[小説] 記し #13
「佐伯さん、よくここで、私と会いませんでしたか?」
彼女は、俺に向かって問いかけた。突然の問いかけに面食らう。十年も前の話だ。正直、どこで何の会話をしていたかなんて覚えていない。そんな俺の思考を知ってか知らずか、彼女は話を続けた。
「今日、案内してもらって分かりました。ここ、佐伯さんが言ったように私のクラスからだと移動教室の遠回りなんですよ」
突然の告白に俺は顔をしかめる。さっき、俺が言ったことを、わざわざ繰り返す意味も分からない。
「先ほどの地学室、日本史の授業の教室だったんです」
確かに、三年の理系クラスは日本史か地理を選択して授業を受ける。例年、理系で日本史を選択する生徒は少ない。暗記の量が増えるからだ。たいてい、人数が少ない方が教室の移動をするので、沖田が日本史を選択していたのなら、教室の移動があっただろう。それが地学室かどうかまでは知らないが。
そこまで考えて、俺は、ふと疑問に思った。記憶がないと言う割に、要所要所で過去の話をしている気がする。情報のソースはどこから来るのだろう。
「それと、物理室からも」
物理室は、地学室の隣にある。そういえば、と思い出す。理系クラスなのに生物より物理をとっていた生徒の方が少なかったのは、長い教員生活の中で、沖田の代くらいだった。よく、あいつの担任が、本当に理系なのかとぼやいていたことを覚えている。しかし、彼女が高校の頃に移動教室で使用していた教室が、一体、今、何に関係があると言うのだろうか。話の先が見えない。要領の得ない俺の表情を眺めながら彼女は、そこで話を区切った。
「教室に向かいましょうか」
彼女に促されて廊下を道なりに歩く。まっすぐ行った突き当りが、彼女のいた教室だ。一年の頃の記憶は少しはあると言うので、多少の懐かしさはあるのかもしれない。彼女のクラスは学年で唯一の理数科で、教室の位置は校舎の端。一年の時は三階、二年の時は二階、三年の時は一階と、位置はそのままに階数が下がるだけだ。理数科のクラスだけは廊下の突き当りがそのまま教室になっているので、廊下の幅分教室が広い。教室が広いと言っても、本来廊下である部分と教室を仕切る部分には柱が一本立っているので、教室として使える空間は他のクラスと変わらない。解放感はあるし、他のクラスが廊下にロッカーがあるのに対して、教室内にロッカーがあるので、便利、かもしれない。……あまり、変わらないか。
教室に着いて、隣の彼女を見る。彼女の表情からは、気持ちを推し量ることはできない。
「時間もないので、終わらせましょうか。」
時計は、五時を指している。にこりと笑った沖田は席に着いた。一番前の真ん中の席だ。俺は少し考えて、教卓に立つ。
「一番前の席って、首が痛くなるんですよね。佐伯さんの身長も高いですし」
彼女はふふっと笑った。
「話が終わるまで、黒板の方、向いててもらえますか」
怪訝に思いながらも、言う通りにする。もはや、俺に主導権はない。後ろで、紙を捲る音がした。そして、唾を飲み込む音が聞こえる。張り詰めた沈黙。どのくらい、待っていただろうか。静かな彼女の声が、俺の耳に届いた。
二〇X一年十月二十六日
「よく、勉強してありますね」先生は、いつも、そう言いながら答案を返してくれる。正直、英語は嫌いだった。一年の頃の先生とは馬が合わなかった。授業を聞いてはいたけど、教科書のどこを学んでいるかもよく分からないし、文法なんて、一体何の話をしているのか見当もつかなかった。先生に授業を持ってもらうようになってから、意識が変わった。教科書の内容が面白いくらいに頭に入るようになったし、単語や文法の定着率もいい。先生に授業を持ってもらうようになってから、成績は、グンと伸びた。授業は先生との勝負だ。答えられなかったら私の負け。今月は、先生の授業で、毎日当てられていた。昨日は二十五日だから、当然のように当てられた。出席番号で当てるなんて芸がないな、と思いながらも、予習は入念にやっているから、間違えることなんてそうそうない。目があった瞬間、先生の口元が少し緩む。つられて私の口角も上がる。そこから発する「沖田さん」という低い声。難しい問題を隙なく解答できた時は、「むかつきますね」と憎まれ口を叩かれる。先生と、そんな掛け合いをすることが楽しい。
昨日は日直でもあった。黒板を力の限り消していたら、先生が「すみません」と謝ってきた。先生の筆圧が強すぎて、黒板が消えなかったから。消しゴムで消すように、何度も黒板消しで黒板をこすった。四苦八苦していると先生が、黒板を消すのを手伝ってくれた。お礼を言うついでに世間話をした。
「今月、パーフェクトで当てられてるんですけど」
そう言ったら、先生が吹き出した。そんな苦情を言われたのは初めてだと笑っていた。そういうつもりで言ったわけではなかったのだけれど。先生は授業のポリシーを語ってくれた。教室の前で小さくまとまった授業はしたくないそうだ。なるべく後ろの生徒を当てるようにしているらしい。
そして、翌日の今日、先生は、席順に生徒を当てていたのにもかかわらず、私を飛ばした。「昨日苦情を受けたので。」と言いながら、私の方を見て、目を怒らせる。もちろん、ただのポーズだと分かっているから、私は、先生に向けて笑いながら会釈する。でも、心の準備なしに当てられた隣の男子には申し訳なかった。
―――日記、だろうか。突然始まった朗読に、戸惑った。しかし、そんなこともあったな、という懐かしさが心を支配する。昔は、出席番号が男女で分けられていて、男子の後に女子が続く形だった。理系クラスの男女比は男子の方が圧倒的に多く、女子が二十番台から始まることは珍しくなかった。
沖田が、俺のことを内心褒めていたことに関しては、寝耳に水だが、在学中、あいつが素直だったことなんて、一度もない。
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