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[小説] 記し #11

 テニスコートは、校舎から少し離れた位置にある。今日も暑い。病的に肌の白い彼女を見ていると、理由もなく不安になる。倒れないだろうか、などと、元副キャプテンに向かって失礼だろうか。テニスコートを取り囲むフェンスに張り付いて、様子を見学する。部活中の生徒たちが出す声と、ボールを打つ音が、少々うるさいくらいに響き渡る。

 しばらく見学していると意を決したように、彼女が俺に話しかけてきた。
「私が、泣いた日のこと、覚えてますか?」
のどから絞り出すような問いかけはかすれていて、彼女の緊張を感じさせた。少なくとも講演では、聞かなかった声だ。
「ああ」
 俺は、返事をしながら、十年前を振り返る。忘れもしない。沖田が二年の夏。部の新体制が始まって間もなくのことだ。たまたま、見に行った部活の練習で、沖田が水をかぶっているのを見た。豪快なことをするな、と思って見ていた。普段、教室で見せる静かなたたずまいからは想像もできない。言っては悪いが、到底、女子がする行いではない。
 水を止めた沖田は、顔を上げることなく、水をふき取り始めた。乱雑に髪をふき、顔を拭う。顔を覆ったタオルから、なかなか顔を上げることはなくて、具合が悪いのかと心配になった。あの日も暑かった。熱中症ということも十分に考えられる。声を掛けようかと、近づこうとした瞬間、沖田は、持っていたタオルを芝生に投げ捨て、走り出した。目元が赤かったように見えた。沖田の頬を伝ったのは、汗なのだろうか。様子のおかしい生徒を、そのまま見過ごすわけにも行かない。俺は後を追いかけた。コートが見えなくなった場所で、沖田は佇んでいた。Tシャツで何度も顔を拭っていた。沖田は、静かに泣いていた。
 何でもできる生徒だった。いつだって飄々としていて、冷静で、授業中も、教師の間違いを臆することなく指摘してくる。自分が優れている絶対の自信があって、価値があることを分かっていて、教師に対しても強気だった。惜しむらくは、沖田には闘争心や執着心と言ったものが備わっていなかったことだ。テストで間違えようが、トップを逃そうが、沖田にとっては、どうでもいいことのようだった。悔しそうにしているところを見たこともなければ、「ひたむきな努力」なんてものからも、沖田は遠いところにあったように思う。そんな沖田が、涙にくれる姿に出くわすことがあろうとは、誰が想像しただろう。
 負けたことが悔しいのだろうか。それにしても、俺の知る彼女は、とても負けず嫌いという言葉とは結び付かなくて、ただただ戸惑うしかなかった。掛ける言葉は見つからなかった。沖田から発せられた、「誰?」という低い問いかけ。その声は、他人を拒絶していて、話を聞くことは許さないと暗に言われた気がした。それでも、大丈夫か、と声を掛けた俺に、沖田は精一杯の強がりを見せた。それ以上、何を聞くことができただろう。当時、彼女と仲が良かったわけでもない。話したことなんて、ほとんどなかった。成績の良い生徒。俺にとっての沖田の価値は、それだけだった。彼女にとっても、俺はたいした認識なんてなかっただろう。それどころか、あの時の反応を見るに、俺は彼女に好かれてはいなかったのだろうと思う。その後、校内で見かける彼女は、普段通りで、あの日の光景は、俺の見間違いだったのではないかと思う日が続いた。
「あの日のことは、私も覚えています」
彼女は、前を見据えながら、言葉を続ける。彼女の浮かべた表情は、後悔、だろうか。痛ましい過去を思い出して諦めるように、そしてどこか呆れた様に彼女は笑った。
「でも、思い出せる記憶は、その時期くらいまでですね」
しかも、それ以前の記憶も断片的なのだと、彼女は言った。

 ガシャン、とテニスボールがフェンスにぶつかる音がする。サーブの練習が始まったらしい。次々と、ボールが撃ち込まれる。
「あの子、」
と彼女が指を指した。俺は、彼女の指の先を窺う。何の特徴もない、普通の男子だ。
「うまいですね。フォームがきれい」
正直、テニスのことなんて分からない。何年か副顧問をやっていた時期はあるが、ほとんど顔を出してはいない。それでも、沖田が真剣に練習に見入っているので、俺もテニスコートの景色を眺める。練習は、ラリーへと移った。ボールを打つ子気味のいい音が、夏の空に響く。
 どのくらい、眺めていただろうか。
「私、あの時、佐伯さんのこと嫌いだったんですよね」
と、彼女が呟いた。俺は、その言葉に少したじろぐ。面と向かって嫌われていたことを指摘されるのは予想していたことであっても傷つく。
 しかし、今更、だからと言ってなんだというのだろうか。俺のことが憎らしくて、訪問したわけではあるまい。彼女には問いたいことが多すぎる。俺は彼女の顔を見た。 

 そして俺は頭を抱えた。明らかに顔色が悪い。
「中、戻りましょうか」
体調が悪いことを察せられまいとして言ったのだろう。しかし、その言葉は遅すぎた。そして提案は良いのだが校舎までは距離がある。無理をしていることは明らかで、見て見ぬふりはできなかった。とても、校舎までの距離すら歩くことはできそうにない。俺は建物の影まで彼女を連れて行く。コートの後ろは寮になっている。寮とは言っても、僻地から通う生徒のために建てられたもので、定員は十名ほどの小さなものだ。しかし、ちょうど建物の影になるところにはベンチもあり、休むのにはちょうどいい。俺は彼女を座らせた。影に入っても気温はほとんど変わらない。直射日光を避けられるだけまし、と言ったところだろうか。彼女は想像以上にしんどかったようで、膝に肘をつき頭を膝の間に沈める。きれいな格好が台無しである。
「貧血、だな」
彼女は地面に向かって「本当にすみません」と、情けない声を出している。今までの余裕のある表情との落差に俺は笑う。「ちょっと待ってろ」と俺はベンチの隣の自販機で水を買った。そして、そのまま、うなだれている彼女の首に当てる。驚いたのか、彼女の肩が跳ねた。しかし、頭を上げることはない。俺は眉間に皺を寄せて彼女を見降ろした。
「ちょっとは飲んだほうがいいんじゃないか」
数秒の沈黙の後、
「今、頭上げるのが辛くて」
と辛うじて返答があった。意識的に深く呼吸をしようとしているのが見て取れる。しかし、なかなか落ち着かない。
「おい、吐いてもいいから、一口飲んでみろ」
吐いたら救急車を呼ぶつもりだった。そもそも、飲めないようなら、重度の熱中症だ。彼女は、首に当てられたペットボトルを自分の手で掴み、キャップを回そうとする。力が入らないのか、早々に開けるのを諦める。俺は、彼女の手からペットボトルを奪った。キャップをひねる。
「ほら」
と彼女の手に持たせる。何秒かそうしていたが、やがて、スローモーションのように体を起こして、ゆっくりと空を仰ぐ。一口、二口と水を口にした彼女は、飲みかけのボトルを俺に渡し、今度は上半身だけベンチに横になった。もう少し、恥じらいを持てと思うのは病人に酷だろうか。うわごとのように口が動く。何と言っているかは聞こえない。仕方がないのでしゃがんで声を拾う。
「もう少ししたら、楽になると思います」
彼女の真っ赤な唇から発せられる吐息交じりの声。俺はキャップを閉めながら立ち上がった。
「何か話して下さい」
まだ話すのがしんどそうだが、声は先ほどよりは、はっきりとしている。楽になる、という言葉は信じてもいいらしい。
 しかし、何か話せと言われても、困る。悩んでいると、彼女がお題を投げかけてきた。
「私が、高校に通ってた時のこと」
 沖田が高校に入学した年、俺は教員生活三年目で、初めて一年生のクラスを受け持った。沖田のクラスではない。普通科の特進クラスだった。沖田が一年の頃、沖田とはほとんど交流がなかったし、特に気に留めたこともなかった。テストで毎回、上位に名前が載っていたのは知っていたが、その程度だ。夏頃だっただろうか。沖田のクラスの英語の成績が悪く、特別補講を行うことになったのは。成績が悪い、と言っても学年でトップを誇るクラスの生徒たちである。他の教科に比べて平均が低いと言うだけで、決して酷い成績ではなかった。だから、なんてことはない、普通の模試対策の講座を開いた。基礎はあるのだから、あとは慣れの問題だ。放課後に週一度のペースで任意で開催した講座。運動部の奴らは参加しないやつが多かったが、沖田は講座に参加していた。ただ、これといって思い出はない。当時、ずば抜けてできる風でもなければ、逆に、間違いだらけ、ということもない。英語に関しては、普通だったように思う。
 それから、しばらく、講座で課していた英作文の解答を添削していると、やたらと丁寧に取り組んである解答用紙を目にするようになる。名前を確認すると、そこには、いつも沖田の名前があった。日本語を、どのようにかみ砕いて、自分の書ける英語にするか、どの英単語を使うのか、答案というのは不思議なもので、生徒がどのように課題に取り組んだかがよく分かる。沖田の選ぶ言葉は、よく調べているのだろう、ニュアンスをよくとらえていて、文法的な間違いはいくつかあるものの、読みやすい文章だった。その割に、どうでもいい単語をスペルミスする。スペルミス、なのだろうか、二年で英語を担当したとき、期末テストの答案に「tea」を「tie」と書き間違えていた時には、盛大に吹いた。恐ろしいのは、そんな馬鹿なことをしていてもテスト自体の点数は九割を超えていて、当時、クラストップの座から一度たりとも落ちたとがなかったことだ。頭がいいのか、抜けているのか、よく分からないやつというのが彼女の印象だった。
 それは、英語以外の教科でもそうだったようで、受験を目前にした三年の一月、古典の添削で「難しい文法はばっちりなのに、こんな簡単な単語も知らないのか」と、隣の国語教師が頭を抱えていたのを見た覚えがある。沖田は、飄々としていて、「担任が、国語なんて勉強しなくていいって言ってたので、ほどほどにしか勉強してません」と悪びれずに、告げていたのを聞いたとき、俺は思わず吹き出した。すぐ後ろで話を聞いていた彼女の担任も、その話を聞かされて「まあ、それはそうでしょう」と返すのだから、この担任にして、この教え子ありと言った風ではあったのだが。彼女からすれば、二次試験で国語の試験を課すようなレベルの大学を受ける予定はなかったのだから、当然と言えば当然だったのだろう。それにしても、受験を二か月前に控えてあの態度なのだから、大物だったと思う。
「変な奴だったな、と思うよ」
回想を終えて、俺が彼女に言うことができたのはそれだけだ。
「変な奴、ですか」
彼女は俺の言葉を繰り返して見せた。そして、一呼吸の間をおいて静かに俺に問う。

「佐伯さんにとって、沖田都は特別な生徒でしたか?」
―――俺は、その質問に答えることができなかった。

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