態度をとるような、ふざけた生徒だったが、決して憎めなくて、都のクラスの授業に行くときには、少し早く教室に入っていたくらいだ。しかし、それ以上の言葉を、ここで口にする気はない。
「さあ、な」
俺が口に出せたのは、それだけだった。そんな仮定に意味なんてない。そして、目の前の彼女に、その答えを告げることにも意味はない。
 しばらくの沈黙の後、「そうですか」と彼女は悲しそうに微笑んだ。「差し出がましい質問でしたね」と。
「なあ、俺も一つだけ聞いていいか」
彼女は、こくりと静かにうなずいた。
「どうして、今、なんだ。今まで会いに来るタイミングなんていつでもあっただろう」
彼女は、きょとんとした顔をした。
「佐伯さんは、沖田都の全ての行動には裏付けされた理由がある、とお考えですか?」
佐伯さんが思うほど、沖田都の頭は良くはありませんよ、と、自身のことを馬鹿にしたように笑って、彼女は続ける。
「大した理由なんてありませんよ。逆に、「いつ」なら、納得してくれるんです?一年前?それとも二年後?」
と、彼女はさらに続けた。俺は回答に窮する。俺は、一体、彼女に何と言ってほしかったのだろう。そんな俺を目前にして、彼女は畳みかけるように言った。
「私が、いつ会いに来たとしても、佐伯さんの納得する沖田都とは会えなかったと思いますよ」
彼女はにっこりと微笑んだ。その整った笑顔を向けられた時、全てを理解した気がする。

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